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2012年6月



6.30
『白河市立図書館開館1周年記念』宮ノ川顕:講演会・トークイベント。
白河市のホームページにお知らせが掲載されました。ダウンロード形式のポスターまで用意して頂き、感謝の念に堪えません。話は下手でですが、あんなことやこんなこと。全て本音で語りたいと思っています。お近くの方は是非お運び頂けますようお願いいたします。






6.29
昨日のツイッターの呟きから転載。

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小説において描写が善で、説明が悪だと考える人はとても多い。極論すれば全くの間違いだ。説明こそ大事なのだ。『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。』この見事な説明文があってこそ、『夜の底が白くなった。』以後、全ての描写に命が宿るのだ。説明が成功すれば、描写は自ずとついてくる。

小説文には三種類ある。即ち、説明と描写と会話(独白)である。説明は物語を動かし、描写は止める。そして会話は物語の内側へと読み手を引き込む効果がある。読みやすい小説を目指すなら、これらの効果を吟味し、それぞれの分量と配置を決めるのが良いだろう。文章の動きが単調な小説は読み難い。

小説文を綴るに意識すべきは、リズムとメロディである。リズムは小説文の三要素に加えて、文の長短や単語によって構成される。一方メロディは大小様々なストーリーと感情の流れである。これら双方が見事に組み合わされたとき、文章が消え、読者の眼前に作品世界が生き生きと立ち上がってくるのである。

『小説の書き方は企業秘密だから誰にも教えない』そういった売れっ子作家がいた。一方『私は文章には凝らないから』といった書き手がいた。双方の文章を読んだことがある。前者の文章はまるで子供の作文で、後者の文章は見事な技巧に満ちていた。ただ、それだけの話。
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知り合いのブログは読んでいて面白い。理由のひとつに、事前に充分な『説明』がなされていることがある。知り合いであるから、普段の行動や言動、はたまた人となりを、良く知っている。だから、多少言葉足らずであっても、ブログの記事という『描写』が生き生きとして、読み手に伝わるのである。
自分の見た景色を、読み手もに見てもらいたいと思うなら、何よりもまず、読み手を自らが立つプラットフォームに呼び込むことが大切だ。自らが立つ位置に、読み手を立たせるととができれば、書き手の目論見は半分成功したようなものである。あとは『ほら、あそこに花が咲いている』と書くだけで、読み手は書き手と同じ花を見るだろう。







6.28
日曜日はつくば市にある公園に行くことが多い。広い敷地の中には、野球場、サッカー場、体育館やプールまであって、中央に大きな池がある。以前は行くたびに、公園の外周に沿って整備された一周3qのジョギングコースをのろのろと走っていたものだが、本が売れないと分かってからは、そんな体力作りも面倒になってしまった。
その代り、近頃はカメラを持ってウロウロすることが多い。ガクアジサイや、バラ、カラス、トンボなどはこの公園で撮影したものだ。冬には色々な種類の野鳥がいたのだが、暑くなるにしたがって、あるものは北に帰り、あるものは子育てでもしているのか、なかなか姿を見ることができなくなってしまった。
それでも、水と緑がふんだんにある公園には、トンボや、カエルなど、様々な被写体がいて飽きることがない。とはいえ、本音をいえば、昆虫だの両生類より、撮るなら断然女性がいい。そこで、きれいなご婦人が犬の散歩をしているのを見るにつけ、犬の写真を撮らせてもらうことを口実に、何とかその姿を撮影させて貰えないだろうかと画策しているのだが、まだ実行したことはない。
先日の日曜日のことである。薄着になりつつある女の子を横目に、トンボだのハチだのカエルだのと、色気のない被写体にレンズを向けていた。公園の外周を回って、芝生の広場を歩いているときだった。低く刈り揃えられた笹の茂みの脇に何かの気配がある。見ると、大きな青大将が長々と横たわっていた。
蛇はムカデと並んで大嫌いなオレだが、テレビでその姿を放映していたりすると、画面に釘付けになるのだから、まんざら嫌いではないのかもしれない。また、近頃は歳をとったためか、生き物というか、命そのものが愛おしく感じるのも確かで、たとえ自宅の庭に出没しても、若い頃のように、石を投げたりはしなくなった。
日差しは強いが風が冷たかった。たぶん、日陰に潜んでいて冷えた身体を温めているのだろう。大きさは1メトールはゆうに超え、1メートル50センチ近くありそうだ。脅かさないよう、ゆっくり近づくと、彼はいつでも逃げ込めるよう藪に顔を向けた。それでも、鋭い本能で相手を見切ったのか、それ以上動くことはなかった。
膝を付いて姿勢を低くする。レンズをズームにすると、丸い目に茶色の光彩が光り、その中央にある瞳孔がオレを見つめているのが見えた。顔の周りに泥のようなものが付着しているが、脱皮したばかりで、古い皮が残っているのかもしれない。
静かに数枚の写真を撮って、その場を離れた。
こんな都市にある公園の片隅で、彼は何年くらい生きているのだろうか。子供に見つかれば、石や棒で追い立てられるだろうし、神経質な母親なら、公園の管理者が呼ばれて駆除されるかもしれない。若い男が相手なら、命にかかわる仕打ちを受ける可能性も高いだろう。
それでも、彼は公園の芝生の片隅で日向ぼっこをし、こっそり餌を獲って生きている。正直、蛇は苦手だけれども、こうして目と目を合わせてシャッターを切ると、それなりの親近感が湧くものだ。今度行ったら、また同じ場所に行ってみよう。あるいは歓迎してくれるかもしれない。寄ってこられるのも困るのだが。

青大将の写真はこちら
苦手なひとは見ない方がいいです。
よく撮れてると思うけどね。







6.27
7月29日(日曜日)13:00から、白河市立図書館にて『講演会・トークイベント』をすることになった。

開館1周年を記念してのことだという。
オレは、講演などするような柄でもなければ、器でもないが、依頼されて断るほど偉くもないので、引き受けたのである。
江戸川乱歩賞を受賞した白河市出身の作家、川瀬七緒さんが、今年の三月に同じイベントを行っている。オレもまた白河市出身ということで声が掛かったのだ。
白河は母方の出身地である。オレはいわゆる里帰り出産で生まれた。だから、住民票がそこにあった訳ではないが、夏休みなどは決まって祖父母の家に帰っていたし、自分の中に東北の血を強く感じることもあって、やはり故郷という実感はある。

昨夜、市内のホテルに予約を取った。
帰るのは二十数年ぶりだ。祖父母はとっくに鬼籍に入っており、住んでいた家もない。先祖代々の墓も叔父の住まいの近くに移してあるから、帰る理由がなかったのだ。おそらく、随分変わってしまったことだろう。楽しみでもあり、不安でもある。

200人収容の会場で整理券も配布するという。無名作家のこと、席はガラガラだろう。少しずつ講演原稿も書いている。人前で話をするのはひどく苦手だけれども、格好つけずに本当のことを話したいと思っている。来てくれたひとに得をしてもらうことなど、できるはずもないが、せめて、損をさせない程度の話はしたいものである。

川瀬さんのときには、ネット配信もあったようだ。ただし、いつでも聞けるスタイルではなく、時間指定での配信だったらしい。今回もあるのかどうかは知らない。
ちなみにオレの話し方はこんな感じです。当日ガッカリされないように、インタビュー動画があるページのリンクを張っておきます。
http://www.kadokawa.co.jp/sp/200910-06/







6.26
今日『社会保障と税の一体改革』が、国会で採決される見通しだという。社会保障は、うまくいっても現状維持だろうから、実質ただの大増税案なのに、上手い名前を付けたものである。オレなら今年の流行語大賞に推挙する。

丸山健二氏は、自身の講演会で、今の時代を第二の戦後と位置づけているといった。おそらく似たような思いを抱く人も多いだろう。オレは戦後というより、戦争末期の状況に近いのではないかと思っている。

真珠湾攻撃で口火を切った太平洋戦争は、マレー沖海戦で大勝利を納める。(貿易黒字)日本軍は南方戦線においても次々と勝利した。(バブル経済、ジャパンマネー)しかし、拡大した戦線をちっぽけな島国の資源で支えることはできず、ミッドウェー海戦での惨敗(バブル崩壊)以降、戦局は不利の一途をたどる。
大本営(自民党)はそれでも、神風に代表させる精神論(小泉改革:米百俵の精神)で国民を鼓舞し、戦争を継続した。だが、戦局が好転することはなく、ついに弾薬兵糧も尽きた。(国の借金1.000兆円)
にもかかわらず、簡単に敗戦を認めることのできない軍部(政府)は大政翼賛会(民自公の合意)を組織し、さらなる戦争継続(消費税増税)への足場を固め、やがて特攻作戦(原発再稼働)へと突入していった。

来年の春には『中小企業金融円滑化法』が失効する。つまり、借金の返済猶予期間が切れるわけだ。景気回復には遠い状況にあって、倒産する企業が増大する懸念があると言われている。しかもこの消費増税だ。
オレには、倒産やリストラが、『赤紙(召集令状)』に見えて仕方がない。これを読んでいる貴方だって、今は安泰かもしれないが、どんな大企業に勤めていても、明日は分からない世の中だ。
ひとまず安心していられるのは、士官学校を卒業して、司令部(公務員)に所属しているエリートくらいである。
一般人は、赤紙(倒産、リストラ)が届けば、すぐさま前線(ハローワーク)送りだ。そこには戦死者(失業者)がごろごろしている。たとえ就職(配属部隊)が決まっても、南方戦線の泥沼をはいずることは確定なのだ。
就職活動中の学生の自殺が急増しているという。オレはその報道を聞いたとき、ついに『学徒動員』始まったのだと思った。

多くの国民は、もう戦争に負けて(財政破たん、原発廃止)いい。一からやり直したいと思っているのではないだろうか。しかし、大本営(資本家)は戦犯として断罪(資産がゼロになる)されるのが怖くて戦争をまだ続けたいようだ。
オレにはそのように見えて仕方がない。







6.25
オーストラリアの最低賃金は1.600円程度だという。日本の最低賃金は東京で873円。低い地域では645円である。オールトラリアとの差、約二倍。この二十年でオーストラリアのGDPが3.3倍になったのに対して、日本のGDPはほぼ横ばいであることを思えばこの格差は当たり前かもしれない。
すき屋の牛丼は並盛が280円。先進国と呼ばれる国において、ランチが500円以内で食べられるのは日本くらいだと聞いたことがある。その意味で、既にこの国は先進国ではないのかもしれない。それはそれで構わないが、かといって発展途上国でもないのだから始末が悪い。
自殺者が年間三万人。生活保護受給世帯数は戦後最高。これが自前の文化を捨てた国の哀れな末路なのだと、オレは思っている。ひたすら欧米の背中を追って、闇雲に頑張って来た結果、GDP世界第二位まで到達した。だが、ロックフェラービルを買収したからといって、その魂まで買えた訳ではなかった。
目標を失った瞬間に、この国は迷走を始めた。先頭に立ったのだから行く道を選択、あるいは開拓しなければならなかったのに、自らの価値観を放棄した国に、方向を見定める能力はなかったのである。
『幸せのある方向』を探すために、最終的にモノをいうのは『直感』だとオレは思っている。原子力が良いか、再生可能エネルギーが良いか、その選択において、正しい判断などないのだ。未来は誰にも分からない。だから、ただ良かれと思う道に進むしかないのだ。
オレは再生可能エネルギーを選択したい。しかし、数年中にも、放射能除去装置が開発され、高速増殖炉が実用化されるかもしれない。そうなれば、あらゆる面で、原子力は再生可能エネルギーを遥かに凌駕する。まあ、そんなことはないと『直感』するから、原発に反対しているのだ。
この『直感』のベースにあるのが、それぞれが持つ価値観である。価値観は育った場所の文化に深く根ざしている。だから、自国の文化を捨てた国に未来はないのだ。
近頃また『グローバル化』が声高に叫ばれている。国際化である。結構なことのように聞こえるけれども、オレは今こそローカリズムを重要視したい。多様性を失うのは、不健全だと思うし、違う価値観が無くなることにより、指標を失う危険性が高いからだ。
ちなみに、TPPに代表される『経済的』グローバル化とは、つまり、国の上に会社を頂くことを意味するのだという。国境を自由に超えて経済活動がなされるといえば、良いように聞こえるけれども、経済活動の頂点に君臨するのは、巨大企業という名の『私』であることは覚えておいた方がよさそうだ。







6.24
国民全員で痛みを分かち合おう、という考えには反対する。
節電も同じだ。今までたっぷりと原発の恩恵にあずかってきた者たちがいるはずだ。痛みならそいつらに回してもらいたい。しこたま貯め込んだカネで、自家発電装置でも買えばいいのだ。消費税もまた同じ。
痛い思いをするのは、いつだって弱者だ。弱者の痛みの上に成り立つ国家とは、いったい誰のための国家なのだろう。年間三万人もの自殺者がいて、生活保護受給世帯数が過去最高に達したという。なのに、まだ進んで痛みを甘受しようとは、お人好しにもほどがある。自虐趣味を通り越して奴隷根性丸出しといいたいくらいだ。
この国に金がないとは思えない。金というのはあるところにはあるものだ。無ければ刷ればいい。
経済界に言いたい。今まで労働者をこき使って散々いい思いをしてきただろう。国難だという今こそ、その金と力を使ってこの国の役に立とうとしたらどうだ。自分たちの繁栄を支えてきた者たちを救済したらどうだ。
財界にその力がないとは言わせない。連中は、金も、権力も、頭脳も、たっぷり持っている。一社二社では無理かもしれない。しかし、この国の基幹ともいえる企業が何十社も力を合わせれば、たいていのことはできるはずだ。バックには日銀だってある。私利私欲にまい進して巨額の富を手に入れたのだ。その責務があるのだとオレはいいたい。
オレの言葉は無責任だという進言があっても、耳を貸したくない。自分勝手で構わない。自分勝手の集合が民主主義なのだ。危険なのは、我慢すること、口を閉ざすことだ。それを喜ぶのは、資本家と為政者なのだ。お人好しも、たいがいにした方がいい。



睡蓮の花が咲いた。







庭のメダカ池。睡蓮のつぼみが膨らんだ。明日はきっと咲くだろう。







ま、そりゃそうだ。





6.23
浮上しない。それどころか、沈む一方だ。正直、何をやってもダメそうな気がする。そして、事実ダメなことばかりだ。ザリウンだぜ。







6.22
『この学校に赴任してまだ僅かだが、ここの生徒はよく勉強するらしい』
たとえば、上のような文章を見かけることがある。オレは一読して違和感を覚えるし、ときには、そこで読むのを止める。
なぜもっと丁寧に書かないのだろうか。文意が段ズレしていても問題ないというのだろうか。
言いたいことが分からない訳ではない。だが、『赴任して僅か』なことと、『生徒がよく勉強する』ことは、何の関係もない。
『この学校に赴任してまだ僅かだし、人から聞いた話だからあてにはならないが、ここの生徒はよく勉強するらしい』
なぜ、こう書かないのだろうか。
細かいことだと思われるかもしれない。しかし、小説とはそういうものではないと、オレは信じている。







6.21
日曜日にウサギのストラップを貰い、昨日は都内某所から冷酒グラスが送られてきた。父の日のプレゼントだという。ただ、娘だけは父の日はおろか、オレの存在すら完全に無視している。それはそれは見事なものだ。大きくなったら、冷やし中華を返して貰おう。







6.20
もう、長い間小説を書いていない。書きたい訳ではないけれども、書いていないという現実に焦りを感じるのは事実だ。オレは口先ばかりで、ますますダメな方へと流れているのかもしれない。こういった雑文と愚痴は、筆が荒れる原因になる。気を付けなければならないだろう。







6.19
オレのことを毛嫌いしている娘がいる。実の娘である。
先日、その娘と安いのがウリのラーメン屋に入った。ふたりきりで外食をするのはたぶん初めてだと思う。
通りが見える席に向かい合って座った。同じ冷やし中華を食べ、どうでもいい話を少しした。
ただそれだけのことだ。







6.18
『気を付けないと、若い女の子のお尻とか触りそうになるんだよ』
野村克也氏が言っていた。
歳をとると、羞恥心がなくなるというか、女性との境界がはっきりしなくなるのだと。
分かるような気がする。
オレも近頃になって、チャラチャラと女の子を口説くようなセリフを平気で吐くようになった。
鬼瓦みたいな顔してよくいうよ。
周囲は呆れているだろうし、自分でもアホ丸出しだと思うけれども、つまり、若い頃のような生々しさが無いから、気楽に好きなことが言えるのだ。事実、オレが何を言っても若い女の子は冗談としか思わないだろうし、本心がどうであれ、オレもまた、それで充分満足だ。
野村監督のように手が出そうになるにはまだ修行が足りないが、年齢を重ねて良かったと思うことの、数少ないひとつである。







6.17
今日は蒸し暑かった。
オレがこの土地に来た頃、あちらこちらで立葵の花を見たものだった。近頃は随分減ったような気がする。まさか徳川の時代が遠くなったということでもないだろう。







6.17
遠くからプレゼントが届いた。
ありがとうございます。
昨夜さっそく頂きました。
美味いですねえ。幸せです。







6.16
『こんなところで、こんな文章を書いて何の意味がある』
定期的にこんな気分に襲われる。急に馬鹿馬鹿しくなるのだ。
このブログのアクセス数は一日平均50〜60だ。たぶん実質訪問者は30人もいないだろう。知り合いの官能小説家のブログは一日200とか300のヒット数があるという。近頃見かけないが、同じくネットで知り合った若い作家志望のブログは一日500ヒットだといっていた。
プロバイダーが提供するブログではなく、自分のサイトに設置した自前のブログだからアクセス数が伸びないのかもしれない。流行りモノは好きじゃないけど、今はフェイスブックが主流だというから、どうせならと始めてみたのだ。
乗り換えてから一か月が過ぎた。が、反応は鈍い。コメントを書き込んでくれる人や、いいね!をしてくれる人には感謝している。それでも、これでもプロの小説家かと思うほど手応えがない。
オレの小説はつまらないと多くの人が言う。じゃあエッセイならどうかというと、新潟新聞に半年間週一回連載したが、まったく反応がなかった。
オレの書くモノはそんなにつまらないのだろうか。
こう書けば、心優しい何人かは、そんなことはないと言ってくれるかもしれない。ありがたいことだと思いつつ、でも、それだけでは、プロとしての存在意義はないのだと言わざるを得ない。
毎月出版社から小説誌が送られてくる。ときおり小説やエッセイを読む。その限りにおいて、オレが劣っているとは思えない。いや、この際だからはっきり言わせてもらう。オレの方が上だ。
だが、オレを評価する者はあまりに少ない。
もう一度言う。
オレの書くモノはそんなにつまらないのか。







6.15
北鎌倉ではもうあじさいの花が咲いているという。高校時代、あのあたりは丁度自転車の練習コースになっていて、毎晩のように走っていたものだった。また、その頃、鎌倉に友達がいて、よく徹夜マージャンをした。腹が減るのでバイクに乗って大船まで吉野家の牛丼を買いにいったものだった。随分行っていないが、あの辺りはあまり変わっていないのだろう。
北鎌倉女子学園の文化祭に行ったのはオレが高校生のときだった。どんな経緯があったのか忘れたが、誘われたので仕方なく?ついていったのである。模擬店で何か買ったりしているうちに、やがて帰りの電車賃が心元なくなってきた。訊けば誰もが同じだという。ここで、素敵なアイデアを思い付いたヤツがいた。
『中途半端に持っているからダメなんだ』
ヤツは、有り金を全部使ってしまえば、むしろ道は開けるという。まあ、数時間歩けば帰れる距離のこと、それも悪くないと思ったオレ達は、さっそく僅かに残った財布の中身をもれなく散在したのだった。何を買ったのか忘れたが間抜けな話である。
当然、『どーするんだよ!』ということになった。
しかし、件のアホはいう。『オレが借りてきてやる!』と。
うっかり帰りの電車賃まで使ってしまい難儀していると言って、女子高生からちょっと拝借するというのだ。今から思えば体のいいナンパだ。まったくロクなもんじゃない。
うまくいくはずがねえ。オレは思ったが、ヤツは楽々とナンパ・・・いや借金に成功し、オレ達は無事電車に乗ることができた。
貸してくれた彼女は、返してもらえると思ったから貸してくれたのであって、それは、後日会ってもいいというサインに違いない。その後ヤツはちゃんと金を返したのだろうか。いくらアホでも、一度くらいは会ったと思いたいものだ。
最も、気が付いたときには、オレも知っている女の子と付き合っていたから、少なくとも、長続きはしなかったのだろう。やっぱアホがばれたのだと確信している。







6.14
当時最年少で芥川賞を受賞した丸山健二氏の初期の短編に『雪間』という作品がある。ある雪の朝、祖母が亡くなったという知らせを受けて、少年とその母が実家へと赴く話である。
家に着くと、集まった親族が葬儀の段取りについて話あっていた。そんな中、連れ合いを亡くした祖父は、ウサギを捕まえる罠を仕掛けておいたから見に行こうと少年を誘う。孫にウサギの毛皮で作った手袋を作ってやろうと思っていたのだ。一面の雪に覆われた山を登っていく少年と祖父。罠に掛かっていたウサギ。静まり返った風景の中、何気ない会話がぽつりぽつりと交わされる。
起伏の少ない静かなストーリーと、虚飾を配した筆致。佳作だと思う。この作品を読んだのは、もう二十年以上前のことだが、今でもその作品の中に広がる景色を鮮明に覚えている。
小説において、ストーリーは最も重要な要素である。しかし、それは飛んだり跳ねたりすればいいというものではない。静かな流れの中に、人の心の奥底が見えるような小説を書きたい。そう思いながら小説を書いてきた。人生とは平坦なものだ。生まれて生きて死ぬ。所詮それだけのことだ。それを、大袈裟なストーリーで飾ってみたところでいったい何が見える。そんなものは所詮一時の気休めに過ぎないのだ。







6.13
大阪でご一緒させて頂いたお里さん。藤田朋子さんに感じが似ています。お里さんの方が全然若いですけどね。
先月大阪でお会いした方が、来月深川にいらっしゃるのも感慨深いですね。オレは実業の仕事の取引先が両国にあるので、少しだけ土地勘がありますが、同じ下町だからか、街の雰囲気が空堀と良く似ているような気がします。
それにしても、妖怪塗り絵。塗り終わったら何が起こるのでしょうね。

お里さんは、漫画家で、7月15日の『深川お化け縁日』で妖怪塗り絵を出品するそうです。





6.13
7月15日(日)に『深川お化け縁日』が開催されます。
【深川怪談2012 夏】に関するイベントのひとつで、会場は深川資料館通り商店街3丁目路上(歩行者天国)時間は13:00〜17:00。
お化け作家によるワークショップや、本格派妖怪グッズの販売、怪談古本市など、盛りだくさんだそうです。
『親子で楽しむ』というサブタイトルが付いていますが、怪談とくればやはりメインは男女の仲。そこの彼女も彼氏も是非出掛けることをお勧めします。
知り合いの挿絵画家『猫目書房』さんも店を出して、絵画の販売をされるそうです。彼女には大阪で会いましたが、女優の田中麗奈に似た美人さんです。美女好き、猫好きなら是非!お立ち寄りください。
オレも行きたい・・・。





6.12
『おとうとの生への執着が怖すぎた』
某サイトに書かれていた『おとうとの木』に対する感想だ。全般的に酷評が目立つオレの著作にしては好意的なもので、それはそれでうれしいのだけれども、果たして『おとうと』は生に執着していたのだろうかという思いはある。
半年ほど前のことだ。中学校を舞台にした小説を読んだ。とても売れた作品だという。主人公は女性教師。自分の受け持つクラスに、彼女の子供を殺した生徒がいる、という内容である。自分の子供を殺した犯人を前に、授業などできるものか、というのがオレの感想だった。母親とはそのような存在ではない。もちろん世の中には色々なタイプの母親がいるのだけれども。
『おとうとの木』は、家族という枠組みをベースに、命のあり方を問うた作品だ。眼前の生死というより、生命の持つ宿命とでもいうべき特徴に焦点を当てたつもりである。
作品を書くとき、オレはいつだって登場人物になりきって書いている。だから、この作品を書くときも、オレは自分に問うていた。オレならどうする、と。オレが父なら、母なら、主人公の兄なら、そして『おとうと』だったらどうする、と。
書き手とは、最初の読者だというのがオレの持論だ。だから、オレは同時に多くの読者にも同じことを問うたつもりである。しかし、そんな読み方をする読者は少なく、多くはエイズウイルス入りの牛乳に感心するらしい。
『おとうとの木』のラストは全部で三種類書いた。こんなことを言っても分かるはずはないが、最初は『神の失敗』として締め括った。しかし、いくらなんでも分かり難いと編集は言う。あるいは逃げているのではないかと。
兄を救うか救わないか。兄は救われるべきか救われないべきか。それが問題だった。
オレはさんざん悩んであの結末にした。成功だったと思っている。







6.11
次男(16番)が三段審査に合格した。おめでとう、といってやりたいところだが、合格率がありえねえほど高かったから、これじゃあ受かって当たり前のような気がする。運がいいのか悪いのか、オレに似て微妙なヤツだ。
父が次男で、オレが次男だから、彼は三代続いた次男坊ということになる。で、オレは祖父が歌人で、父が彫刻家だから、三代目の芸術系クリエーター。どちらも四代目を期待しているのだが、オレとしては、四代目襲名の権利を、無事引き渡したことに、ひとまず満足している次第。






6.9
原子力発電促進のエッセイは一本500万円の原稿料が出るという。オレのような小物作家には関係ない話だと思うが、もしオファーがあっても必ず断ると言い切る自信はない。家族もなく、飢えるのがオレひとりなら断るけれども。・・・いや、オレひとりだったなら、あえて毒饅頭を食らう道を選ぶだろうか。






6.8
サッカー日本代表がヨルダンと試合をしている。前半で4点を取ったと喜んでいる。選挙権すら持たない年齢の君は、戦争は終わったと思っている。でもヨルダン川には死体が流れている。そして世界中の原発は今も放射能をまき散らそうとしている。







6.8
口では原発反対などと言いながら、オレという男は陰で東京電力株を買い、利益を得ようとしていた。法に触れなければ、あるいは少々あくどいことをしてでも、オレは金を稼ぎ、生き延びなければならないからな。まあ最大持っていた時で2.000株ぽっちだし、結果は大損だけどね。
いずれにしてもオレがロクなもんじゃないことは自覚している。ただ、この『株主のみなさまへ』という一枚の紙が手に入ったのは悪くない。オレは社会派作家ではないが、いずれこの時代を描くに有用な資料になるだろう。
ちなみに2ページ目にはこう書いてある。
『人件費の抑制など、徹底的なコスト削減を実行いたします。』
おもしれえ。







6.7
おとうとの木を上梓した直後、ある評論家に言われたことがある。
『良い作品を書いていれば、やがて売れるという時代じゃないですよ』
おもしれえ。



それでも、良い作品を書こうとする姿勢は伝わったのだと、
ちとうれしかった記憶がある。




6.6
北陸の彼女が東京に来ているという。昨日はトーハクでショーハクを見たようだ。長谷川等伯に松柏なんてあったか?と思ったが、そうではなく、東京国立博物館(トーハク)に、曽我蕭白が来ているのである。そういえば先日、日曜美術館でその様子が放映されており、オレも行きたいと思っていたのだった。
蕭白の龍もいいが、若冲の鸚鵡も面白そうだ。以前大きな山の彼女のブログに若冲の象を見たと書いてあった記憶がある。あれはどこだっただろうか。
会ったこともない女性を捕まえて、彼女呼ばわりする失礼は毎度のこととスルーしてもらうとして、この『ボストン美術館、日本の至宝展』の概要を見るに、よくまあ、これだけのモノを二束三文で海外に売り払ったと改めて驚いている。とはいえ、そのおかげで多くの美術品が戦火に焼かれずに済んだのかもしれないのだから、美術品だって塞翁が馬なのかもしれない。
この国は明治維新と二次大戦という二度の動乱を経て、長年培ってきた自国の文化を捨て去り、代わりに他国の文化を全面的に受け入れた。しかし、だからといって、国民が自国を愛していないかというと、そういう訳ではないからややこしい。それどころか、維新も大戦も根底にあるのは、行き過ぎと言ってもいいほどの愛国心である。それが正しいかどうかはまた別問題だとして、それは間違いないだろう。
自国のために他国に学ぶのは悪くない。ただ、もう少しだけでいいから、自国の文化を大事にし、その上に他国の文化を取り入れようとは考えなかったのだろうか。オレはそれが残念に思えてならない。もし、今でも多くの街に江戸時代の建物が残されていて、それを大事に使っていこうという気風があったなら、あるいはこの度の原発事故はなかったのではないかと思われてならないのだ。



ジャガイモの花。








6.5
横浜の実家に帰ったときのこと。近所の銀行の窓口に行って驚いた。女の子が可愛いのだ。オレの住む北関東の田舎町にも銀行はある。しかし、残念ながら・・・だ。
具象彫刻家である父親は言う。彫刻はモデルが全てだと。なるほど一理あるような気がする。






見かけないネコ。カメラを向けると行儀良く座った。
揃えた前足に顔がある。
なるほど、これを見せたかったのだな。
悪くないけど、次は美人の顔か、さもなければ¥か$の柄で頼むぜ。






6.4
暑い。急に暑くなったような気がする。暑いのは苦手だ。まあ、6月になったのだから仕方がないか。







『秋元康はやはり天才だと思う』
そういったら、ちょっと引かれてしまった大阪の夜。

AKB48は嫌いではない。
歌姫という言葉があるように、
かわいい女の子がリズミカルに歌い踊るのは、『良いこと』に違いないからだ。
腹立たしいのは、背後に潜む『売れるものは少女でも売る』商業主義であり、
嘆かわしいのは、前面に群がる『買えるものは少女でも買う』ロリコンであって、
彼女たち自体は基本的に好ましい存在だと思っている。

さて、前述の秋元康氏だが、正直俗物感は拭えないとはいえ、
『売れるものを作る』という感性と行動力はたいしたものだと思う。
オレのように『売れない』ことにプライドを懸けている小説家から見れば、
悔しくもあり、羨ましくもあり、馬鹿馬鹿しくもあるが、
しかし、それでも、『売れるもの』をコンスタントに世に出すことは、
それがたとえどんなシロモノだろうと、
やはり才能の成せる業だと認めざるを得ない。

ただし、オレが氏を才人(天才は言い過ぎだから才人に訂正する)だと思うのは、
『売れている』そのことではなく、氏の書く歌詞にある。
もちろん『売れている』という裏付けがあって、その歌詞があるという話だが。

オレが氏の才能のきらめきを見たのは『ヘビーローテーション』の歌詞だった。

♪顔や声を想うだけで居ても立ってもいられない。
こんな気持ちになれるって、僕はついているね♪

アイドル歌手で初めて自身の個人情報を歌ったのは、松本伊予だった。
♪伊予はまだ、16だから♪
今から思えば、あれは正に記念碑的歌詞だった。
それまで秘密のベールに包まれていた彼女達が、
自ら一歩を踏み出し、ファンの側に近づいてきた、決定的な瞬間だったのだから。
(プロデューサー側の思惑は、この際、割愛する)

初めて自身の職業紹介をしたアイドルもいた。小泉今日子である。
♪なんてったってアイドル♪
自慢と言われても仕方ない歌詞を堂々と歌い、社会はそれを受け入れた。
アイドルはある種の概念から職業へと変貌した。
神秘性は失われたがアイドルに世間的人格が生じたことにより、
絶滅に瀕していたアイドルに生存の筋道が示されたことは、
その後の大きな布石になったといえるだろう。

そして、ついに登場したのがAKB48であり、『ヘビーローテーション』である。
♪こんな気持ちになれるって、僕はついているね♪
この歌詞をよく読んで貰いたい。
『ついている僕』とは他でもないファンであることが読み取れるはずだ。
しかし、歌っているのは、アイドル側なのである。

ここで行われたのは、アイドルによるファンの代弁であり、肯定である。
オレは業界に詳しくないが、こんなことはかつてなかったに違いない。
正に画期的歌詞、コペルニクス的転換(笑)と言ってもいい。
オレはこの歌詞に秋元康氏の才能を見たような気がした。

アイドルは売り手であり、ファンは買い手だ。
つまり、売り手が、買い手に向かって、『買えて良かったね、ツイているね』と言っているのである。
しかも、歌詞の上では、それを言っているのは他ならぬファンである自分なのだ。
個人情報を晒し、職業を声高に紹介し、
そして、彼女たちは、ついにステージを下り、顧客の懐に飛び込んだと言えよう。

また、この歌詞の凄いところは、アイドルによるファンの自己肯定が見事に成立したことだ。
それまでアイドルの追っかけをする者に付き纏っていた、ささやかな後ろめたさが、この歌詞によって完全に吹き飛んだ。
なにしろ『僕はついている』のだから。彼女たちがそう言っているのだから。

この歌詞がなかったら、秋元氏の、AKB48におけるここまでの成功はなかったと思う。
ファンが愛して止まないアイドル。
そのアイドルが、ファン自身に成り代わって歌う。ステージから呼びかける。
♪顔や声を想うだけで居ても立ってもいられない。
こんな気持ちになれるって、僕はついているね♪
と。

『僕』はもやは、かつての一ファンではない。
ここに至って、アイドルはついに個人と個人の関係として、ファンと一体化したのだ。
その後、それぞれのファンが、それぞれのアイドルを求めたのは必然だろう。
アイドルは増殖し、ファンもまたその数を増やし続けている。
ついでに、『顔や声を思うだけで居ても立ってもいられない』気持ちを、
『ついている』に繋げた手法も見事だと言わざるを得ない。
普通なの作詞家なら、苦しくて眠れない、などと書くだろう。
小説を書く者として感心する。

秋元氏がこの先何を考えているのか、この少女趣味が今後どこに向かうのかオレにはわからない。
しかし、氏がこの事態の到来を意識してこの歌詞を書いたのであれば、
やはり天才と呼ぶべきなのかもしれない。

今度オレも小説の帯に書いてみるか。
『この本を読んだ僕はツイているね』
と。

半分冗談で、半分本気。




『子供達を責めないで』
作詞:秋元康








6.2
6月から、このブログをフェイスブックに全面的に移動しようと思っていたんだけど、途端にフェイスブックの調子が悪い。アップした記事が反映されないのだ。それもログインしないと見えるのに、ログインすると記事が消えるというふざけた話。株がダダ下がって、ザッカーバーグの兄さんもどうにかなっちまったのかもしれねえ。
まあ、仕方がない。こんなブログでも読んでくれるひとがいるのだから、またしばらくは、こっちも併用していこう。



三代目のビリケンさん。
オレも三代目だから親しみを感じる。





6.1
『そんなことないと思います』
『オレのしていることは売名行為だと思われても仕方がないね』という問いかけに対する返事。
『そう答えるしかないだろう』という声は聞かない。表ばかりを見て書かれた小説はおめでたい。しかし、裏ばかりを見て小説を書けば人間を見失う。








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