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2012年7月





モルタルの舟に水を張ってみた。足湯ならぬ足行水のつもりだ。
子供が小さかった頃は、毎年夏になると庭にビニールプールを出したのを思い出したのである。
日陰になるのを待って椅子に腰かける。
見てくれは悪いけれども、使い心地は想像以上に素晴らしかった。
素足に冷たい水が懐かしい。
吹く風も急に涼しくなったように感じるから不思議なものだ。
後はビールだな。








7.31
白河市の外れに、鹿島神社という結構大きな神社がある。樹齢千年の杉がご神木だというから、歴史も古いようだ。
様々に意匠を凝らした狛犬がたくさんある神社で、参道に入ってから奥に行くにしたがって時代が古くなっている。新しい時代のものは、珍しいポーズを取っていても、形式的であり、あまり面白味はないが、写真の一頭などは、ユーモラスで実にいい。
この神社でおみくじを引いた。
『どうも周囲の人達と波長が合わず苛立つ気分が続く運気です。自我を抑え、焦らず、争わず、謙虚な態度で時を稼げば幸運がきます』
なるほどよく当たっている。オレは自我を抑えられず、焦りまくって、編集ともバッチリ争って、謙虚なところなどみじんもなく売れっ子作家を罵倒してる。

講演会の結びで、絶望してからが勝負なのだ、という話をした。もうダメだと思っても諦めてはならないのだと。
『そのことについて詳しく教えてください』
話が終わって、来場者からこのような質問を頂いた。
オレは、自分の経験から、一寸先に待っているのは、闇であるより、光であることの方が多いのだと説明し、小説の中でそのことを表現したいと思っている、と僅かに逃げた。
たぶん彼女は絶望しかけているのだろう。ちょっと後悔が残っている。
『絶望してからが勝負』
つまりこういうことなのだと思う。
いくらあがいても結果が出ず、自分はこの程度の人間なのだと諦めかけたとき、人はようやく謙虚さを獲得する。そのことにより自分が見え、周囲が見え、よって道が開けるのだ。







7.30
講演会、終わってみればあっという間だった。
残念ながらお客さんの数は少なく、200人入る会場はガラガラだった。相変わらずの人気のなさはどうしたものだろうか。覚悟していたこととはいえ、図書館の皆様には申し訳なく、またサイン会を開催して下さった地元書店の皆様にも、売り上げに貢献できず、忸怩たる思いでした。
話し相手があくびをする、あるいはかみ殺すということが今までも何度となくあったけれど、今回もまたあちらの世界に束の間旅立った人が何人かいた。オレの話しは、そんなにつまらないのかと落胆すると同時に、オレも大学の授業などは、居眠りどころか、出席カードを書き終えるとすぐに席を立ち、堂々と教室から出て行ってばかりいたのだから、文句を言える筋合いではないのだろう。
A-4のコピー用紙に、12ptで横書きした原稿を20枚書いていった。一枚につき3分で読めば60分、2分なら40分だと計算したのだ。しかし、オレときたら、最初の3枚くらいから脱線を始め、最後までフリートーク状態だった。それでもところどころ原稿に戻ったりしたのだけれども、何だかとって付けたような話になってしまい、やはり人前で喋るのは難しいと、改めて思った次第。
Ustreamで、内容を放映する予定だったのだが、Ustream側の都合がつかずに今回はナシということになった。オレとしてはほっとしている。カネのこと、編集のこと、恥も外聞もなく言いたい放題だったからね。
今回、わざわざ足を運んでくださった皆様。図書館関係者並びに地元書店の皆様。お世話になりました。本当にありがとうございました。



写真の左にある白い建物が白河市立図書館。白河駅のホームより撮影。





7.28
晴れだな。良かった。
今日明日は地元の祭礼。残念だがオレは出られない。







すごい小説を書く自信はあるが、売れる小説を書く自信は正直いってあまりない。
だいたい、平素から売れる小説を毛嫌いしているのだ。自信などあるはずがない。
とはいえ、好きなことが向いていることとは限らないのが世の常だ。
ホラーなんて読んだこともないし、読みたいとも思わない。
そういって憚らなかったオレがホラ大を獲ったのだ。
これも何かの縁だろう。
写真のツバメのように、華麗な方向転換でも狙ってみよう。
神の見えざる手がオレを拾い上げるならそれもいい。
また叩き落とすというなら、それもまた悪くない。







7.27
明後日は福島県白河市立図書館にて、講演会&トークイベントがある。
歳のことはいいたくないが、生まれて五十年目の夏に、生まれ故郷からこのような話を頂くとは思ってもみなかった。しかも帰郷するのは二十五年ぶりのことだ。半世紀、四半世紀という区切りの年。やはり何かの節目が巡ってきたのかもしれない。
今ではもう知っている人もない。街もすっかり変わってしまったことだろう。市内に宿を取ったので、明日は一日ゆっくりと想い出の場所を回ってみるつもりだ。



霞ヶ浦湖畔に広がる蓮田






7.26
講演会が迫ってきた。原稿はまあまあ。暑くて参っている。口から出るのは愚痴ばかりだ。編集者へのメールも言いたい放題。この程度で見限られるならそれも良し。
講演会の様子はUstreamで放映されるという。よく分からないけど、後日のことだろう。







あんなヘタクソな小説とも呼べねえような小説でも
雑誌に掲載されるというのに、
オレにはロクなオファーもねえ。
腹立つなあ。どこ見てやがるんだ。
オレは畑の隅に埋もれたまま、花も咲かないレンコンみてえなもんだ。








『私は最後まで誠実だった。読者に嘘をつかなかった』
太宰治は著書『津軽』のラストで、このようなことを書いている。
誠実であること。自分にも読者にも。
この意味は重い。







7.25
フェイスブックを開く。
『何か書く・・・』とか、『今なにしてる?』などと薄い字で書いてある。『お友達の誰それが誰それにコメントしました』『誰それはお友達かもしれません』なんていう連絡も来る。
はっきりいってウザい。







7.24
今度の日曜は講演会。気が付くと目の前に迫っていて、ちょっと焦っている。800字の掌編も書かなくてはならないし、編集から届いたメールの返信もしなければならない。
何をするにも億劫だ。身体が重いのはデブになったからだけではないだろう。

写真は蓮田の用水路で釣りをするじいちゃん。
悪くない風景だけど、オレはやっぱ海辺の美女がいい。
誰か頼むよ。マジ。









宮ノ川顕の名前が思いだせなくてぐぐったらすげーユニークな髪型で吹いたわwなんだこのおっさんww

ツイッターでこんなこと↑言われたあるよ。
さもありなん。






7.23
推理小説を読んだことがない。広義のミステリもまた似たような状況だ。書き手を目指したとき、オレは本を読むのを止めた。読む暇があったら書く。それが書き手にとっての大原則だ。それに、似たようなアイデアを見つけて失望するのが嫌だったし、見事な文章に触れて自信を失うのも怖かった。
まさか、自分がエンタメ作家になるとは思わなかった。しかもホラーである。別に自分が純文作家だとは思っていない。少なくとも今の純文学に照らせばオレの書くそれば、違うを言わざるを得ないだろう。別にそれはそれでいい。
その気になればオレはなんだって書ける。探偵小説だって、ベタベタの恋愛小説だって、ラノベだってスラスラ書いてやる。
ただ、書く気がしないだけだ。







7.22
村上春樹著『東京奇譚集』を読む。初期の頃より文章がこなれていて読みやすい印象がある。面白いかと問われれば確かに面白いし、光る文章も随所に見られる。ただ、氏の作品全般に『いい気なもんだ』という印象がついて回るのは何とかならないものだろうか。
乳癌の手術を間近に控えた主婦が、一度(二度)会っただけの男(ゲイなのだが)をホテルに誘うなんて、たとえ事実だったとしても、いや事実だったならなおのこと鼻に付いて仕方がない。しかもその主婦の乗っている車がプジョーだかシトロエンなんて言われると、ほんと『いい気なもんだ』と思ってしまう。
まあ、モテない売れない金がないの三ない作家のオレの僻みに違いないけどね。






7.21
提出してあったプロットがボツになった。エンタメ度が足りないというのだ。文学を気取ったつもりはない。ただ、今の業界において、『純文ではない』=『エンタメ』という方程式は成り立たないらしい。やっかいなことだ。







7.20
先日の日曜日、『深川お化け縁日』に立ち寄った後、赤坂在住の知り合いと久し振りに会った。豊川稲荷に参拝し、赤坂サカスまでブラブラ歩く。そして帰路、言問橋付近でスカイツリーが見えたので、路地に車を乗り入れて風景を撮影した。
東京に住んでいた頃には、東京の観光名所なんて馬鹿馬鹿しくて行かなかった。横浜に住んでいた時も同じで、山下公園だの、港が見える・・・だのでデートするようになったのは、この北関東の田舎町に越してからのことだ。
土地を離れるとはそういうことかもしれない。

































7.19
すだれを吊った。母屋と別宅と工場(こうば)、大小合わせて15枚。毎年の恒例行事だけど、こう多いと面倒でたまらない。だがしかし、あろうことか西向きに建っている母屋など、これをしないと暑くて暮らせないのだ。
それでも、近年のこの暑さはどうしたことだろう。オレがこの北関東の田舎町に来た三十年ほど前は、いくら昼間暑くても、夜になれば涼しい風が吹き、網戸で寝れば寒いくらいだった。
『オレがガキの頃は、滅多に30℃は超えなかった』
近所に住む年配の大工が言っていた。
そうだよなあ。天気予報は35℃とか平気で言ってるけど、ここは熱帯かよ。







7.18
庭にたくさんの山芋が生えている。その花が一斉に咲いた。脇を通るとシナモンに似た甘い匂いがする。毎日暑いけれども、ちょっとした清涼感があって、オレはかなり好きだ。



その山芋の蔓の間にいたカマキリの幼虫。





7.17
梅雨が明けたのだろうか。朝から暑くて参っている。
深川お化け縁日の写真をこちらにアップした。
肖像権とかメンドーなことがあるので、あまり人物は撮らなかったのだけど、こうしてみると、やっぱ人物はいい。構うことないからバンバン撮って、ドンドン声かけて、ガンガン公開すれば良かったと今更ながら後悔している。オレはチキンだからなあ・・・。
恐れずにもう一歩踏み込めば、オレにも未来が開けてくるのだろう。小説でも女性関係(笑)でも。


無断転用不可





7.16
大阪人はかなりの雨が降っても傘をささないのだと、奈良出身大阪在住のカノジョが言う。ちゃんと傘を持っているのにである。おそらく、傘が濡れるのがもったいないからではないだろう。想像に過ぎないが、かつての江戸っ子のそれに似て、『濡れたがどうした』という美意識に根ざしているような気がする。
イギリス人も同じだとかつて知人に聞いたことがある。彼らにとって、キリリと巻いた傘は、ステッキの替わりであって、それを開いて雨をよけるのは、美学に反するらしい。もっとも彼がイギリスに住んでいたことはないはずなので、アテにはならないが。
東京人は僅かな雨でも濡れることを嫌うようだ。雨どころか、近頃では日傘をさす女性も多くなった。オレが子供の頃は、あんなものは、古い時代のマダムが使うモノだという認識だったが、時代は回るということだろうか。
件のカノジョは、降る雨にも、何か意味を感じるという。
『感時花濺涙 恨別鳥心驚』
近頃はフェイスブックで友人とのやりとりを楽しんでいるというが、彼女にとって、『家書抵萬金』ということだろうか。悪くないと思う。

昨日は『深川お化け縁日』に行った。
写真の美女は、『猫目書房』さん。やっぱ、鳥だのトンボより、撮るなら女性だよなあ。(本人の了解は貰っています)
http://bookscatseye.com/


無断転用不可




たとえば、オレは明日死ぬかもしれない。
それはあなたも同じだ。
その意味を誰か分かるというのか。
人生とはそういうものだ。
もう一度よく考えた方がいい。







7.14
明日は深川お化け縁日に行き、来週は取引先のパーティに参加。で、月末は講演会ということで、気が付くと妙に忙しくなってきた。

小説のプロットを提出してあるが、何の音沙汰もない。思い出す度にイラっとする。この業界は何事も先方の事情でコトが進む。おそらくそのことは売れっ子でも同じだろう。ただ、売れっ子は急かされ、売れない作家はほったらかしにされる、という違いはあるが。
まあ、どっちにしろ、小説を書いているヒマはないし、折角だからのんびりしている。ただ、文芸誌や小説誌を見る度に、そして、そこに知った名前を見る度に、ひどい焦燥感に襲われるのは事実だ。
書きたい題材はいくつかある。気持ちも高ぶってきた。だが、今書き始めるわけにはいかない。オファーがあっての仕事を優先しなければならない。その返事がいつ来るか分からなくてもだ。






口汚く相手をののしるのはオレの悪いクセだ。
書いているうちに激昂してしまうのだ。
間違ったことを書いているとは思わないが、
世の中には言い方ってものがあるし、
書かれた側はもちろん、
読んでいる人もあまり気持ち良くはないだろう。
反省して、以降気を付けることにする。陳謝。







7.13
『下読みの鉄人』というサイトがあって、オレも十年ほど前、まだ公募に挑戦していた頃には一通り目を通して、ナルホドとか思ったものだった。
その中に『入選したら何をするべきか』というページがあって、こんなことが書いてある。
『授賞パーティで会った人には、お礼状を書きなさい。礼儀を通せない新人は生き残ることはできません』
コイツ馬鹿じゃねえの。当時のオレはそう思ったし、今も同じことを思っている。もちろん実際に受賞しても、そんな間抜けなことはしなかった。
礼儀なんて作品とは何の関係もない。お礼状も同様だ。書きたきゃ書けばいいだけのシロモノだ。もし、オレが選考側の立場でパーティに行ったとして、後日礼状が届いたとしても、『ああ、デビューできて、はしゃいでいるんだな』と思うだけだ。そんなものは業界ごっこに過ぎない。
もし、出版社の編集や営業、先輩作家(下品な言葉だな)や評論家が、礼状が届かないからといって、その書き手の才能を疑うようなら、連中の方が間違っているのだ。
作品を見ろよ、作品を。
礼儀とか、人間関係とかカンケーないだろ。ついでに言っておくが、読者を絶対的な評価の基準にするのも止めてほしい。書き手を、作品を、売れ行きで判断するなとは言わない。だが、この業界が好きで、それを担っている自負があるなら、もっと自分の感性を磨き、それを信じるべきじゃないのか。
オレの作品について、ある関係者に言われたことがある。
『ネットの評判もよくないですね』
だからどうした。連中が読めていない。ただそれだけだ。







7.12
深夜、ETVを見ていた。(少女)漫画家が出てきて、中学生くらいの女の子に、イケメンの描き方をアドバイスしている。
それによると、イケメンが登場する場面には、いつも謎の風が吹いているそうだ。
『そういうテクニックがあるのよ』
いいながら、イケメンを描く漫画家。
確かに謎の風が吹き、髪や服がなびいている。なるほど、これなら、イケメンが、よりイケメンに見える。
思い返せばブラック・ジャックのコートだって、裾や袖がよく風に翻っていたし、サイボーグ009のマフラーだっていつも風になびいていた。鉄腕アトムや矢吹丈の髪型も、それに類するものかもしれない。どんな世界にも、知られざるテクニックはあるものだ。
オレの斬首刀でも、風が吹いていた。風が吹くと何かが起こるという設定にしたのだ。そして、主人公菊池雷太の周囲にはいつも風が吹いていた。
オレの周りはどうだろうか。

睡蓮の花が咲いた。ピンクの睡蓮に愛を、黄色の睡蓮に金を。オレのささやかな望みなのだ。








7.11
今度の日曜日は、東京の下町に出かける用事がある。ついでに深川お化け縁日に立ち寄るつもりだ。そこで、せっかくだからと、ネットで浴衣を注文した。帯とセットで2.800円。柄を選べない代わりに安いというシステムだという。ちょっと心配だったが、そんな冒険も悪くないだろうと思ったのだ。
その浴衣が昨日届いたのだが、試着して愕然となった。全然似合わないのである。できれば、暗色系が良かったとはいえ、色柄はそれほど悪くない。明らかに着る側の姿形に問題があるのだ。
若い頃は何を着ても似合ったのに、気が付くと、何を着てもサマにならなくなってしまった。休日にちょっと運動をしても、身体がついていかない。何かヘンだとは思っていたのだが、いつの間にか、オレはかつてのオレではなくなっていたのだ。オレの家業は、基本的に誰にも会わない。比較する対象がないものだから、自分は変わっていないと錯覚してしまっていたのである。
よく見に行くブログがある。半年に一度くらいしか更新されないのだが、なぜか飽きることがない。どうせ若くて美人の女性だからだろうという指摘は、半分当たりで半分は外れている。ただ、外れいてる半分の理由はオレにもよく分からない。
『戻ることはできない』
先日そのブログにそんなことが書かれていた。
オレは過去が嫌いだ。懐古趣味は好きになれないし、追憶にも興味はない。だがしかし、急速にハゲが進む頭頂部に手をやるたびに、オレの知っているオレが過去になりつつあることを思い知らされるのである。








7.10
霞ヶ浦湖畔には多くの蓮田がある。花の季節にはまだ早いが、雨水を溜めた若葉もまた悪くない。昔のひとは、花を愛でながら、茎をストローにして酒を飲んだという。そんな貴族趣味も悪くないが、オレはそんな場所で飲めればそれで充分だ。ウナギのかば焼きだの、隣に美女だのという贅沢は言わない。






先日の記事で、『しまむら』ブランドの愛好者を『シマムラー』と、呼ぶ。
と書いたら、『シマラー』の間違いではないかと、ご指摘を頂きました。
調べたところ、その通りでした。
しまらーねえ話ですみません。ありがとうございました。







7.9
写真を撮りに近所の公園に行った。
カワセミが飛んできて、良い場所に止まって、ポーズまで取ってくれたのに、腕が悪くてピンボケ。まあ、この距離的で、このレンズでは正直ちょっと苦しいけどね。







誤解される前に書いておくけど、
利根川とか、多摩川とか、相模川とか、
それぞれの向こう岸にオレの織姫がいる、という訳ではない。
幾多の荒ぶる川を渡らないと、姫には会えないという意味だ。
で、それらの川を命がけで渡ったとしても、
所詮はRiver of No Returnなのだ。
オレ様がそんなにモテるはずがねえだろ。
ちょっと考えれば分かるじゃねえか。
頼むよ。マジ。


7.7
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『随分ゆっくり走るのね』
少し胸が苦しくなって話題を変えた。
事実、雷太の運転は思ったよりずっと慎重だった。肩を寄せるようにしてスピードメーターを覗き見ると、制限速度を僅かに超えたところで針が止まっている。
『焦ることもないだろ』
まるでアメリカにいる父のようなことをいう。生意気な。
『何よ』
『何だよ』
雷太はやがて、小さな交差点を左に曲がり。前から車が来たらすれ違うのも難しいような細い道に車を乗り入れた。こんな道まで知っているということは、曽祖父が隠したという****を探して、余程あちらこちらを走り回っていたに違いない。
古い家の陰から自転車に乗った男の子が現れ、ひとり走り去っていった。風子はその後ろ姿を見送りながら、雷太の少年時代もきっとあんな風だったのだろうと思った。
(拙著『斬首刀』p259より抜粋)
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斬首刀出版から数か月後のこと。担当編集が変わるというので、新作の打ち合わせを兼ねて話をしていたときのことである。
『斬首刀は、私流の恋愛小説ですけどね』
『なるほど』
オレの言葉に、ふたりの編集者は、少しの間顔を見合わせて怪訝そうな表情を浮かべていたが、やがて、『いわれてみれば、そうですね』と言葉をつないだ。

『斬首刀』は、ホラー小説であり、青春の群像劇であり、そして恋愛小説でもある。しかし、ホラー小説大賞を受賞した作家が書いた、『斬首刀』という物騒なタイトルの作品が、まさかそんな作風だとは、読者の誰も、想像しなかったのだろう。
『どこで感動すればいいのか、よく分かりませんでした』
新しい担当編集はそういった。
彼女に対して、オレの『斬首刀』は失敗した。だが、これを恋愛小説として上梓していたらどうだっただろうか。いや、更に評価は低かったに違いない。
ふたりの淡い恋愛感情に気付いた読者は、皆無だったかもしれない。まあ、それも仕方がない。登場人物の本人たちにさえ、はっきりそれと分からないように書いたのだから。

今日は七夕。オレの織姫は、利根川と、多摩川と、相模川と、そしてRiver of No Returnの向こうにいるから会えそうもない。まあ、オレときたらハゲでデブだし、第一、恋愛がどうこういう歳でもないのだけれども。









7.6
先日、黒い帽子(hat)を買った。クリスチャン・ルイ・シャネル製で600円。
ここ北関東の田舎町で洋服店といえば、真っ先に名前が挙がるのが『シマムラ』だろう。安いのがウリの洋服店である。シャネルの愛好者をシャネラーというように、シマムラファッションで身を固めた若者を『シマムラー』というらしい。
安売りの定番といえばユニクロもそうだろうか。だが、オレは滅多にいかない。あのスカした雰囲気が鼻につくのだ。それに比べて『ワークマン』はいい。でも、ここもあまり行かなくなった。作業服にあまり凝らなくなったからだ。
近頃のお気に入りは『サンキ』
都市に住む、お洒落なにいちゃん、ねえちゃんは知らないだろう。サンキの安さはハンパねえ。上の帽子もここで買った。浴衣も1.000円くらいで売っていたから、『深川お化へ縁日』用に買おうかと思っている。
シャネラーがいて、シマムラーがいるなら、近頃のオレは、まさしく『サンキスト』だ。






7.5
7月29日の講演会に向けて経済関係の本を読んでいる。
1ドル360円、ニクソンショック、オイルショック、プラザ合意、ブラックマンデー、バブル崩壊、リーマンショック。
この歳になって、オレは自分が生きてきた時代というものが、どういった時代であたったのか、少し分かるようになった。上に挙げたキーワードも、そのときは何がなんだか分からなかったが、こうして振り返ってみると、思った以上にオレの人生に影響を及ぼしている。もちろん、社会に出る前の出来事が、直接的にオレに影響を与えた訳ではないが、それでも、そんな社会の空気を吸って生きてきたということには変わりない。

生まれてからずっと、右肩上がりの経済の中にいた。そして、高度経済成長の記憶を引きずったまま社会に出た。やがて、日本経済は絶頂期を迎える。1989年、日経平均は史上最高値の38,915円付けた。それから二十三年。オレは自営業者として、下がり続ける日本経済の中で生きてきた。その間GDPはまったく増えることはなく、それどころか、国の赤字は三倍に膨らみ、株は四分の一に下落した。先進国の中でも例を見ない低迷ぶりだという。
そして、行きついた先が大震災と、原発事故だ。
そんなことを絡めつつ、話ができるように講演原稿を書きたいと思っている。







7.4
大阪にある直木記念館に行ったときのこと。
館内にある喫茶店で、若く美しい女性三人とお茶を飲んだ。
『いやあ、美人さんばかりで、緊張しますねえ』
オレはいつだって本当のことを口にするのがモットーだから、ためらうことなくそういった。
しかし、彼女たちの反応は冷たかった。
オレは見え透いたオベンチャラを言った訳ではない。なのに、反応は良くない。
つまりこういうことである。
大阪人は、『当たり前のことには反応しない』という性質がある。つまり当たり前のことは、当たり前のこととして受け止める。これが大阪という土地の特徴なのである。だから、美人に向かって『美人ですねえ』と、いったところで、『それが、どないしたん?』という答えが返ってくるのは当然の帰結という訳だ。

大阪に行って、食堂に入るたびに思うことがある。
注文した料理を店員が運んできたとき、大阪の人たちは、関東人のそれとは明らかに違う態度をとる。
たとえば、客が新聞を読んでいたとする。そこに店員が料理を運んでくる。関東では新聞を読むのを止め、店員に微かな謝意を表すのが普通である。しかし、大阪人は違う。
彼らは新聞を読むのを止めたりしない。あるいは友人と話をしていても、それを中断することもない。店員に会釈をすることもなく、まして『おおきに』などということは絶対にない。
彼らにとって、店員が料理を運ぶのは当たり前なのだ。金を払っている者として、当然のサービスを受けているという感覚なのである。それはそれは、見事な無視っぷりで、大阪に行って食堂に入るたびに、オレは感心せずにはいられない。

彼らは生きるのにあたって、関東人のそれより、心に着ている服が一枚少ないのだ。関東人のように店員に向かって『ありがとう』などという着飾った言葉を発しないのはそのためである。
薄着の心で生きているから、感覚がよりダイレクトに伝わり、そのために、お笑いひとつとっても、客の反応は関東のそれよりシビアなのだ。面白いことは面白い。つまらないことはつまらない。気の毒な隣人がいれば助け。気に入らない首長がいれば批判する。
当たり前のことを当たり前として捉える。大阪には優れた小説家が多いが、そのことと無縁ではないに違いない。







7.3
この国における全エネルギー消費量のうち、石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料が占める割合は約82%。原子力は約11.5%である。水力は3.2%、地熱などの新エネルギーは3.1%。(09年度、資源エネルギー庁HPより)原子力発電所はこの際全廃して、残り90%のエネルギー政策において、電力不足を考えようと思うのが自然だろう。

国の予算には、約80兆円の一般会計と、約200兆円の特別会計がある。税収不足を理由に消費税を5%増税した場合、約10兆円の税収増になるという。一般会計が苦しいのは分かる。でも、普通の人なら、この不景気に増税するくらいなら、特別会計でナントカならないのかと思うだろう。

木を見て森を見ず。考えれば活路はあるように思うのはオレだけではないはずだ。







フェイスブックって、友達にならないと、
『いいね!』したり、コメント書いたりできないのかな。
オレの記事に『いいね!』して下さった皆様の所に行っても、
『いいね!ボタン』も、コメントボタンもありません。
なので足跡は残せませんが、いつも感謝しています。







7.2
昨日は日曜日。いつものようにつくば市にある公園に行った。
公園には大きな池があり、冬はカモ、夏はコイがいて、それに餌をやる人がたくさんいる。で、そんな人の多くは小さな子供を連れているのだが、家人が言うには、その子供がたまに池に落ちるのだそうだ。まさかと思ったが、今までに目撃した回数は五本の指では足りないという。餌をやるのに夢中になって足を滑らせるのである。
昨日、初めてその場面に遭遇した。池の近くを歩いていると、大きな水音が聞こえた。コイが跳ねるのとは明らかに違う大きな音である。慌てて駆け寄ると、案の定、二歳くらいの小さな子供が水の中でもがいている。オレから子供までの距離は遠い。近くで見ている人の中に大人の男はいるかと、探しかけた次の瞬間。視界の隅から、明らかに母親だと分かる女性が走ってきた。顔は見えなかったが、必死に形相であることはあらゆる雰囲気から容易に察せられた。
彼女は躊躇なく池に飛び込んだ。
池といっても、大人のひざ下ほどの水深しかないから、大きな危険があるわけではない。しかし、池の水は濁っていて底が見えない。そこに、足からとはいえ、いきなり飛び込むのは余程の勇気がいるだろう。穿いているのがGパンだったからいいようなものの、それでも、上着は白っぽいポロシャツのような服だったから、底の泥に足を取られて転倒すれば、事態はかなり悲惨なことになったに違いない。
しかし、一切を顧みない彼女は、大人の男性より力強く的確に、自らの子供の腕を取ると、地面に引き上げた。母は強し、である。
彼女は、落ちた男の子の他に、ベビーカーに乗せた赤ちゃんを連れていたという。オレは無事を確認すると、そのまま立ち去ったが、家人はそのベビーカーを押して、彼女の車まで付き添ったそうだ。落ちた子供を一言も怒らなかったのだと、家人はいった。
偉い母親がいるものだ。オレなら間違いなく怒る。







7.1
先月フェイスブックに書いた『語尾』についての記事が面白かたっと、あるところで褒められた。
おお!そんなこともあるのかと、このブログにその記事を探したら、なんだ、そこだけ抜けているじゃねえか。ま、オレ様のすることはそんなもんだ。
と、反省しつつ、下に同じ記事を掲載します。知らせてくれてありがとう。

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野性時代7月号を見ている。巻頭記事は『ミステリ作家デビュー必勝法』
ページをめくると、『推敲は必須』という項目がある。ほう、と思って拝読すると、すぐにこんな部分が目に付いた。
『文章を書く上で注意すべき点がいくつかあります。なるべく同じ言葉、同じ語尾、同じ助詞を繰り返し使わない、というのもそのひとつ。』
なるほど、ここまではいいだろう。しかし、悪例として次に挙げられた例文は残念ながら適切とは思えない。
『きょう私は動物園に行った。私はバスに乗った。私はとても楽しかった』
上記の文章を「子供の作文」と筆者は断じている。オレもそのことに異論はない。
問題なのは、「子供の作文」となってしまった原因が、同じ言葉を使ったからでもなければ、同じ語尾や、同じ助詞のためでもないことだ。
簡単なことだ。主語の省略ができていないのである。
試しに、ここでの主語『私』を削除してみよう。
『きょう動物園に行った。バスに乗った。とても楽しかった』
いささか簡潔すぎるとはいえ、必ずしも悪い文章ではない。問題があるとしたら、楽しかったのが動物園に行ったことか、バスに乗ったことかが曖昧なことくらいである。
『きょう動物園に行った。とても楽しかった。バスに乗った。平日の午前中だからか、車内は空いていた。私は最前列の席に腰を下ろした。』
こう続ければ、ひとまずこの文章における語尾はすべて同じでも、選択にまったく間違いはない。
語尾は下手に変えるより、むしろ抑制する方向で技法を研究した方がいいだろう。語尾の変化で読ませるのは、その気になれば簡単にできるからだ。
なお、ここでは主語、『私(は)』の他に、『平日の午前中』に掛かる『今日(は)』を省略している。それによって助詞に変化が現れるのは当たり前のことである。
ところで、川端康成は、語尾について、こんなことを言ったらしい。
『書き上げた文章を読んで、語尾に「た」が続くようであれば、ところどころ「る」に直します』
マジで言ったのなら呆れたものだ。その程度の修辞意識でよくノーベル文学賞が獲れたものである。
まあ、時代が違うので、仕方がないかもしれないし、川端氏が本当のことを隠したとも考えられる。
はっきりした理由もなく、語尾が決定されるなんて、本来ありえないのだ。
語尾は文章の内容に大きく左右される不安定なものであると同時に、日本語の文末決定性を、更に強く印象付ける重要な部分だ。作家はそのやっかいな語尾を、独自の感性と技法を用いて駆使するのである。
同じ語尾が続くのは良くないなどというのは、あまりに単純な決めつけであり、修辞意識が低いと言わざるを得ない。
プロだろうと、プロデビューを目指しているアマチュアだろうと、ミステリ書きだろうと、純文の書き手だろうとそのことに変わりはない。
だいたい、『子供の作文』を例にひいて良し悪しを論じること自体、いやしくも小説誌の巻頭にふさわしいとは思えない。
この『推敲は必須』という項には次のようなことも書いてある。
『人によっては(中略)印刷所へ送らねばならない(中略)タイムリミットの直前まで推敲に取り組んでいます』
筆者は、これこそがプロの作家が原稿に取り組む正しい姿勢だといいたいようだ。
だが、オレはそうは思わない。そんなギリギリまで手を入れなければならない事態にあるというのは、書き手か編集のどちらかに問題があるのだ。
きちんとした原稿に仕上げるのに、そんな間際になってからの、やっつけ仕事が良いはずがない。焦って仕事すれば失敗する。当たり前のことだ。
応募のギリギリまで手を入れるのは、公募にチャレンジするアマチュアのすることであって、プロのすることではない。
入稿までの段取りをきちんと管理できない、いい加減な作家か、作品のクオリティより印刷所の予定を優先する編集だと言うしかない。
こんなことを書いたら角川書店から干されるだろうか。いや、オレのフェイスブックなど誰も読んでないだろう。
まあ、読んでいたとしても、オレ程度の小物に何か書かれてガタガタいうほど、この項の筆者も、角川書店のケツの穴も小さくないと信じている。
もし気に障ったのなら陳謝します。でも、オレは言いたいことはこれからも言う。それができない作家なんて何の価値もないのだから。

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