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2011年5月




5.12
一号機の燃料棒は全て溶融していたという。そりゃそうだわな。水バンバン入れたはいいけど、それだって全部ダダ漏れだ。福島の海は死んだも同然。なのに、海に流れ出た汚染水の責任者は誰か分かりません。









5.13
放射線量 表土入れ替えで10分の1に…福島の園庭
毎日新聞 5月8日(日)22時33分配信


何でも穴掘って埋めれば、目の前から消えればOKって、どういうことだろう。海に流して、ハイ!さようなら、でいいのか?
放射線も怖いけど、本当に危ないのは放射性物質を体内に取り込む『内部被曝』だという。セシウムなら半減期30年だっけ? そんな放射性物質が埋まっている幼稚園の園庭で、子供を遊ばせるつもりなのか? おい、文部科学大臣、おめえの孫もそこで遊ばせられるのか? 子供と母親だけでも、疎開できる環境が必要だと思わないのか?









5.14
蝶を追って道路に飛び出してきた雀を轢いてしまったことがある。あれほど注意深い鳥でも、夢中になると周囲のことが眼に入らなくなるんだね。



3号機注水量増やす…原子炉の温度上昇止まらず
読売新聞 5月14日(土)13時4分配信


いよいよ本命がきたのかな。



建屋内で2000ミリシーベルト=地下に水、格納容器から漏出か―福島第1
量は約3000トンに上る可能性がある。 
時事通信 5月14日(土)18時6分配信


2.000ミリシーベルト/時とは、一時間程度浴びると、20人にひとりが死亡する線量らしい。
ちなみに以下は全て同じ線量です。
1シーベルト
1.000ミリシーベルト
100万マイクロシーベルト

1000万マイクロシーベルトを浴びると全員死亡するらしい。
つまり、10シーベルトとか1万ミリシーベルトかな。全て一時間浴びた場合だと思う。(7シーベルトでも死亡確実のようだ)

ちなみに、高レベル廃棄物(使用済み燃料を再処理した後に出る廃液をガラスで固めたもの)の線量は当初420シーベルト。30年後に30シーベルトになるらしい。

で、今回見つかった水は2シーベルトだね。
で、それだけの放射線を出す『放射性物質』があるということだね。
で、たぶん、似たような水をたくさん海に捨てたんだね。











5.16
賠償で料金値上げ『納得』48% 朝日新聞世論調査

ジョーダンじゃない。お人よしもいいところだ。東電の不始末は東電が取るのが当たり前。オレ達はこの不景気に、まっとうに、必死に働いても誰も助けてくれないんだ。ふざけるなといいたい。節電も結構だが、ピークを下げるのが重要だという。そんな説明もロクにない。東電は、当面ローソクで仕事してほしい。



3号機の不安定さ続く 温度上昇・窒素ガス注入できず
原発の燃料には低濃縮のウランが使われ、事故後の溶融で圧力容器下部にたまっているとみられる。


3号機はプルサーマル燃料だと聞いた。プルトニウムが入ってるはずだ。なぜ新聞社はきちんと書かないのだ。











5.17
角川書店から『事務所移転・統合のご案内』が届いた。新本社事務所って書いてあるけど、新本社ビルを建てたのか。隣に土地が確保されていたから、そこなんだろうね。今季(半期決算かな?)も増収増益だったというからうらやましい。おこぼれが欲しい。




『もういいよ』
投げ捨てるようにいうと、自分に向けられた言葉と勘違いしたのか、ハッピーがケージの中で短く鳴いた。
幸せという名のインコ P253-254より抜粋


『もういいよ』
ハッピーはこの言葉を真に受けたんだね。で、以来お告げを止めてしまうんだけど、それに気が付いた読者はひとりもいないようだという、今更の話し。



反原発関係の動画をいくつか見て思うんだけど、なぜか録画しているカメラの近くで咳をするひとがいるんだよね。オレは反原発、自然保護の立場を取っているけど、同じ目的の彼らが、うさんくさく見えて仕方がない原因のひとつに、動画の音声に混ざる咳があるような気がしてならない。
咳は弱者の象徴なんだろう。でも同時に弱者の傲慢を表しているようで腹立たしく思えるんだ。なんなんだろうね。言いがかりに過ぎないのだろうね。でも、とても不愉快になる。たぶん、貧しさを見せびらかすとでもいうのか、自分たちは弱者であり、権利を有しているという尊大な態度だと誤解してしまうのだろう。少なくとも原発推進派の集会で、咳をするひとはいないような気がする。もちろん偏見。
いずれにしても咳が止まらないなら退出するくらいの気配りはしてほしい。会場にいた訳でもないのに、こんなことをいうのもどうかと思うけどね。











5.18
三島由紀夫賞、山本周五郎賞、ともにデビュー作で受賞の女性。
新潮社はオレが・・・



The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.
ボブ・ディラン 『風に吹かれて』

出典は『伝道の書』 なのかもね。
だとしたら、日本のフォークソングの歌詞 『振り返っても、そこにはただ風が吹いているだけ』 とは、ちと意味が違うのだろう。











5.19
明日は20日
。実業の締め日。オレの一番嫌いな日。寿命が縮む。たとえ話ではなく実際縮む。しかも近頃は更に加速度が増している。世界終末時計でさえ、ひとまず進行が止まったというのに。


マスコミがこの夏の電力不足の懸念を盛んに書いている。暗くなった東京でひったくりが激増したと報じている。
何とか原発を継続させて、東電からの収入を得たいのだろうと邪推している。











5.20
ホラ大
の大賞は受賞作なし。もしかして、『受賞作』 というタイトルで、『なし』 というひとが書いた作品かと思ったが、どうやらそうではないようだ。ちょっとさびしいような気がする。



Ohhhhhhhhhhhhh!!! マイガ!!!
彼女にメールを送ったら、『様』 が抜けていた。
ごめん。




玄関ポーチにスズメバチが巣を作りだした。
気の毒だけど、ここは貸せないんだ。
ということで、女王さまが留守の間に撤去完了。
ごめんね。












5.21
今日は粗大ゴミの日。朝からビデオデッキなどを運び出して、さあクルマに積み込もうと思って、ふとカレンダーを見たら収集日は昨日だった・・・ありえねえ。



オレが原発に反対する理由のひとつは、『高レベル放射性廃棄物』
ゴミにこれほど時間と金を掛け、しかも安全が保障されないなんてバカバカしいと思わないのだろうか。
という動画を原発のページに追加した。



『原発が危険だというなら、飛行機だって自動車だって危険だろう。いや、危険どころか実際に何万人も人が死んでいる。原発反対というなら、これらも禁止するべきじゃないのか』
こんな反論をする推進派がいるという。
びっくりした。
だって、飛行機や自動車が危険だというのと、原発の是非は何の関係もないよね。論点のすり替え以前の問題ジャマイカ。
『道を歩いていたって死ぬことがあるんだ』
に、いたっては反論するのも大変だ。人間は必ず死ぬんだから、環境を破壊しようと、放射能汚染しようと関係ないってことなんだろうか。

ついでにいうと、飛行機や自動車もそろそろ何とかした方がいいと思う。飛行機なら、シートひとつひとつにパラシュートを付けるとか、飛行船のように、激しい落下が起こらない乗り物を開発した方がいいと思っている。
『人間が自動車を持つのは早すぎた』
と、いう知識人もいるそうだけど、オレもそうだと思う。自分が事故で死ぬというより、他人を事故で殺してしまう危険性が常に付きまとう道具なんて、他にないからね。雨の夜の運転なんて本当に怖い。
300km/h出せる車を所有したいと思っている。でも、それを公道で走らせる正当性をオレは見いだせない。すごく欲しいし、公道で運転したい。でも、必要以上のスピードを公道で出すということは、要は人を死なせる危険性に目をつぶって、ただ快楽を得たいだけなのだと思う。制限時速以上出せる車なんて、そろそろいらない社会になる必要があるのではないだろうか。スピードの快楽を求めるなら、気軽にサーキットに行ける社会こそ成熟した社会なのだと思う。オレは業務上過失致死に問われたくない。家族もまた同様に。
とりあえず、ぶつからない車の普及を急いで欲しい。
で、フェラーリはサーキットで乗りたい。(でも、街乗りして見栄も張りたい、本当は。買えないからカンケーないけど)











5.22
『ポッポッポー、ハトポッポー』
どういう訳か、6:00になると口笛を吹く同居のオカメインコ。
朝からうるせえよ。おめえは鳩時計か。










5.23
某地方文学賞に入選した時のこと。関係者に新潮の元編集長がいて、吉村昭氏に似ていると言われたことがある。吉村氏は好きな作家だからうれしかったが、たぶん氏の動物モノに登場する人物の造形の仕方が似ているのであって、文体などは随分違うと思う。
昨日ちょっと思いだして氏の代表作のひとつ、『熊嵐』 (アマゾン、ネタばれ注意!)について調べてみた。日本で発生した最悪の獣害だという。あのときは史実に基づいたものだとは知らず、当時付き合っていた女の子が、怖くて夜眠れなくなったというので、試しに読んでみたのだった。
ジョーズを見た後に海水浴に行くヤツはいないと思うが、『熊嵐』 を読んだ後に、山に入るヤツもいないだろう。リアリティは凄まじく、強烈な読書体験だった。ただし、動物を扱った小説としては、『魚影の群れ』 の方が面白かった記憶がある。
それにしても、氏の文章はまるで事務的なのに、あれほどのリアリティを持つ。是非見習いたいものだ。

熊嵐(三毛別熊事件(ネタばれ注意!)については、WIKIにも詳細が掲載されている。これを読むだけで恐ろしくなるほどだ。

ラジオドラマはこちら。夜眠れなくなっても責任は持たない。










5.24
子供の頃から動物が好きで、だから作品にはよく動物が出てくるし、好きな小説も動物が関わっているものが少なくない。
畑正憲氏などもよく読んだ。ただ、『動物王国』 より、『無人島記』 の方が性に合った。『動物記』 の場合、それで食っていこうとするためか、どこか鼻に付くような印象を受けてしまうのだ。
で、オレのイチ押しは、『天然記念物の動物たち』 名著だと思う。
拙作、『ハンザキ』 は、この作品集からイメージとヒントを得たものだし、何より動物との距離感を学ぶことができたのは収穫だった。愛するだけでなく、恐れるだけでなく、なんていうか、その間に漂う空気感のようなもの。それが、とても新鮮で強く影響を受けたものだった。東大の研究室で、オオサンショウウオの観察をする場面が秀逸。
やまなし入賞の少し前、大学を卒業したばかりの女の子と付き合っていた。(見栄張ってます) 彼女が再び大学に戻って鳥の研究をするというので、餞別にこの本を手渡した。全然喜ばなかった・・・。女は苦手だ。










5.25
芥川龍之介、井上靖、丸山健二。三人の作家に影響を受けた。文章であり、世界観であり、人生観。オレは基本ミーハーで、カブレ易いタチだから、そのたびに性格や行動まで変わったものだった。というより、コロコロ変わりすぎて、元々の自分がどんなヤツなのか、今ではとんと分からない。きっと中身のないヤツなのだろう。器だけがあって、その都度、気に入ったキャラクターを当てはめているのかもしれない。
『しろばんば』 『夏草冬濤』(上下) 『北の海』(上下)
井上靖の自伝的小説三部作。飾らない文章。何も起こらない小説。どこにでもいそうな青少年の物語。今でも自分の中に大きな影を見ることができる。
『しろばんば』 『夏草冬濤』 それぞれの冒頭は忘れることのできない名文。










5.25
オレの言うことは、ほとんどジョーダンだ。



才能があるというのは、特殊な何かを持ち合わせているのではなく、普通の人が当然持っている何かがひとつふたつ、見事に欠落している状態。つまり不完全な人間。

丸山健二氏。 うまいことをいうもんだ。




『化身』を手に取り、パラパラとページをめくる。
自著を開くのは出版当時以来のこと。
過去に手を出すとはオレもモーロクしたもんだ。
相変わらずの崖っぷち。
おもしれえ。











5.27
ミニトマトとキュウリの苗を植えた。面倒だから今年は止めようと思っていたのだけれども、ちっぽけな花壇が雑草に覆われているのを見ていたら、なんとなく気の毒になってきたのだ。去年は病気で全滅したし、台風の風に当たって枯れてしまったこともあった。菜園に興味はないから、ほとんどほったらかしにしているのがいけないのだろう。それでも、自分で植えた作物が育つのを見るのは悪くない気分だ。












5.28
小説宝石6月号が届いた。毎月、ありがたいことです。

『マグニチュード9クラスの巨大地震が発生する』
小説宝石2月号に発表した拙作 『鯨塚』は、大地震警報が発令されるところから始まる短編小説だった。
『沖に向かって伸びる防波堤も、津波が来れば何の役にも立たないだろう』
全員が避難を終えた小さな漁村を主人公の警察官が見回っていると、その防波堤の先で釣りをしている老人がいた。


エンタメを強く意識して書きあげた作品だったが、1ヶ月後に起こった大震災によって、内容が微妙に変質したような気がする。
それにしても、震災前に発表できて良かった。こんなことを書けば被災者の方は気を悪くするかもしれないが、その後の発表なら価値は激減していただろう。




ラジオを聴いていたら、○○○大学の詩のナントカ部というワカモノ達が出てきた。どんな活動をするのかといえば、皆で同じ詩を読み、それについて話し合ったりするらしい。詩を書きたいなら、まず群れるのを止めるべきだな。



毎朝10:00に缶コーヒーを買って飲んでいる。毎日120円はもったいないけど、オレは朝食をとらないから、この時間に糖分を補給しておかないと、11:00〜13:00までの執筆に差し支えるのだ。ウソのようなホントの話。










5.29
執筆の二時間前に、エネルギーの補てんは完了しておくべきでしょうね。
運動選手が試合前にいつ何を食べるかきちんと考えているのに、小説を書く人がそれを考えないのは、いかがなものかと思います。脳も肉体の一部なのですから。
執筆時間をどう有意義に過ごすかに腐心する書き手は多いのですが、書いていない時間をいかに過ごすかに注目する人は少ないですね。充実した執筆を望むなら、充実した休息を心がけるべきでしょう。日曜日にリフレッシュするとかいうことではありません。執筆をする当日の過ごし方の問題です。つまり執筆に入るとき、いかに新鮮な脳を準備するかということです。
疲労した脳ではロクなものは書けません。その日の用事を済ませてから執筆にかかるというのは、つまり、執筆より、執筆以外の用事の方が、脳を使う優先順位が高いということなのです。
とはいえ、小さな子供がいたり、仕事を持っていたりすると、そうもいっていられないと思います。その場合は身体を鍛えてください。仕事や子育てによる負荷を筋肉に負担させることによって、脳をある程度新鮮に保つことができるのです。
小説を書くのは恐ろしく脳に負担が掛かります。この無謀な行為をよりよく行うためには、よりよい状態の脳が必要だというこを忘れないようにしましょう。肉体は少々疲れていても動きますが、脳は僅かな疲労でも、格段に能力が落ちます。
一生懸命書くことが、全力を尽くすこととは限りません。こういうことに気を配ることも大事だと思います。私はこのことを軽んじたために、去年の秋から数カ月を棒に振り、その上、危うく全てをダメにするところでした。










5.30
近頃の執筆時間は1日約2時間。机の前に座ってから物語世界に入るまでに30分くらいかかるし、途中でサボったりもするから、正味書いているのは1時間より少し長いくらいだろうか。
創作にかかわる作業の場合、連続して集中できる時間は、2時間から長くて3時間が限界だという。彫刻家であるオレの父親もそういっていたし、丸山健二氏や他の小説家からも聞いたことがあるから、多分に真実なのだと思う。
サボる時間を入れても、2時間あれば3枚は書ける。100日続ければ長編一作の初稿が上がるはずだ。これ以上急ぐ必要がどこにあるのだろうか。長時間原稿用紙に向かうひとの場合、自己満足を得たいだけの可能性がある。気持ちは分からなくもないけど、書けなくなる最も大きな要因のひとつである『書き過ぎ』に陥る危険性があるから気をつけた方がいい。
近頃はあまり耳にしなくなったが、『書き過ぎないこと』は、執筆における数少ないセオリーのひとつだ。もうちょっと書きたいと思ったところで筆を置く。乗ってきたらその日の執筆は終わりにする。後は明日。
そうやって、明日に力を残すこと、明日に繋げることが大切だという。
漫画や連続ドラマでいうところの予告編みたいなものだろうか。書きたいものを明日に持ち越すことによって、エネルギーが溜まり、紡ぐべき物語が豊かに膨らむのである。あるいは間をおくことで冷静になり、間違った方向へ導こうとする夾雑物を排除する効果もある。休むことが大切というのは、そいうことも意味する。だから厳密にいえば休みであって休みでないのだが。
ただし、推敲の場合はちょっと違うときもある。オレは7稿で作品を仕上げるのだけれども、6稿からはできるだけ一気に推敲を掛けることにしている。作品をより読者に近い形でイメージするためだ。長編小説の場合、休みを挟んで30時間くらい通しで作業したこともあった。あるいは、そうすることで精神的にも脱稿するのかもしれない。










5.31
兼業作家が専業になると、むしろ執筆枚数が減る場合が多いという。つまり、たくさん書くこと、長時間執筆することに気を取られ、よりよく休むことが疎かになった結果なのだろう。
必要なのは、集中し、没頭すること。それができないというのは、準備が整っていないからだろう。書きたい物語を具体的にイメージし、書きたいという欲求を高める。それができれば、実際の執筆はむしろ作業に近い




ホラ大の募集要綱が変更になった。長編賞と短編賞がなくなり、読者賞が新設された。多くの優れた作家を輩出した部門賞がなくなるのは寂しいような気もする。枚数は150枚から650枚。賞は獲れるときに獲っておくものだと改めて思った次第。




こんなブログでも、誰かの役に立つことがあるようだ。
とてもうれしい。(^-^)

二時間の映画だって、毎日見るのはキツイよね。

オレは『書くぞー!』って気合い入れないようにしている。
『しょうがねえ、ショーセツでも書くか』という感じ。
で、気がつくと、『いつの間にか没頭していた』というのがベストかな。





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