戻る




**********************************************

推敲について

デビューして間もない頃のこと、
推敲について、思うところを書いてみた。

**********************************************


無断転用不可

一文に、一行に、一段落に、書きたい風景を全て書き込もうとするひとがいるけれど、それは止めておいた方がいいだろう。情報の許容量を越え、文章が軋み、悲鳴を上げていることに気付いたら、肝心な事柄だけを残して、その場面はいったん閉じたほうが、却って風景は生気を帯び、読み手の眼前に広がるだろう。そこから漏れたもので、どうしても必要な事柄は、別の場面、別の段落、別の一文、別の一行に任せよう。問題は、その文にどれだけの情報を盛り付けるかということ。そのさじ加減が文章におけるセンスの分かれ目だろうね。書き込み過ぎの小説は、けんちん蕎麦みたいで田舎の臭いがする。



オレは初稿から始って、第7稿で完成稿としている。それぞれの稿について、どんな点に留意しながら書いているか。あるいはペース配分なども交えて、具体的にオレがどうやって小説を書きあげるのか、ここではそんな話しをしてみよう。


初稿について・・・
ワープロソフトはワードの枡目付き原稿用紙を使っている。理由は、どんな場合でも400文字のリズムで書くようにするためと、改行、段落、枚数などの配分を確認するのに便利だから。
改行の目安は1枚当り4ヶ所程度。段落は100枚の作品なら25〜30枚。300枚なら40〜60枚を、それぞれひとつの目安にしている。
プロットは基本的に書かない。書くとしたらエクセルを使って、登場人物の年恰好、作内時間の整理など。あるいは、それぞれの場面を箇条書きにすることもある。でも、ストーリーに関する条項は多くても十行くらいだと思う。ただ、これは書き手によってまちまちで、先日聞いた話だと、プロットだけで100枚を越す人もいるそうだ。
書くときには、まず核となる場面が脳裏に浮かぶ。たとえば『化身』 の場合、井戸の中から見上げた空。『雷魚』 なら、美しい女の人と、田舎の溜池、夏の空。『インコ』 のときは、インコが喋った最後の言葉。
基本的に、こういったメインの場面を書くために、100枚、200枚と小説を書いている。
ただ、書き始めるまでには、それなりに時間が必要で、一応最初の場面から最後の場面まで、頭の中で構築してからでないと、筆を執ることはない。観念的なものだから説明は難しいけど、小説の器に物語の要素が一杯に入って、余ったものがそこからこぼれるくらいになったときがひとつの目安となる。プロットは書かないけれども、自分では書く前にかなり細かく展開を設定しているつもりだ。
それでも、書きながらいくつもいくつもアイデアが浮かばないと、作品を完成させることは困難で、それが最も辛く厳しく不安な要素だ。


初稿を書くペースのことについて。
まず、オレのことを話しておこうか。
オレは、書き始めて6年くらいでプロになったのだけれども、最初の頃はとても苦労した。30枚の作品を完成させるのに2ヶ月くらい掛かっていたと思う。初めて書いた作品を北日本文学賞に応募して、一次にも残らなかった。翌年の同賞で4次まで進んだ。そのときも、初稿は1枚/1日くらいだったと記憶している。
初心者なのにたくさん書ける人は注意した方がいいと思う。ヘタクソな文章を書いているのに、それに気が付いていない危険性があるからだ。自分の作品に疑問を持たない人に進歩はないのだと思う。
プロの書き手だって、とても苦労して作品を書いている。読むとすらすら読めるものだから、書くのもすらすら書いていると思ったら、大間違いだと思う。もちろん、オレはまだ駆け出しの新人で、業界の事情に詳しい訳ではないけれども、同期の作家や数期前にデビューした人たちの仕事ぶりを見ていると、やはり簡単ではないのだと改めて気付かされている。
ちょっとした才能があって、本気で書く実行力があるのなら三年あればデビューできると思っている。オレは倍の六年掛かったけれども、それは時間がなかったことに大きな原因があったと、勝手に解釈している。
まず、デビューまでの期間を、三期に分けた場合、一期目は1枚/1日で充分だと思う。二期目は2枚/1日。三期目で5枚/1日。全て『初稿』のペース。あるいはこれより少なくても気にすることはない。ただ、毎日書くことが大切だと思う。時間を決めて、毎日少しずつ書く。不安で一杯な気持ちを抑えて、焦らず毎日。時間は1時間から2時間で充分。書いているときだけ集中して、あとは、すっかり忘れていること。メリハリを付けること、そして休むことも大事です。
5枚/1日というのは、現在のオレの初稿のペース。少ないように思うかもしれないけど、兼業作家としてなら、充分早い部類だと思う。
さて、初稿を書く上で、最も注意する点は、焦らないこと。書きたいことを、早く読者に伝えたくなる気持ちは分かるんだけど、あくまで、ひとつの作品を通して、そのことを読者に『感じさせる』 ことが肝要だと思っている。多くの未熟の書き手の作品を読んで思うのは『こんなことが書きたい』 という気持ちはわかるんだけど、書きたいことを説明されてもなあ、ということ。書きたいことを書くのではなく『書きたいことを表現する』 とでも言えばいいだろうか。
また、時折見かけるのが『素敵な表現ですね』 といった類の感想。つまり、比喩や、形容の仕方を褒めているのだけれども、文章というものは単体の表現をいくら工夫しても、あまり効果はありません。単語と単語の相互作用を意識するべきでしょう。素晴らしい文章をよく見ると、奇抜は比喩とか、凝った形容詞など、ほとんど使っていない場合が多いと思う。つまり単語の力に頼っていないということ。文章というのは文の連なりであり、文とは単語同士の相互関係によって力を発揮するものだと、意識するべでしょう。
ナルトの作者がこんなことを言っていた。大学に入って漫画研究会に入会した氏は、先輩諸氏の書いているモノを見て、まずこう思ったという。『彼らが書いているのはイラストであって、漫画ではない』 つまり、先輩方はひたすら萌え系の可愛い女の子の絵を描いていたのだという。上で言った、『素敵な表現』 とは、即ちイラストなのだと思う。イラストをいくら重ねても、マンガにはならないだろう。


そうそう、初稿はね。一度にたくさん書くのは良くないよ。オレは5枚、または3時間を限度にしている。たくさん書けるからといって、たくさん書いている内に書けなくるんだ。乗ってきたら筆を置く。これが明治以来、受け継がれてきた日本文学の伝統です。調子に乗って書いていると、違う方向に迷い込んで出られなくなる可能性があるし、書くことを残しておかないと、明日書けるものがなくなってしまうんだ。そして、筆が止まる。
小説を書くのは時間が掛かる。丸山氏の言葉を借りると、貴方が考えている十倍くらいの時間が必要なのです。

花村萬月氏はあまり好きではないが、文章作法についてはさすがというべきだろうね。いずれ会うときがきたら、事後承認を頂くとして、以下無断引用する。

>「私は」を使わない。

>『夜』という言葉を用いないと『夜』を表現できないうちは、『夜がきた』と書いてはなりません。

>小説という散文表現において、単独で存在する言葉は、ありません。



改札を出ると、商店街の明かりが黒々としたアスファストを照らしていた。車窓から見た西の空にはまだ微かに残照が輝いていたが、周囲を取り囲むように林立するビルに阻まれて、ここからそれを見ることはできなかった。

『夜』と書かずに『夜』を表現すること。つまりこういうことだね。現在執筆中の受賞後第一作から記憶を頼りに抜粋しました。でも、ここでは時間経過と、場所の移動と、周囲の描写を同時に行っているから、『夜がきた』と単純に書くわけにはいかない。

ついでに『オレ流 語尾変化 た。る。だった。の法則』 を適用してみようか。

改札を出ると、商店街の明かりが黒々としたアスファストを照らしていた。塾にでも行くのか、小学生らしい男の子が自転車に乗って走り去っていく。車窓から見た西の空にはまだ微かに残照が輝いていたが、周囲を取り囲むように林立するビルに阻まれて、ここからそれを見ることはできなかった。

『た。く。かった』 になったけど、基本は同じ。過去形で場面を固定し、現在形でそれを印象付け、過去完了で余韻を残し次に繋げる、ということ。文法用語には誤りがあるかもしれません。念のため。



100枚の作品を仕上げるのに、初心者の場合、だいたい100日くらい掛かるのが普通だと思います。と、いうよりそのくらい掛かって当たり前だし、そのくらい掛けないとマシな作品にはならないと考えています。ここで初心者というのは、公募に出し始めて1〜2年程度のひとと考えてください。もちろん毎日書いているひとが対象です。

100日の内訳は、以下の通りです。
初稿-50日、2稿-20日、3項-12日、4稿-6日、5稿-3日、6稿2日、最終稿-1日

おや6日足りませんね。でもこれでいいのです。6日については後述するとして、まずは100日としてください。
長く感じますか? でも、このくらい掛けて仕上げなければ、神経の行き届いた作品にすることはできないと思います。また、このくらいひとつの作品に没頭しなければ、次の作品もまた、似たようなレベルのものしか書けません。つまり進歩しないということです。

楽をしようとしてはなりません。モノゴトを簡単に考えて、少ない努力で、大きな結果を得ようとするのは間違いです。大きな努力を進んで支払って、結果は求めないくらいで丁度いいと思います。自分には才能があるかもしれないとか、もしかしたら神の啓示を受けたように、すらすらと名作が書けるかもしれないなどという考えは、アホのすることです。あるいはその逆は間抜けの考えることです。才能があろうとなかろうと関係ありません。努力というのはそれとは別の話しです。どんな世界も一歩裏に回れば地味な努力の積み重ねなのだと思います。それはマイケル・ジャクソンだって、同じことでしょう。ステージの裏では細々とした努力を積み重ねていたのに違いありません。まして小説なんて地味中の地味というべき仕事です。推して知るべしです。

さて、100枚の初稿が上がったとします。均しの作業に入ってください。パソコンモニタ上でOKです。原稿用紙のまま、明らかな矛盾、文章の乱れ、などをチェックして、文章の体裁を整えるのです。原稿用紙のまま行うのは、改行や、段落の位置が見やすいのと、それらにおいて自分のスタイルを作りやすくするためです。この作業に、上で余った6日を使います。
ちなみに、こんなことは推敲とは呼びません。ただ、均すだけです。でも、6日は掛かるはずです。もし、掛からないというのなら、貴方の目が閉じているのでしょう。あるいは、設定したハードルが低過ぎるということです。
前にもいいましたが、疑問を感じない人間に上達はありません。
でも、あまりにも完璧を目指すのもうまくありません。まだ6回の推敲が残っているのですから、ここは『推敲に足る文章』 にすることを目標に作業を進めてください。


初稿について、もう一言。
2枚/1日のペースだからといって、ある日に、4枚書いて翌日は休みというやり方をしてはいけません。もし1日に4枚書けるというのなら、毎日4枚書くようにしてください。それができないというのであれば、それは明らかにオーバーペースだということです。書けるからといって書きすぎることの危険性は上で述べました。毎日定量を書くことの意味は、即ちトーンを保つためにあります。作品を一定のトーンで書き上げることは、とても重要です。竜頭蛇尾になる最も大きな原因は、トーンを保つことができなかったことにあります。書き始めのうちは書きたいことがたくさんあるものだから、それに釣られてたくさん書きたくなります。でも、ここで力を出し切るようなことをしてはなりません。盛り上げなくてはならないのは後半から終盤であることは明白ですよね。余力を残して佳境に入るためにも、ここはじっと我慢です。早く明日になってほしい。早く続きが書きたい。この気分をラストまで維持するためにも、毎日定量書くことが大事なわけです。また、時間になったら嫌でも原稿用紙に向かう体を作る意味もあります。



さて、具体的な推敲の仕方に入る前に、『推敲』 とはどういうことか、確認しておきましょう。
>詩文の字句や文章を十分に吟味して練りなおすこと。
Yahooの辞書には、このように書いてあります。その通りですね。ストーリーの流れを見直し、文書を彫琢する。これが小説における推敲だと思っています。よく『校正』 と混同するひとがいますが、まったく別の作業だと考えていいでしょう。極端な話し、校正は作家の仕事ではありません。ちなみに、私は過去一切校正をしたことがありません。私の知る限り、編集者も、そんなことはいいから本文に集中してくださいと、言います。もちろん、推敲中に誤字脱字があれば、直しますが、それだけのために原稿を読み返すような馬鹿馬鹿しいことは一切しません。いつもいうように、文学は学校のお勉強ではありません。誤字脱字など作品の価値になんらの影響もありません。確かにゲラに誤字脱字の赤がたくさん入っているとかなり恥ずかしいですが、ただそれだけのことです。向こうだって何とも思っていないでしょう。もし、誤字脱字を理由に落選させる文学賞があったとしたら、こちらから辞退するくらいで丁度いいと思います。彼らは文学の本質を分かっていないと断言してもいいでしょう。そんな文学賞はないと信じていますが。しかし、重言などは、作家の責任です。これは推敲で直さないと、資質を疑われるかもしれません。
一度、作家でごはんとかいうところで、まず誤字脱字を指摘しますといって得意になっているおっさんがいました。地方文学賞三冠とか言って威張っているので、氏のHPを見たら学習塾経営となっていて、なるほど、そんなことだからその程度なのだろうと、思ったものです。このサイトでは、『誤字脱字など作品の価値には関わりがない』 といったら、随分叩かれたものでした。校正なんてしたけりゃすればいい程度の話しです。文字は記号に過ぎません。多少の間違いがあっても、前後の文脈を通して正確に伝わればそれでいいのです。誤字脱字に目くじらを立てるなんて、絵画を見て額縁の良し悪しを論じるようなものです。そして、そんなことに拘るヤツに限って、肝心の絵はたいしたことがないのです。どの世界でもそうだと思いますが、一流の人間は、『肝心な部分』 にのみ、異常なほど集中し執着するものです。もちろん、周辺事項であっても、肝心な部分に関わりがあるのなら、同じことです。でも、それ以外にはまったく頓着しない。だから変人に見えるのでしょう。事実、そういうひとを変人と呼ぶのでしょうけど。
小説において肝心なのは、ストーリーであり、文章です。それ以外は作品と何の関係もありません。まあ、誤字脱字もあまり多いとやはりカッコ悪いので、少ないのに越したことはないのですが。オレのことです。はい。


さて、第二稿の話しをしようか。
初稿を書き終えて、均しの作業が終ったら、いよいよ推敲を始めるのですが、その前に、ひとつ作業があります。通読ですね。ここで初めて通読してみてください。でも、原稿用紙のままでは読みにくいので、応募先のフォーマットに変換しましょう。そして、プリントアウトしてください。モニタで読むことは薦められません。地球環境のことを考えると、強く薦めることはできないのですが、この先ひとつの推敲が終わる度に、必ずプリントアウトして、それを読みながら推敲することをお薦めします。少なくとも、第五稿からは、必ずそうしてください。相手が紙で読むのなら紙で、モニタで読むのならモニタで。ベストを尽くすとは、こういうことも含まれると思います。野球の試合をするのなら、試合が行われる球場で練習した方がより良いのと同じです。
さて、通読が終ったら全力で推敲に掛かってください。勘違いし易いのですが、初稿を全力で書く人がいます。これは間違いです。初稿は50%から70%の力で書いてください。力の入りすぎた初稿は自己満足に終る確立がとても高いのです。ガチガチに力をいれて投球しても早い球は投げられないのと同じ原理ですね。軽く、でもシャープに、ちょっと斜に構えて、ジョーク交じりで書くくらいで丁度いいと思います。でも、推敲は違います。あなたの持てる力の120%以上を投入して事に当ってください。修辞、ストーリー展開、人物の心理状況、あらゆるものに、これ以上ないくらいの神経を注いで推敲を進めてください。完全な文章と完璧なストーリーを目指すのです。妥協は一切しないでください。よく、初稿は主観的に、推敲は客観的になどと言いますが、客観的などというのんびりとしたやり方ではなく、その遥か上を行くくらいの覚悟で丁度いいと思います。一文一文、悩みに悩んでください。そして、四苦八苦して回答を出してください。
でも、やっているうちに、どうしていいか分からなくなることも多いでしょう。そのときは、諦めて次に進んでください。やるだけやって上手くいかないのでは仕方がありません。でも、必ずやるだけのことはやってください。それこそが、次なる高みに登る秘訣なのだと思っています。これくらいでいいや、という意識のまま推敲を進めても、決して次のステージに上がることはできないでしょう。
私は第二稿に20日を予定しました。ここが一番苦しい作業かもしれません。でも、何とかこの20日を乗り切ってください。やるだけやれば、そのときはどうしても上手くいかなかった文章が、第三稿の推敲のときに、解決することがあるのです。しかし、途中で投げ出したくなって、おざなりの推敲をすれば、それは第七稿でもおざなりのままでしょう。

具体的な推敲の方法ですが、紙原稿を読みながら、モニタ原稿を修正します。大幅な加筆や、文章の入れ替えが頻発する段階ですから、そのやり方がベストだと思います。
なお、大幅な加筆はこの段階あるいは、第三稿までにしてください。推敲が進み、文章の精度が上がってくると、加筆した部分のトーンがそれまでのトーンとどうしても合わなくなるのです。
またよく考えれば必要がないのに、ストーリーの辻褄を合わせようとするため加筆する場合があるので注意が必要です。いらない場面を何とか使いたくて、繋ぎ合わせの加筆をしてはなりません。もし、その場面がストーリーから浮いていると判断したのなら、大胆に削除してください。せっかく書いたのだからもったいないという根性が作品を台無しにするのです。いくら面白い場面でも、いい文章でも、それがその作品に沿わないものであれば、惜しまずに削除です。私は『メモ』 という形で別のファイルを作って、そんな文章を保管しておきます。でも、そこから取り出して再度使ったことは、たぶん一度もありません。
なお、これは推敲全体を通していえることですが、迷った場合は必ず削除してください。迷った末に残しても良い結果は望めません。残したいと思うのは、あなたの中にあるケチな根性がそうさせているのに過ぎません。もったいない、という考え方は、小説において最も害をなす考え方のひとつです。迷ったら削除。これが鉄則です。

推敲するのにあたって、第一に考えることは、『素人臭』 を抜くことです。『臭い文章』 を、徹底的に直してください。プロ中のプロが書くような、滑らかで、美しく、抑揚があって、読んでいるうちに、文章が消え、目の前に場面が立ち上がってくるような、登場人物の心が見えるような文章。つまり、感情移入できる文章。それを目指してください。素人臭い文章では決して感情移入できません。
さて、ここまでは当たり前のことだと、理解してもらえると思います。次に注意するのは、『自分らしさ』 を消すことです。文章上の『クセ』 を、これもまた徹底的に直してください。そう、国語の教科書に載っているような、小説の見本のような文章を目指すのです。『個性』 なんて、生意気でしゃらくせえことは一切考えないでください。勘違いしないでください。『個性』 とは、加味するものでも、演出するものではありません。滲み出てくるものだけが、『個性』 足り得るのです。徹底してクセを直して直して直して、それでも、まだ残されたものが、貴方の個性です。それは、どんなに形を変えて文章を綴っても、付いて回るでしょう。そしてその個性が評価され、世の読者に受け入れられた者だけが、作家となれるのです。近頃の純文学はここのところを勘違いしているとしか思えません。小手先の修辞テクニックなど、個性、即ち『オリジナル』 とは、本来呼ばないのです。

これを読んでいるあなたは、もしかして、こう思っているかもしれません。『これは宮ノ川流なのであって、オレはオレ流で、私は私流で書けばいい』 のだと。
あなたがそう思うのなら、そうすればいいでしょう。しかし、その『あなた流』 が、もし『宮ノ川流』 より手間暇の掛からない方法だとしたら、あなたは少なくとも文章において決して私を越えることはできないでしょう。その上、あなたが書き始めて三年以下の初心者であったのなら、私は負ける気がしません。ここに書き連ねている『宮ノ川流』 は、おそらく小説を書く上で、あるいはその修行をする上で、最も手間の掛からない方法だと思います。なにしろ私は無類の無精者ですから。その宮ノ川流より、手間が掛からない方法で私を越えることなどできるはずがない。
小説を書くことは、本当に手間暇の掛かることです。少なくとも作品の完成度と、それに掛けた時間はイコールします。いつの日か才能が溢れ出し、見事な作品がたちまち書けるなどと思っているひとは、一生掛かってもその程度のものしか書けないと断言しても構いません。もちろんこんな時代ですから、間違ってデビューし、ベストセラーになるかもしれません。それが目当てならそれでもいいですが、そんな志しかないのなら、本来筆を執るべきではないのだと思っています。

第二稿がなんとか出来上がったら、第三稿に入ってください。やり方は二稿とまったく同じです。プリントアウトして通読、それを読みながらモニタで修正です。二稿の遣り残しがたっぷりとあるはずですから、見逃したり諦めたりすることなく推敲を進めてください。このくらいなら充分だろうとか、読者が読み取ってくれるだろうとか、そんな甘えは一切排除してください。書き手に分からないことが読み手に分かるはずがないのです。また、行間に滲ませるなどということも止めておいた方がいいでしょう。そんなカッコいいことを言っても、大抵は書き手の不精に過ぎません。書いていないことまで読んでくれる読者などいないと思ったほうがいいでしょう。
以前、悲しいときに、悲しいと書くべきかということを話題にしましたが、悲しいときには、きっと悲しいと書くべきです。ただ、なぜ悲しいのか、どのように悲しいのかといった点について、必ず書き込むようにしてください。登場人物の心の深淵を覗き込み、悲しみの正体を突き止めてください。それをせずに悲しいと書いたなら、それは書き手の怠慢です。でも、その悲しみの源泉を見定め、それがしっかりと書けたとき、実際に悲しいと書くかどうかは、そのとき、自ずと定まっているでしょう。
以前も言いましたが、自分でも分からない自作の美点を読者に読み取って貰おうなどという、横着をしてはなりません。書き手は読み手のために存在しても、読み手は書き手のために存在するものではないのです。
さておそらく、三稿が出来上がる頃には、その小説で貴方が何を表現したかったのかが、おぼろげに見えてくるはずです。ストーリーの展開や描写に、そこからずれている部分があったら、しっかりと修正、あるいは削除してください。
もし、最初から書きたいことが分かっていたというのなら、もう一段深く掘り下げて、自分の心の奥底と、作品の目指す方向を見つめ直してください。必ず自分でも気が付かなかった何かが見えて来ると思います。それこそが、貴方の中に眠っていた、書くべきことの正体です。もしそれがないのなら、貴方が筆を取ることはなかったはずです。表現者が何かを表現しようとするとき、その原動力となるのは、表現者の内部に発生する直感と衝動です。虚栄心などその付随物に過ぎません。そして、直感と衝動が発生するきっかけとなるものが、あなた自身も気付かなかった、何かなのです。第三稿ではその『何かの正体』 をしっかりと見極めてください。それが、推敲をするときの最も大事な目安となるのです。そして、そのことを意識して推敲を重ねた作品と、そうでない作品は、深みという点で、圧倒的な差がでるのです。


さて、第四稿に入る前に、小説的表現あるいは文章について、私見を述べておきましょうか。特に男性に多いような気がするのですが、凝った比喩とか、文学的言い回しを多用するひとがいますが、それはできるだけ避けてください。小説とは作品世界に起きた事実を淡々と綴る行為だと思っています。誰かが死んだら、『○○が死んだ』 と、書けばいいのです。ライターで火傷をしたら『火傷をした』 と、書く。余計な修飾は不要です。少なくとも、大手出版社系の予選をコンスタントに通過できるくらいの実力が伴わない内は止めておいた方が無難です。中には、その余計な修飾や、特徴的な言い回しこそが文学そのものであると思っている人もいるようですが、そんなところに文学の核はありません。そんな表現方法が純文学とかいう現代のインチキ文学に見受けられるのもで、そういうものだと思っているのかもしれません。誤解を恐れずに言えば文芸は文の芸などではありません。私は修辞技法にとてもこだわっていますが、本物の文学に、技法なんて関係ありません。本物はそんなチマチマしたところにはない。推敲の話しをしているので、ここまでにしておきますが・・・。
小説を書いているのであれば、小説的文章などという概念を持ち込まなくても、その文書は充分小説的になっているはずです。だから、余計な修飾や、カッコばかりの比喩など必要ないのです。
もし、貴方が小説を書いているのに、小説になっていないという評価を受けたのなら、それは貴方が小説を書く振りをしながらそれ以外の何かを書いていたことになります。小説は作内事実を淡々と書くことによって、真実を浮かび上がらせる行為なのですが、ただ事実を書けばいいというものでもありません。朝起きた。ご飯を食べた。ネットを見た。寝た。こんなことを書き連ねても、小説にはなりません。大事なのは真実を描き出すために必要なことを書くということです。つまり、書くべきことを書き、書かなくてもいいことは書かない、ということです。最もこれが一番難しいのですけどね。

余談 : オレはネットの文章では三点リーダーは使いません。モニタの横書きで、……は、くどく感じるから、・・・は、インチキなんだけどね。


第四稿に進みましょう。
四稿は、ちょっと風変わりな方法で推敲します。文章作法1に●変換法というのがありますので、これを使います。あまり早い時期にこれを適用しても、効果は少ないでしょう。ある程度原稿の精度が上がってきたあたりで行うのがいいような気がします。
さて、●変換法は、主に主語の省略を目的とするのですが、他にも頻出する単語や、強い印象を残す単語を選び出して、検索を掛けてください。参考までに私がやまなし文学賞で佳作を受賞した作品『ハンザキ』 (100枚)について、検索した単語が残っていますので、列記してみますね。
ぼく、老人、それ、まるで、やがて、でも、しかし、だが、けれども、ところが、もちろん、それでも、だろう、違いない、かもしれない、ような、思わず、気が、不思議、不自然、さっき、もしか、ばかりだった、相変わらず、降る、そして、それから、また、だから、静、そっと
以上ですね。
何度もいいますが、迷ったら削除してください。文章というものは、たまに読者が立ち止まって、後を振り返るくらいが味わいがあっていいのです。そんな部分が頻出したり、二度読んでも理解できないのでは困りますけど。
結構面倒ですが、やっておくと、自分のクセが分かって有効です。イギリス? では、上等な散文には1ページに2度同じ単語があってはならない、というようなことが言われているそうです。
●変換法をやっていると、他の人の小説を読んでいて、同じ単語が頻出すると、うんざりしてそこで本を閉じたくなるくらいです。
それから、各章、各文節の書き出しが似通っていないか、同じ単語が文頭に並んでいないか、などにも注目して推敲を進めてください。


第五稿について。
さて、四稿に●推敲法に掛けました。プリントアウトして通読すると、せっかくまとまりかけた文章が、おそらくかなりバラバラになってしまった印象があると思います。四稿での推敲の度合いが高ければ高いほど、それは強く感じるはずです。でも、それでいいのです。ここでは一度バラバラになった文章を再構築します。でも、そんなに難しいことではありません。完成度が上がった文章は、ちょっとした接続詞を挿入したり、削除したりするだけで、まるでジグソーパズルが最終段階を迎えたときのように、面白いように決まり出すはずです。もし、そうならないというのなら、それまでの推敲が甘かったということです。完成度が上がるのにつれて、文章の自由度はどんどん減少していきます。これしかないという一文が増えるのにしたがって、修正する箇所がより明らかになってくるはずです。もちろん悩むことも多いでしょう。何度も読み返しているうちに、良くなってきたのか、むしろ悪くなっているのか、分からなくなることも多いと思います。でも、絶対に手を抜いたり、諦めたりしてはなりません。ここで、更に突っ込んだ推敲ができるかどうかで、この作品だけでなく、次の作品のクオリティーに影響が出るのです。
推敲は、『どうしたらいいのか分からなくなってからが勝負』 なのだと覚えておいてください。

さて、いよいよ、第六稿から最終稿ですね。
ここで注意する点はふたつです。
ひとつは、モニタを見ずに、赤ペンを使って推敲すること。
もうひとつは、読者のスピードに合わせて推敲すること。
ひとつめは、もういいですね。あくまで出版を目指す文章なのですから、紙だけ見てそこに綴られた文字に集中してください。
もうひとつは、結構難しい作業になります。100枚の原稿なら、読者が読み切る時間はおそらく1時間程度だと思います。400字詰め原稿用紙1枚につき、40秒くらいでしょうか。これが1分だと分かりやすいのですが、それでは遅すぎると思います。だいたい100枚1時間。このペースで原稿を読みながら、赤を入れていきます。ところが、赤を入れていると、読みが分断され、またその度にスピードが落ちるのです。これをいかに防ぎながら推敲を進めるかがポイントになります。
最終稿では大幅な加筆はもちろん、削除もほとんどなくなるでしょう。でも、あらゆる語句はもちろん、句読点ひとつひとつ、改行の一箇所一箇所に神経を配ってください。そんなことの積み重ねが、読みやすい文章と読みにくい文章との分かれ目になるのです。読みにくい文章が必ずしも悪いとはいいませんが、少なくとも、それは私の目指すところではありません。

以上で宮ノ川流の推敲は終わりです。

これを一年から二年続ければ、おそらくかなりのところまで上達すると思います。プロの作家になりたければ、あるいは賞を獲りたければ、徹底的に文章を鍛えることです。センスを磨くとか、才能がどうとか、流行がなんだとか、そんなものは関係ありません。あるいは、プロになってから考えればいいことです。文章を職人的に鍛えること。これができれば、あとは書くべき題材と、ふさわしい賞に巡り合うだけです。受賞は時間の問題でしょう。

貴方という仮の人物に向けて書きましたが、全て私がこれまでやってきたことを纏めただけです。でも、間違っていないと思いますよ。たぶん。


追伸。
デビュー前、またはその直後の推敲方法です。
今はだいぶやり方も変わってきています。








inserted by FC2 system