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オレ流の文章作法。
デビュー前に書いたものだからちょっと拙い部分がある。
それでも、公募にチャレンジする書き手にとって参考になるものがあるかもしれない。
恥を忍んで掲載しよう。
ただし、未完。

無断転用不可


 1、説明と描写の違いは?

いきなり、執筆の核心です。

 では、例文から。
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私が病室を出るとき、おじいちゃんが私に向かって小さく手を振った。
私は少し頭を下げるとその場を離れた。
廊下に出て私は窓の外を見た。雪を頂いた立山連峰が見えた。
きれいだと私は思った。
それが最後になるなんて、そのときの私は思いもしなかった。

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                   宮ノ川顕著 「蜃気楼の冬」 北日本文学賞一次落選。

ヘタですねえ。
まあ、端的な例として更にヘタに改稿したのですが。(著者の名誉のため・・・)
それでも、読み返す気になれないほどヘタです。
目も当てられない、読むに耐えないとはこのことですね。

内容は、女子高校生の私が、死んだ祖父の葬式に行く話です。
主人公は棺桶におさめられた祖父の枕元に落ちていた一本の髪の毛を拾う。
それを、こっそり持ち帰って、今は住む人もいなくなった祖父の家に向かう。
そして、祖父が大好きだった庭。
蜃気楼が出るという海が見える庭の片隅に埋める、というストーリー。

例文は、入院したおじいちゃんのお見舞いにいったときの回想です。
あんなに大好きだったのに、そして子供の頃に可愛がってもらったのに、
何故かつれなくしてしまったことを後悔しています。
年頃の子供にはよくある心理ですよね。

どうして、一次選考も通過できなかったのでしょうか?
北日本文学賞は、応募作の半数近くが一次選考を通るので有名かつ人気の賞です。
前年の同賞に応募した際に、最終には残れなかったとはいえ、
批評が掲載される辺りまでいったので、それで、天狗になっていたのでしょうか?
あるいは、正月の紙面を飾るのに葬式の話はふさわしくなかったのでしょうか?
それとも、私に女子高生の一人称小説は無理があったのでしょうか

どれも、間違いではないと思います。
でも、それだけなら一次選考くらい通過してもよさそうだ。
最大の原因は他にあると考えています。

全てが説明なんですね。

私が病室を出た。
私におじいちゃんが手を振った
私は廊下に出た。
私はきれいだと思った。
私はそんなことになるとは思いもしなかった。

ああ、よくわかりますね。だって懇切丁寧に説明してありますから。

具体的に話を進めましょう。
「私」が問題なのです。(当たり前だといわないでくださいね)
説明と描写。 抽象的なようで、意外と簡単な理屈です。
「私は走った」と、書けば、走った私の説明です。
ですが、ただ、「走った」と書いたら?
これは、何も説明していない。
走ったという現象だけがそこにある。
それでは、誰が走ったのかわからないじゃないかって?
それは、前文の段階で分かるようにしておけばいいのです。

さて、では私を抜いて書き直してみましょう。
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病室を出るとき、おじいちゃんが小さく手を振った。
少し頭を下げてその場を離れた。
廊下に出て窓の外を見た。雪を頂いた立山連峰が見えた。
きれいだと思った。
それが最後になるなんて、そのときは思いもしなかった。

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どうですか?
ん? まだ説明っぽいって? そうですね。でもだいぶ良くなったと思いませんか?

いずれにしても、

 徹底的に主語の省略を行ってください。(特に一人称の場合)

これを行うことによって、説明してしまてっている部分の半分以上は解消されると思います。
これができているだけで、北日本文学賞の一次は通るでしょう。
なお、主語の省略には、●検索法をお勧めします。(後日解説します)

さて、どこに問題があって、描写に説明色が残っているのでしょうか?
語尾に注目してください。
全て「た」で終わっていますね。
それで、文章のリズムが悪くなっているのです。
リズムが悪いので文章がたどたどしい。
だから内容がすっと頭に入らずに、どこか説明口調に感じるのです。
これを変えましょう。

もちろん語尾が「た」の連続であっても、見事な描写は可能です。
それどころか、井上ひさし著「自家製文章読本」に、掲載された例文などは、
生き生きとして、端正で、気品に満ちている、まったく素晴らしいものでした。
川端康成著「伊豆の踊り子」ですから当たり前といえばそれまでですが。

当然私に川端先生の真似ができるはずもありません。
迷うことなく、語尾を変える手法で、文章を整えてみましょう。

 2、たるだったの法則

これを見つけたときは、うれしかったですね。
書き始めたばかりの頃でした。
語尾の悩みは深く、一行書いては消し、二行書いては破りという状態でした。
・・・た。 と書けばいいのか、 ・・・る。 とするべきか、 ・・・である。というのはどうだ。
悩みに悩みましたね。
そんなある朝のことです、新聞小説を読んでいました。
乙川優三郎著 「生きる」
後に直木賞を受賞する作品です。

なんとなく語尾に目をやっていて、気がついたのです。
文節がだいたい三文に分かれていて、その文の語尾のことごとくが、
・・・た。 ・・・る。 ・・・だった。
と、なっていたのです。
数えたわけではありませんが、約80%くらいはその法に則っていました。
中には ・・・た。 ・・・だ。 ・・・った。(である) などという、亜流もありましたが、
原則として、 過去 - 現在 - 過去完了(違うかな?)他 の、配列です。

これは、画期的な発見でした。
さっそく、自作に応用しました。

すると、どでせしょう。アラ不思議。
今までの苦労が嘘のようにすらすらと・・・と、いうほどではありませんでしたが、
拠り所が見つかったために、迷いが消え、その分だけ書けるようになったのです。
しかも、書いた文章が小説のそれっぽくなっている。

では、さっそく例文に当てはめてみましょう。

と、いっても、そのまま語尾だけ変えることはできません。
当たり前ですよね。
ポイントはここです。
語尾変化に合わせて、文を組みなおしてください。
あるいは、書き直してください。
ようするに、語尾を決めてから、遡って文章を綴るのです。
そうです、いつもの逆をやるのです。

では、やってみますね。

**********************************************************************
母の後について病室を出た。
薄暗い廊下の窓から立山連峰が見える。
山頂に積もった雪が夕陽に輝き、悲しいくらいに美しかった。
少し頭を下げてその場を離れた。
半身を起こしたおじいちゃんが小さく手を振っている。
それが最後の姿になった。

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どうでしょうか?
上手下手はともかく、説明から脱却して、描写に近づいたと思いませんか?

描写と、説明の違い。
それを明確な言葉で言い表すことはできません。
あえていうなら、描写とは、その場面を鮮やかに活写する、ということでしょうか。
そこにあるものを、そこにあると書くのではなく、
読者の目前に映像として写してみせるということ。
ここで私がやってみせたことは、
主語を省略して、語尾に気を配ること。
描写のための一例です。

 描写とは修辞のテクニックなのです。

つまり、コツさえ会得すればそれほど難しくはないということです。

もちろん、「たるだったの法則」は、それを適用しさえすれば、
いい文章が書ける、というものではありません。
ただ、何回書き直しても、どうもしっくりこない。
そうしても、うまく表現できない。
そんなときには思い出して使ってみてください。
なぜか、すんなりと文章が綴れるときがありますから。

では、次にいきましょう。

えっ? ちょっと不満が残ってるって?
そうかもしれません。
でも、ここからは、あなたが自分で考えてください。
傷を探し、磨きをかけ、あなたにとって完全なものにしてください。
この先は私の立ち入るところではありません。
あなたが書くべきものは、あなたの小説なのですから。


さて、次はリアリティーについて、考えてみましょう。

 3、独白とリアリティー

さて、「独白」というと、あなたはどんな文章をイメージしますか?
「罪と罰」? ドストエフスキーですね、そうそう、あんな重厚長大かつ深遠な文章こそが、
「独白」と、いうのにふさわしいですね。

でも、オレ流の独白は、もっと軽薄短小かつ浅薄な一文です。

さっそく例を挙げて説明しましょう。
やまなし文学賞佳作の『ハンザキ』からの抜粋です。

突然降り出した豪雨のために、川が増水し、自分のクルマに帰れなくなった主人公は
細い道の先にあった、山奥の古い民家に泊めて貰らうことになります。
激しく降る雨の中、家の外にあるという便所に行く場面です。

**********************************************************************
おそらく、測候所の気圧計は、
今頃今日の最低数値を示しているのに違いない。

顔に吹きかかる雨粒に顔をしかめ、
風に翻る丹前の裾を気にしながら用を足していると、
家の裏手に墓が見えた。

**********************************************************************

うん、いい感じですね。
吹き荒れる風雨の中、胸までの高さしかない板に囲まれた便所で、
用を足している様子が目に見えるようですね。
えっ? 独白がない?

そうそう、言い忘れました。あらかじめ削除したんです。

悪くない描写だとしても、ちょっと臨場感に欠けると思いませんか?
このままでは、その様子がまるで傍観者からの視点のように感じられますよね。
だから、読者であるあなたの顔は、乾いたままだ。

そこで、独白を入れることとによって、あなたを主人公の中に入れてしまおうと試みたのです。
以下、独白入りの原文です。

**********************************************************************
おそらく、測候所の気圧計は、
今頃今日の最低数値を示しているのに違いない。

まるで台風だな。
顔に吹きかかる雨粒に顔をしかめ、
風に翻る丹前の裾を気にしながら用を足していると、
家の裏手に墓が見えた。

**********************************************************************

どうです?
雨に濡れませんでしたか? 強い風を感じませんでしたか?
まるで、山奥の民家の外便所であなた自身が用を足している気になりませんか?
(自画自賛はお許しくださいね 笑)

そうです。
短い独白を挿入することで、視点を主人公のより内側に移したんですね。
独白がない文章の場合、読者は主人公の目を使って世界を見る。
しかし、独白という、内面の呟きを取り入れることで、
読者は主人公の内面に入り込み、主人公の心を通して世界を見ることができるのです。
皮膚感覚から、内臓感覚に移行した、とでもいえばいいでしょうか。
つまり短い独白は、読者を小説世界のより内部に引き込む効果があるのです。
リアリティーの増幅装置ですね。

えっ? なんだ、そんなことかって。
ならいいんですが、あなたは、それを意識的に使っていますか?

ここは主人公が”台風のようだ”と、思いながら用を足す場面です。

あなたが作者だとして、それを表すのに、
「地の文」がいいか、「会話」にするべきか、迷ってから「独白」を選びましたか。

「まるで台風ですね」(会話文)
まるで台風のようだった。(地の文)

などとの比較をしましたか?
そのことを含めて、分かっているなら申し分ありません。
あなたは、私より間違いなく筆力があるでしょう。
私がいいたいのは、こういうことです。

 効果を意識して文章を綴ること。

「なんとなく」 ではいけません。
100枚の原稿でも500枚の原稿でも同じです。
一字一句、その行間にいたるまで、原稿の中のありとあらゆるもに
意識を働かせ、あなたの魂を込めてください。
少なくとも、そうするように心がけてください。

はい。もちろん私はできていません。
ただ、そうありたいと願っているだけの怠け者です。
それと、ご賢察の通り、丸山健二氏の真似だということも、
念のため併記いたします。

面倒でも、頭が痛くても、訳がわからなくても、
懸命にそうするうちに、やがて自然に筆が進むようになるといいます。
聞きかじったところでは、そなうるまでに、ダンボール一杯分の原稿用紙。
時間で言えば、毎日書き続けて3年が必要だそうです。


もっとも、リアリティーと引替えに失うものもありますから、
取り扱いには注意が必要です。

えっ? 失うものとは何かって?
僭越ながら「格調」だと考えています。
ただし、私レベルのモノ書き志望の場合ですが・・・。


 4、アイテムとエピソード

リアリティーのある文章をモノするために、
私が良く使うテクニックに、アイテムとエピソードがあります。
それぞれ、暗喩(隠喩)の一種だと捉えてもいいでしょう。
それらを上手に使うと、読者に対して、それとなく人物を知らせたり、
物語の方向性をほのめかすことができると考えています。
作品にリアリティーを与え、読者がより作品に入り込みやすくする装置というわけですね。

ここで、言い訳をひとつ。
ここに書いている文章作法は、あくまで私が、
なんとか更に上のランクを目指して書き留めているわけですので、
有名プロのそれとか、名作のなんとか、などと比較なさらによう、
くれぐれもご確認をお願いいたします。

さて、続きです。

ひとりの男に登場してもらいましょう。
電車の中で本を読んでいることにします。
週刊誌? それとも哲学書?
それで、ブルジョアジーとプロレタリアを書き分ける?
まあ、そうですね。
でも、それではあまりにも簡単すぎて、いくらなんでも、
わざわざここに記す必要はなさそうです。

もっと、個人と深く結びついた小道具を用意したいですね。


では、また例文を持ち出してみましょう。

****************************************************************************
「ほら、きれいな川」
初美はそう言って大介の気を引こうとしたが、
六年生にしては身体の小さい息子は、四人掛けの座席の向かいに深く腰掛けたまま、
昆虫図鑑から目を上げようとはしない。
やはり父のいない帰省が寂しいのだ。
そう思って下を向いた顔を覗き込むと、小鼻が僅かに膨らんでいた。
車内には東北本線の懐かしいような悲しいような匂いが満ちている。
きっとあの小さな胸も、この匂いでいっぱいなのだろう。
亡くなったおとうさんが誕生日にくれた図鑑だものね。
そう思ったら、鼻の奥がつんとした。
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                              宮ノ川顕著 「夏のきらら」

さて、お分かりですよね。
「昆虫図鑑」です。
このアイテムを大介に持たせることによって、
物語が動いて、彼の趣味やら性格を、暗に示すことができたわけです。
また、亡くなった父親との関係についても、自然に言及できたと思います。
アイテムがそのまま「誕生日に買って貰った」というエピソードにも繋がっていますよね。
ただ、昆虫好きだと説明するより、より具体的でリアルな人物像が描けたのではないでしょうか。

次はエピソードです。
これも、同じく「雷神山にて」より例文をあげてみましょう。

****************************************************************************
大介とふたりで夕飯の買い物をしていたときのことである。
「ぽーちゃん」
偶然に出会った同級生の女の子達は、用もないのに口々にそう大介を呼ぶと、色
とりどりのスカートを翻して走り去っていった。
****************************************************************************

大介の性格をより鮮明にするために挿入したエピソードです。
人物を細かく描写するよりも、象徴的なエピソードを配置した方が、
読者も感情移入しやすくなるのではないでしょうか。
だからといって、人物が登場するたびに、これを行えばくどくなるし、
あまり長いエピソードでは、意趣が強くなり過ぎるので、
全体のバランスを考えることが重要になるでしょう。


さて、始めてからずっと技術的なことばかりでしたから、そろそろ飽きてきましたね。
文章の細部をつつきまわすのにも、ちょっと疲れました。
ここらあたりで、少し抽象的なお話をしてみましょう。



  5、テーマは後からついてくる

この「小説のテーマ」は何かとか、「言いたかったことは」などということを、
言ったり考えたりすることがあると思いますが、
書き手として、小説に関わっていきたいのであれば、
そのことについて、深く考える必要はないと思っています。

なぜなら、「テーマ」や、「言いたかったこと」が良くない、ということは、
基本的にあり得ないと思っているからです。
ある書き手が、小説を書きたいと思ったとき、彼の頭のなかにある物語は、
きっと、最高の小説であるのに違いありません。
なぜなら、初めから凡庸な作品を書きたいと願う者などどこにもいないからです。

しかし、書き上げてみると、当初思い描いていた作品世界の、
およそ半分も表現し切れていない。
でもそれは、「テーマ」や「言いたかったこと」が原因ではないはずです。
書きたいと考え、時間を工面し筆を執ったのです。
平凡非凡の違いはあっても、世界感自体が悪かろうはずはありません。

うまく伝わらないのは、具体的に表す手法に問題があるからなのです。

さて、私の場合ですが、自作について「作品で言いたかったこと」を問われたとしたら、
不遜を承知でこう申し上げることにしています。
「ここに記された一字一句、いやその行間までも含めた全てです」と。
(実際は人間の死生観を表現したかった、とかいったりもしますが、それは置いといて・・・)

文芸というものは、徹頭徹尾人間を表すことだと考えています。
小説とは、その人間が描かれた作品世界です。
私は、文字を使って新しい世界を表すことにいつも神経を集中しています。

画家が絵の具を使って立体を平面に描き取るように、
文章を使って人間を原稿用紙に書き写す。
描き出された登場人物が語ることは、もちろん作者である私が決めますが、
その言葉を聞いた読み手が、それをどう受け取るかは、書き手である私の問題ではありません。
そして、描かれた人間がリアルであればあるほど、
読み手によってその人間像が変化すると考えています。
現実の人間が相手によって良くも悪くも映るように。

つまり、その作品が素晴らしければ、素晴らしいほど、色々な読み方ができるということです。

人間を生々しく出現させることが、書き手の使命です。
もちろん、「テーマ」を設定すうることも、「言いたいこと」を込めるのも、
間違ったことではないでしょう。

しかし、 作者の「言いたかったこと」も、「テーマ」も、最終的には全ては読者にゆだねられるのです。
作者の意思は必ずしも要求されていない、ということも、頭に入れておいたほうがいいかもしれません。



 6、推敲は木彫に似たり

さて、推敲について、お話ししてみましょうか。
推敲っていうと、削るというイメージがありますよね。
私も基本的にそれでいいのだと思います。
とにかく不要な部分を切り捨てる。
単語や表現の重複などに良く注意して、とにかく削る。
極端な話では、倍書いて半分に削るなんてことを聞いたこともあります。

まあ、そんな感じでいいのだとは思いますが・・・
でも、どこかニュアンスが違うような気がしませんか?

そこで、こんな話に例えたらどうでしょうか?

私の父親は彫刻家です。(有名ではないですが)、
本職は塑像彫刻なのですが、あるとき木彫について、こんなことを言っていました。

「この間の展覧会のときだけどよ」
「うん」
「木彫の弥勒菩薩リューゾーが出品されてたんだけどな」
「うん」
「その前でよ。素人がこんな話してたんだよ」
「何?」
「木彫って、削り過ぎたらどうするんだろうってよ」
「へえ」
「間違って、小指の先とか鼻の頭とか、切り落としたらどうするんだろうってさ」
「ふうん」
「アホな話だよな」
「そう・・・?」
「そう? って、おめえ・・・」
「だって、実際に削り過ぎたら、どうするの?」
「おめえ、それでも俺の息子か?」
「だって小指が折れたからって、接着剤でくっつけるわけにはいかないんでしょ」
「アホ。これだから素人ってのは困るんだよ」
「何で?」
「木彫に削り過ぎなんて、ありえないんだよ」
「へえ」
「いいか。仮にも木彫のプロが仕事してるんだぜ。木彫作家だぜ」
「うん」
「小指の先だとか、鼻の頭だとか削るのに、鰹節でも削るようにするとでも思ってるのか?」
「なるほど」
「そんなところを彫刻するんだから、当然慎重に彫刻刀を扱うだろ」
「そりゃそうだ」
「それで、小指の先が欠けるなら、木彫作家なんて止めろってことだ」
「そりゃそうだね」
「木彫ってのはな、どこまで削れるかが勝負なんだ」
「なるほど」
「もう1ミリ、あと0.5ミリ」
「うんうん」
「でもな、大抵の木彫作家は、削りきれないね」
「何で?」
「そりゃあおめえ、何ヶ月もかけて一体の木像を仕上げるんだ。絶対に失敗はできないだろ」
「そりゃそうだ」
「材料費だって、かなりのもんだぞ」
「なるほど」
「怖いんだよ」
「ふむふむ」
「削りすぎるのが怖いんだ。だから最後の薄皮一枚が削れない」
「なるほど、なるほど」
「それができたのが、例えば運慶だな。大理石ならミケランジェロ」
「それほど、大変なの?」
「ああ、大変だ。削り過ぎるくらい削れるなら、そいつは天才だな」


もちろん、削る前に、虫食いやひび割れのない
良質の木材を用意することが肝心であることも、忘れてはなりません。



 7、推敲には検索法

パソコンの機能を使った推敲の具体的な方策について書いてみましょう。

パソコンの普及によって、私を含めて多くのひとが小説を書けるようになったと思います。
ワープロ機能はもちろん、インターネットの普及も大きな要因ですよね。
手書きの頃には、ちょっとしたことを調べるのにも大変で、
たとえば、作中で「彼女がミケランジェロの作品について言及する」なんて場面を挿入しようと思ったら、
図書館にでもいって調べるしかなかったのが、今ならちょっと検索するだけで、
ダヴィデ、システィーナ礼拝堂の天井画、などなど大抵の情報を得ることができますよね。
えっ? そのくらいなら調べる必要はないって? 失礼しました。

さて、せっかくパソコンの使っているので、ワープロソフトの機能も活用したいものです。
私は Microsoft Word を使って、第一稿は同ソフトの原稿用紙で書きます。
やはり、四百字詰め原稿用紙はいいですね。
まず、枚数配分が楽だし、段落の構成もやり易いし、一日に書く分量も把握しやすい、
そしてなにより、小説をかいているなあ、っていう雰囲気が好きです。

原稿用紙で第一稿を終えると、ざっと推敲してから、応募先の指定フォームに直します。
そして本格的な推敲に入るのですが、私は、第一稿でかなりの精度で書くタイプですので、
大幅な追加や削除はありません。
それでも、丸山健二氏の教えを守って、最低七回は見直しますね。
本当は七回書き直せと氏はいっているのですが・・・。

最初の二回くらいは、モニタ上で手を加えますが、
それ以降は、必ずプリントアウトして、赤ペンで推敲作業をします。
ネットで配信する小説なら、モニタで最後まで仕上げてもいいのでしょうが、
紙原稿で読まれるであろう場合は、やはり紙原稿を読みながら推敲するのがベストだと思います。

さて、ここでようやく本題です。
ある程度推敲が進んできたら、まず主語の省略を行いましょう。
特に一人称で書かれている場合は念入りに作業してください。
ワードの検索変換機能を使います。
「私」が主人公なら「私」を検索して、全て●に変換してください。
そのときに、「私」が文中にいくつ使われていたかメモしておくのもいいでしょう。
●ではなく他の文字でもいいのですが、色々試した結果、
●が最もよく目立つので、具合がいいのです。

変換が全て終わったら、「私」が●のまま、読み進めてください。
どうですか? ●に変換したことで、どこにどれだけ「私」が使われているか、
一目瞭然になりませんか?
作風にもよりますが100枚の原稿で、200ヶ所以上あったら多いと思います。
では、通読を始めてください。読みながら●を「私」と読み違えなくても意味が通じる場合は削除です。
迷ったときには削除を基本とした方がいいでしょう。
小節ごとの文頭にことごとく●があるようなら、文章の配列を組み替えましょう。
最後に●を「私」に直して完了です。
ついでに作業後の「私」の数を作業前の数字と比べてみてください。

どうです? あなたがもし主語の省略を意識せずに書いたのなら、
おそらく30%くらい減ったのではないですか?

不要な主語は、物語の進行を止めます。
アマチュアの書き手にとって、最も重要で、最も効果的で、最も簡単に出来るのが、
主語の省略です。
手元に原稿があったら試してみてください。
きっと見違えるほどよい作品になると思います。

なお、私の場合、この●検索法は主語以外の推敲にも利用します。
接続詞や、頻出する名詞など、約30個くらいピックアップして、
使用頻度や、配置の偏りなどをチェックします。
面倒でも、この作業をすることによって、安易に使っている接続詞を減らすこともできれば、
執筆の悪い癖を発見することもあります。

ぜひ、やってみてください。


 8、きょろきょろ視線で描写に厚みを

さて、今回は「きょろきょろ視線」について、思うところを語ってみます。

描写をしていて息苦しさを感じるときがありませんか?
ある場面を描写しようとしたときに、
書きたいことがたくさんあるのに、どうしてもうまくまとまらない。
平板な印象になってしまう。
そんなとき、『きょろきょろ視線』を使ってみましょう。

まずは例文を上げてみます。
このために書き下ろし(大袈裟ですね)たのですが、
残念ながらあまり上手とはいえない出来になってしまいました。
まあ、所詮はオレ流ですので、カンベンしてください。

『ぼく』が『彼女』の家にいったときの場面です。

***************************************************************************************
「乾杯」
彼女は白く細い指を優雅に使って小さくグラスを上げた。
ガラステーブルの上には氷で満たされたシルバーのワインクーラーが置かれ、
その中に赤いリボンのラベルが特徴的なシャンパンが寝かされている。
「ありがとう」
口ごもるようにいってから、グラスを口に運ぶと、
彼女は待っていたかのように、短いスカートの裾から覘く両膝を僅かに崩した。
マム・コルドン・ルージュ。F-1の表彰式で有名なシャンパンなのだという。
「おいしいね」
彼女は微笑みながらそういったが、僕にはとてもつまらなにそうに聞こえた。
微かに漂っているのは、おろらく新しい香水の匂いなのだろう。
外はまだ冷たい雨が降っているが、都心の一等地にあるマンションの部屋は春のように暖かかった。
付き合い始めて一年になるというのに、僕たちはまだ唇さえ重ねていない。
グラスを口に運ぶ度に胸元で揺れるネックレスは誰かのプレゼントだろうか。
小さな胸が薄いニットと通して、何かの兆しのようにふくらんでいる。
けれども、その内側に秘められているものが、僕には理解できそうもなかった。
***************************************************************************************

場面は彼女の部屋。キーワードは『シャンパン』『彼女』『彼女の部屋』『ぼく』などですね。
普通に書けば、彼女の部屋と書き、シャンパンを書き、彼女を書き、ぼくを書く。
それが順番だと思います。
遠景から近景へ、そして自らの胸の内に入り込む。
それで、うまくいけばいいのですが、必ずしもそうはいきません。

そんなとき「意識的に視線を飛ばして」文章を構成すると、
自然な描写になる場合があります。
読者はある程度の分量の文章を「ひとかたまり」として認識するそうですから、
細かい時系列にはそれほど拘らなくても大丈夫です。

さて、例文を分解してみましょう。
彼女→シャンパン→ぼく→彼女の膝→シャンパン→ぼく→彼女→ぼく→彼女
→外の様子→部屋→彼女→ぼく→彼女のネックレス→ぼく→彼女の胸→ぼく

このような、視線の移動を確認できます。
分かりやすいように、かなり激しく移動させたので、違和感を持たれる箇所もあるかと思いますが、
こんな書き方もあるんだな、ということと『常に視線の先を意識して書く』こと。
そんなことを知って貰えたらいいと思った次第です。

描写が行き詰ったときは、たいてい対象に近づきすぎています。
彼女を描写したくても、彼女ばかり連続して書き続けると、
かえって彼女は遠ざかってしまいます。視線を移動して、間を取りましょう。
それが結果的に彼女に読者を近づけ、ひいては立体的な描写に繋がります。
視線の移動だけでなく、独白の挿入なども有効ですね。

もちろん、どんな技法もそうですが、やりすぎるとあざとくなりますので、
注意が必要です。



 9、書くべきとこと、書かなくてもいいこと

さて、今回は『書くべきことと、書かなくてもいいこと』
小説の核心のひとつですが、それだけに突っ込んで書くほど私には技量がないし、
あまり範囲を広げすぎると、かえって対象がぼやけることもあるので、
『具体的な対象物』に限定して、考えてみます。
つまり、心理面はおあずけか、私には解説不可能ということです。

小説を書くという行為は、言葉を使って、対象を描き出す行為です。
さて、これが絵画ならカンバスに描くという具体性があるからいいのですが、
文章の場合、どこに描き出すのでしょか?

原稿用紙? そう答えた貴方、失格です(笑)。
読者の頭の中に描き出すんですね。
これは、よく覚えていた方がいいですよ。貴方の頭の中でもない。
読者の頭の中です。

とはいっても、読者の頭の中がどうなっているかわからないから困るんですよね。
それが分かれば、「書くべきことと、書かなくてもいいこと」の取捨選択で
頭を痛めることもないわけです。

さて、例のよって一文を上げて見ましょうか。

*****************************************
眼前に春の海が横たわっていた。
*****************************************

さて、どうでしょう。
春の海が見えましたね。それでいいのです。
貴方の頭の中に浮かんだ春の海は、私が想像している春の海と違っていても
ぜんぜんかまいません。
砂浜だろうと、磯だろうと、穏やかだろうと、荒れていようと、
一切問題ありません。私が言いたいのは、春の海だけを描きたいなら、
作者の余計な描写はかえって読者の邪魔になるということです。

以上をまずふまえておきましょう。

さて、ここからが問題です。
また、例文を上げてみますか。

*************************************************************
砂浜の合間に磯が点在している。波は結構高かったが、
風がないので、寒くはなかった。すぐ後には観光ホテルが立ち並び、
所々に、家族連れが遊んでいるのが見える。
海流の関係なのか、磯の隠れたところには、流木がたくさん打ち上げらていた。
その中に混じって、洗剤の容器が挟まっている。
磯の上には釣り人が捨てていったらしいフグが、白い腹を見せて、横たわっている。
早春とはいえ陽射しが強い。干からびたかけたそれには、数匹の蝿がたかっていた。
水平線には貨物船が浮かび、青い空に数羽のウミネコが飛んでいた。
*************************************************************

理由があってこれだけの情報量が必要な小説なら、これでいいでしょう。
でも、そうでないならば、明らかに情報過多だと思いませんか?

そこで推敲の出番なですが・・・。
「書くべきことは」全て書いた。しかし、問題は「書かなくてもいいこと」まで、
混在しているということです。

何を削るか? 作家の仕事とは即ちこれだといってもいいでしょう。
小説個々の問題であり、作家個人の問題ですから、正解など当然ありません。
基本もなにもありません。抑制を効かせた文体と饒舌体でも違います。

私に言えることはとても少ない。
ただ、こんなことを思って普段小説を綴っています。
参考になる部分があれば幸いです。

1、たとえ饒舌体であっても、できるだけ削ること。
2、言葉は多ければ多いほど単語の力が減衰するということ。
3、映像を写すのは作者でなくあくまで読者の脳内だということ。


絵描きは写真家に向かって「シャッターを切れば何でも映るからいい」といいますが、
写真家は絵描きに「書きたくないものは、書かなければいいのだからうらやましい」といいます。
何でも映ってしまう写真、全てを書きたくても書けない絵画。
このあたりにヒントがあるようです。







まずは核心を突け
2013年6月6日

5W1Hというのがある。以下、WKIより抜粋。
Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(なぜ)したのか。 である。
しかし日本においては、「5W」にさらに下記の「1H」を含む「5W1H」であるべきであるとされる。 How(どのように)

新聞記事を的確に書くための指標として考案されたようだ。
これを小説文に持ち込む人がいる。
主に、勉強のできる真面目な人にその傾向が強いようだ。
必ずしも悪いことではない。きちんと伝えようとするために、意識、無意識に伝達の基本を使っているのである。
そういう人の小説は、読んでいて、何を書きたいのかよく分かるのだが、
肝心の『それ』が、充分に表現できていないことが多い。
書く側でも、書いていて、何かが違うという感覚があるのではないだろうか。

例文を書いてみようか。
(小説文らしくするために、順番を入れ替えます)
例文:A

昨日の夜、欲求不満が溜まっていた安倍晋二は、永田町の路上で、見知らぬ若い女性に後から抱きつくと、胸を思い切り揉んだ。

これはこれで、淡々として悪くないが、読者の興味を引くとか、臨場感という観点からいうと、いまひとつぱっとしない。
読んでよく分かるのだが、これだけでは、ただ事実を説明しているに過ぎないからだ。
伝達としての文章としては優れていても、表現の文章としては不満が残る。

しっかり書いているつもりなのに、どこか書き切れていないような、もやもや感を覚えるなら、
おそらく原因のひとつはこれだろう。
5W1Hは小説文を書く上でも有効だ。これが欠けた文章は読んでいて何が書いてあるか分かり難いし、
そういう書き手に限って、やたらと小説らしく書くことに腐心していて、
結果、形容詞満載、比喩だらけ、ひとりよがりの自己満足文になってしまうのだ。
オレがいうところの、『それらしく書いている』だけに過ぎない文章である。

肝心なのは、『それ』を書くことだ。
作品全体を通して表現したいところの『それ』もあるし、
一文一文に込められた『それ』もある。

ここでいう、まず核心を突けとは、一文の中に『それ』がある場合、
まず、『それ』を書け、ということだ。
臨場感を出したければ、この手法はかなり有効である。

書き換えてみようか。
例文:B

思いきり胸を揉んだ。見知らぬ女に背後から抱きついたのである。
昨日の夜。永田町の路上でのことだった。欲求不満が溜まっていた。
そのとき、安倍晋二にとって、自らの肩書などもうどうでもよかった。


肝心なのは、
1、胸を揉んだ。
2、相手は見知らぬ女性。
3、永田町の路上。
4、昨夜。
5、欲求不満が溜まっていた。
6、男の名は安倍晋二

まずは、その文章の中で一番言いたいことを先に書く。
そのことで、読み手の関心を引き付けると共に、
なぜ、そんなことをしたのかという小さな疑問を抱かせる。
その疑問を知るために、読者は次の言葉を楽しみに読む。
それが、リーダビリティの基本原理である。

しかし、5W1Hを使い、それを日本語の自然な文章に置き換えると、
理路整然として、意味は良く伝わるが、ただそれだけの文章になってしまい、
結果、読者は書き手から謎を受け取ることなく、読み進める理由を失ってしまうのだ。

上の出来事を誰かに話をするとしよう。
例文:Aのように話をすれば、おそらく聞き手の反応はあまり芳しいものにならないだろう。
場合によっては『ふーん』のひとことで終わってしまうかもしれない。

だが、実際の会話はそのようには行われない。

『そう言えばさあ、思いっきり胸を揉んだんだってね』
「えっ?」
『ニュース見なかった?』
「知らない」
『え?見てないんだ。知らない女の人に抱きついたっていう、アレ』
「なになに?」
『昨日の夜なんだけどね』

という具合に話が進んでいく場合が多いはずだ。


まあ、ひとつの技法だね。






小説文とは?
2013年6月7日


小説文について調べていたら興味深いブログ記事があった。
現代文のテストで、小説の読解問題が出たときの対処法に関する記述である。
書いているのは塾の講師らしい。


自分の主観(自分のものの見方)を一切消して、本文から読み取れることだけを客観的に読み取らなければいけないということだ。

示唆に富んでいて面白い。
登場人物の心情を読み取るのに、自分の経験や感性を元に、書いていない事柄や感情を類推してはならないというのである。
『書かずに表現する』とか『行間ににじませる』といった技法を、小説の極意と捉えている人がいるが、それは正しくない。
『書いていないことは分からない』
それが事実であり、現実である。
以心伝心は、目の前に相手がいるか、その人物のことを良く知っている必要がある。
『書かずに・・・』とか『行間に・・・』という技法は、小説における以心伝心といってもいいだろう。
だとすれば、それを伝える、あるいは受け取るための材料が必要になる。
書き手は、登場人物のことを良く知っている。なにしろ自分が作り上げた人物なのだから。
しかし、読者はそうではない。そこがポイントだ。自分が知っているから読者も知っているだろう。
それが間違いの元なのだ。ひとりよがりの小説になってしまう最も大きな原因はそこにある。
『書いていないことは伝わらない』のだ。
小説文はあからさまな説明を嫌う。だから上手い書き手は巧妙に文中に隠す。
それを読んだ読者が、書かれていることに気が付かず、書いていないのに光景や心情がはっきりと見えるように感じるのだ。
それが、『書かずに・・・』とか『行間に・・・』の、正体だ。決して書いていない訳ではないのである。
論語読みの論語知らずという格言がある。本好きな者ほど陥りやすい罠といえるだろう。








段取りについて
2013年6月12日


小説を書くにしろ、論文を書くにしろ、誰かに昨日の出来事の話をするにしろ、
そこに、『伝達』の意図があるなら、段取りは重要な要素となる。
小説において、如何に伝えるかは、如何に表現するかと同じくらい大切である。
なのに、多くの未熟の書き手(特に純文志望)は、表現ばかりに力を入れる傾向にあるようだ。
おそらく、この国の小説世界において、文学の王様気取りでいる似非純文学の氾濫が、
多大に影響を及ぼしているのだろう。
それらを良しとする業界関係者の責任は重いとオレは思う。

純文学は、もはや生きる屍といっても過言ではない。
もともと、カテゴリとして存在できるような類のものではないのだ。
オレは純文学、あるいは純文作家を、文学の奇形、あるいは突然変異と捉えている。
連綿と続く物語文学の枝の狭間に咲いたあだ花だということだ。
小説は秀才にも書けるが、詩は天才のみが成せる技だという。それに似ている。
天才や異端は魅力的だ。だから、それを目指す書き手は少なくない。
しかし、その発生確率は限りなく少ない。もともと、狙って生み出すような類のものではないのだ。
にもかかわらず、文芸誌は相変わらず毎月五誌も発行され、文学賞の数も多い。
当然、純文学もどきの山が築かれる訳だが、編集者や選考委員はそれを駄作と認める訳にもいかないもので、
そこで仕方なく、難解というより、単に訳の分からない落書き程度の作品に
ああだこうだと理屈を付けて、何とか取り繕っている様子は、かつての美術界そっくりである。
愚かで賢い大衆は、とっくの昔にそんな子供だましには飽き飽きしていて、
だから、文芸誌がまったく売れないのはもちろんのこと、
芥川賞作品ですら、作品以外の、たとえば記者会見で書き手が幼稚な戯言を述べるとか、
不自然なほどに若くて美しい女性だったりするといった付録でもなければ、見向きもされない有様である。

本題に戻ろうか。
小説における段取りとは何だろう。
もちろん、小説とは自由な表現であるから、その手法を限定することはできない。
ただ、論説と違うことは間違いないだろう。(論説風の小説を除けばだが)

段取りといっても物語の進行から、前振り、時代背景など色々ある。
ここでは、登場人物の紹介を取り上げてみよう。
それもまた、小説を書く上での、重要な段取りのひとつなのだ。

作品に人物が登場するたびに、まず、年恰好を事細かに説明する書き手がいる。
読み進めないと、登場人物の性別すら分からない作品もある。
どちらも、上策とはいえなそうだ。

ケース:A
ある知り合いの書き手による作品を読んだことがある。
重要な登場人物の性別が書かれていなかった。
オレがそれを指摘すると、彼女はこういった。
『その人物が男か女かわざと分からないように書いた』のだと。
作品を読みながら、男か女か、どっちだろうということも楽しんで貰いたいと考えたそうだ。

ケース:B
作品に女性が登場するたびに、
まず、その女性の服装を細かく書き込む若い男がいた。
『女の子の服が好きなんですよ』
だから、色々なブランドやスタイルの服を、
自作に登場する女の子に着せるのが楽しいのだという。

オレはどちらも正しくないと考えている。
自然ではないからだ。

どちらのケースも、そこに書き手の作為がある。
それは構わない。
しかし、作為は隠さなければならない。
作るための行為が、読み手に見えてはならないのだ。
段取りについても同じである。
読み手に気取られぬよう上手に段取りを付けて、
それから本編や本題に入る必要があるのだ。

登場人物の性別を確定しないのは明らかに段取り不足だし、
女の子がでてくる度に、まず服装の説明をするのもまた、上手な段取りとはいえない。
できるだけ早く、だが、不自然にならないよう、細心の注意を払って人物の紹介をすることだ。

オレがここで書いた文章を例を挙げて説明しよう。
ケース:A の場合。
オレはまず、一文目で知り合いの書き手と記しただけで、
そこではまだその人の性別は明らかにしていない。
明示するのは三文目。『彼女はこういった』の部分である。
一行目に持ってこなかったのは、
『知り合いの女性の書き手』と書けば、”の”が重なって文が重くなるからだ。
また、『分からないようにわざと書いた』行為が、男であっても女であっても、
そのことに関しては、さほど重要でないから三行目に譲ったのである。
書き手の年齢を明示しなかったのも同じ理由だ。

一方、ケースBの場合は、一文目に『若い男』と書いた。
『女の子の服が好き』だと言ったのが若い男性であることを、
その前に読者に伝える方が効果的だと考えたからである。
もちろん、後で若い男性だと説明を加える方法もあるが、
いずれにしても、『若い男性の書き手』と、『女の子の服が好き』だということには、
密接な繋がりがあり、必ずワンセットで読者に提示しなければならない。

結論を言おう。
登場人の紹介について、オレはこう考えている。
『必用な限りにおいて、できるだけ早い段階で、登場人物のプロパティを明らかにするべきだ』
さらに、
『できるだけ簡潔に。そして、読者にそれと悟られぬようにする』
のが重要だ。


『吾輩は猫である。名前はまだない』

さすがはこの国最大の文豪。
実に見事である。









その会話文は誰の言葉?
2013年6月14日

『会話だけを取り出してみてください。前後の文がないと誰のセリフか分からないようではダメです』
どこかの小説指南書に書いてあった。
あたりめえだ、馬鹿野郎!

以上。






説明について
2013年7月

小説文には大きく分けてみっつの種類がある。
1、説明
2、描写
3、会話(独白)

ここでは、説明について、少し考えてみようと思う。

小説において、描写は善であり説明は悪だというような風潮は今でも根強くあるようだ。
しかし、それはまったく正しくない。
小説を書き始めた頃、オレもこの一見正しそうなロジックに陥り、随分悩んだものだった。
あらゆる場面を描写で構築するのが小説だとさえ思っていた。
馬鹿馬鹿しい。つまり小説ごっこをしていたのだ。

あえていうが、小説において最も大事なのは説明である。
なぜなら、小説において最も大事なのはストーリーであり、
そのストーリーを担っているのが説明だからだ。
つまり小説において、最も大事なのは説明だということになる。
かなり乱暴な論理だが、あながち的外れでもないだろう。

描写が担当するのは場面だ。
だから描写ばかりの小説とは、場面ばかりで一向に物語が進まない小説であり、停滞した物語である。
それが良いか悪いかはともかく、そのことは知っておいた方がいい。
多くのひとは小説に物語を求めている。
しかし、純文学は物語性を嫌う傾向にある。だから売れないのだ。

『説明せずに描写する』
これは、即ち、物語の速度を落とせということを意味している。
それに気が付いている者はいったいどれほどいるだろうか。

例文を挙げてみようか。
『彼は生まれた。生きた。そして死んだ。』

彼の享年を80歳とした場合、恐ろしいほどの速度で彼の人生が物語られたことになる。
いくらなんでも早すぎる。
そこで、彼の人生がどのようなものであったか、描写(場面)を挟んで速度を落とすべきだということになるのだ。

小説とは、説明でストーリーを進め、描写で止める。そして会話で間を取るものだ。
なのに、説明せずに描写しろというのはあまりにも乱暴な話だ。

まずはストーリーを進めることだ。
それが最も肝心だ。
書き始めたはいいが、いたずらに枚数ばかりが増えるようなら、もっと説明を入れてみるといい。
物語の流れが速くなり、肝心の、つまり書き手が書きたい場面に早く辿り着くだろう。

下手な小説とは、大抵は説明が下手な小説だ。
説明が下手なのに、描写しろといって、それで作品がよくなるはずがない。
なのに、描写至上主義というか、純文学的勘違い野郎は、
馬鹿の一つ覚えで描写描写と言い立てる。

描写しようなどと思わない方がいい。
それより上手く説明することを心掛けるべきだ。
説明が上手ければ自ずと描写も生きてくる。

極端な例を挙げてみよう。

『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。』
これが説明。
そしてその後の『夜の底が白くなった。』から、最後の一文までが描写。
正に説明の勝利。

もちろん、ただ説明すればいいというものではない。
読者に気取られぬよう、上手く説明することだ。
それがコツだ。






修辞技法について
2013年8月27日

文芸とは、オリジナリティあふれるストーリーを見事な文章で表したものだ。
オレはそう思っていた。
それはおそらく間違っていない。
しかし、それは間違っていないということでしかない。
表現とは欲求の発露だ。
本来、その他に何もない。






舞台について
2014.8.10

小説を書くにおいて、書き手がつい忘れがちな情報のひとつに、主人公の住所及び住居がある。
忘れがち、というより、書き手はさほど重要視していないのに、
読み手の側はとても欲している情報といった方がいいかもしれない。
もちろん、そういった類の情報は多岐にわたる訳で、その齟齬が少なければ少ないほど、
読者は安心して、物語を読み進めることができる。
だから、書き手は、登場人物の年齢、性別、仕事、容姿、性格、服装、身長体重、などなど、必用にして充分な設定をし、
それを書こうとするのだが、まず、それ以前の情報として、住所や住居については、意外と抜けている場合が多いようだ。

住所については、たいていの書き手は意識するだろう。
その上で、書くか書かないかの選択をする。
次に、書く場合ならどこまで書くか、書かないなら、どうやって読者を納得させるかを考える。
つまり、実在の地名を使うか、架空の町を設定するかということだ。

しかし、そこにまで考えが至らない場合も多いのではないだろうか。
書き手には、物語の舞台となる街の景色が、まざまざと見えている。
これはもう、まったく鮮明で、いや、あやふやであるのに鮮明といった方がいいだろうか。
いずれにしても、確固たる場所に主人公は立っている。
『自宅の玄関に立っている』と書くとき、書き手にはその家がはっきりと見えているはずだ。

だからこそ、書き漏らしてしまうのである。

これは、オレもよくやる失敗のひとつで、
つまり、自分ではよく分かっているために、読者も分かっているものだと錯覚してしまうのだ。

オレがそれなりの年齢になったからかもしれないが、
小説を読んでいて、まず気になるのが、その作品の舞台となる場所である。
東京なのか、大阪なのか、都市なのか、田舎なのか、
街の規模はどのくらいで、その歴史は古いのか・・・などなどだ。

実在の地名を用いれば、ほぼ解決するが、あえて濁す場合は、
それらの情報について、よく吟味し、かつ適切に書き込むべきだろう。
作品の舞台がどんな場所なのかイメージできない物語は、
小説世界に入り込むのが困難となる。
あるいは、ふとしたときに不安になる。
不安はせっかく入り込んだ物語世界から読者を外に追いやってしまうのだ。

オレのデビュー作『化身』の舞台は、
遥か南の島、その熱帯雨林のただ中にぽっかり空いた円形の池、である
物語はそこに終始するから、読者は安心して、主人公に感情移入できるのだろう。
この舞台設定があやふやだと、読者は戸惑い、いちいちひっかかり、やがて本を閉じるに違いない。

それと、同じことが主人公の住居にもいえる。
彼の住む家が、集合住宅なのか、戸建てなのか、
集合住宅なら、鉄筋なのか、木造なのか、賃貸なのか、持家なのか、何階建の何階なのか。
戸建てなら、平屋なのか、多層階なのか、庭はあるのか、間取りはどうなのか、新築なのか中古なのか。
いや、それらを全て書く必要はない。

しかし、これらは、主人公を表すのに重要な情報だということは、覚えておいた方がいい。
住んでいる家の形態は、その性格や行動に大きく影響する。
中年男性を主人公に据えたとする。
都心のタワーマンションの最上階に住んでいるのと、下町の木造アパートの一階にいるのでは、
性格の設定に大きな違いが生じるはずだ。
もちろんギャップをあえて作る場合もあるだろう。
しかし、主人公の性格を作るのに、住んでいる場所を、たとえば、場所は東北の日本海側。
人口二万人ほどの地方都市。小さな漁港に面した古い木造アパートの二階の部屋。と書けば、
読者は街だけでなく、主人公にもそれなりのイメージを持つはずだ。
それは、書く上で大きなアドバンテージになる。

もちろん、そんな場所に住みながら、最先端のコンピュータープログラムの開発をしているでも構わないが、
それならそれで、その対比によって、さまざまなことがより鮮明に浮き上がるし、
人物の設定もより明確になるだろう。

正直、住所と住居の描写は難しい。
書けばいかにも説明になってしまうし、住所を実在のそれにすれば制約も生じるからだ。
オレも苦手だ。

ドラマや映画にはその苦労がない。
主人公を写せば、おのずとその町、その家が明らかになる。
だからこそ、観客は安心して見ていられるのだ。

主人公を取り巻く物理的環境について、
作者の知ることが、そのまま読者の知ることではない。
それが映画と小説の、最も違うところのひとつである。

だが、なぜか書き手はそのことをしばしば忘れる。
オレも気を付けよう。





主人公の変化について
2014.10.12

小説とは、『変化』を捉え、それを表現する文芸である。
変化という言葉に違和感を覚えるなら、『ゆらぎ』と言い換えてもいい。
中でも主人公の変化こそ小説の核心である。
小説が徹頭徹尾人間を描いた文芸であるのは、つまり人間が変化するためだ。
永遠不変の石は、小説の主人公には決してならない。それは絵画の領域だ。
もし、小説において石が変化を遂げたとしたら、それは擬人化された石ということだ。
または主人公の変化を投影、あるいは象徴された石である。

冒頭に『A』という主人公が登場したら、結末では『A’』になっていなければならない。
主人公Aは、様々な出来事に遭遇し、最後はA’になる。
その過程が小説の根であり幹であり枝葉である。
そして、A’となった主人公が、その枝に咲いた花であり、実った果実という訳だ。
恋愛小説であれば冒頭の『嫌い』が『好き』に変化する。
あるいは『好き』が『もっと好き』にならなければならない。
そうでないというなら、それは恋愛小説ではないし、場合によっては小説と呼ぶこともできないだろう。

小説内で起こるあらゆる出来事は主人公が変化するためにあるのであって、
もし主人公に変化が起こらないなら、あらゆる出来事は意味を失う。
それは、つまり意味のない小説であり、書かれる必然性のない小説ということだ。

ストーリーに比重をおいた小説を、安い物語小説と捉える風潮があるように
主人公の変化が大きい小説は、読み物として安んじられる傾向がある。
少年漫画を例に取れば分かり易いだろうか。
ナルトもワンピースもつまり主人公の成長物語である。
成長とは即ち変化だ。
それを安っぽいというのは簡単だ。
しかし、だからといって、主人公がまるで変化しないようでは、文字通り話にならない。

親が死んで悲しい。そこまではいい。
問題は、親の死に接した主人公がどう変化するかだ。
それを考え文章化するのは、多くの書き手が考えるよりずっと難しい。
葬式の後、主人公に小さな溜息をつかせてそれで良しとしているようでは、
小説としてはとうてい物足りない。
いや、溜息が悪い訳ではない。
その溜息の裏に、どれほどの変化があり、それをどれほど鮮烈に捉えているかが問題なのだ。
一読すると良く書けている作品が公募で落選し、
無様でヘタクソに思える作品が受賞するのはそのためである。

安っぽいセンチメンタリズムに流されてはならない。
無様でもいいから『それ』を書くことが肝要なのだ。

ただし、変化を存分に捉え、見事に書けるようになったら、
その書き手は必ずしもそれを書く必要はないだろう。










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