8.31 学生時代サイクリングクラブに所属していた。ネットの時代になって、同じクラブに所蔵していた人とすれ違うことがある。当時、特に後輩からの評判が悪かった。そのために、現役時代のオレを知っている彼等は今でもオレを避けているようだ。たぶん錯覚ではないだろう。 OB会というのがあって、オレは正式に入会拒否通知を発送した。卒業してしばらくしてのことだった。卒業した学校ほど、よそよそしいものはない。少なくとも母校や出身団体は、オレが思うほどオレのことなど思ってはいない。皮肉なことに、この現象はオレが母校を強く慕えば慕うほど顕著に表れる。つまり、過去はいつだってオレを裏切り続けるという訳だ。何かの機会に母校に戻ったところで、通されるのは応接室であり、教室ではない。この当たり前の事実に鈍感でいられるなら、もしかしてオレの小説はもう少し売れるのかもしれない。 『思い出作り』という言葉を、かつて何度となく聞いた。オレにはこれが理解できなかったし、それは今も変わらない。思い出というのは果たして作るものなのだろうか。少なくとも、オレは過去を作るために生きているのではない。いや、オレが大袈裟なのではない。彼らが生きることにあまりに無頓着すぎるのだ。 過去が嫌いだ。このことに変わりがない限り、オレは僅かであっても前進し続けているに違いない。 |
8.30 近所の古本屋――といってもマンガ中心のー―に、オレの『化身』があった。300円也。こんなところにもあるというのは、多くはないけどそれなりに売れたということだろう。サインでもして来ればよかった。哀しさのなかに微かなうれしさあり。 写真は栃木県烏山市にある酒蔵の洞窟内貯蔵庫。真夏でも16度だった。 |
8.29 一個の価値観となること。 それが、作家になるということである。 本来的には、受賞もデビューも関係ないし、売れる売れないなどは言うに及ばない。 一個の価値観となること。即ち他者性を可能な限り排して、個として立つということだ。 自らの価値観を表明するにあたっては、高名な小説家の言葉を自説の補強に使ってはならないし、自分に味方してくれそうな相手を探して保身をはかるような真似も慎まなければならない。 正しいとか、間違っているということではない。 多くの人にとって、是であれ非であれ、自らが思ったことを、思った通りにいう。それこそが、作家の作家たる所以なのである。 過去に築かれた理論や、現在に生きる権威をいくら上手に引用し、よって自らの正当性を証明し、そのために多くの賛同者を得たとても、作家としてたいした意味はない。そんなことは評論家や政治家のすることなのだ。 |
8.28 世のいわゆる賢者たちは、何よりもまずツァラトゥストラから「自己超克」ということを学ばなければならない。それによって、彼らは自分が誇りにしていた知恵をみずから否定すべきことを知る。自分の知恵の空しさを知るのである。彼らはいわばその本来の愚かさに立ち帰る。この本来の愚かさこそ、そこからはじめて認識者としての本当の自己創造が可能となる地盤である。 『ツァラトゥストラ(上)』ニーチェ全集9吉沢伝三郎訳:ちくま学芸文庫(訳註)より ツァラトゥストラはかく語りき。 『わたしは愛する、自分の徳を愛する者を。というのは、徳は没落への意思であり、一本の憧憬の矢であるから。』 同書:本文より 人間の愛されうるひとつは『没落』だとツァラトゥストラはいう。『没落』とは上記の訳註の通りである。 ニーチェのいうところの『超人』となるためには、『没落』からはじめなければならないのだろう。そして、その過程における全ての善は偽善だということだ。 |
8.27 那珂川の観光ヤナに鮎を食いに行く。 ヤナは本来落ち鮎漁のためのものだから、今頃ここで鮎を食べるのもおかしな話だし、この暑さに加えて炭火はたまらない。 それでも、やはり鮎はいい。 |
8.26 『君の言っていることは偽善だ』 言われた相手は納得するはずもない。 良かれと思って書いたのだろうから。 何が『善』で何が『偽善』か、 そもそも『善』とは、まごうことなき『善』なのか。 そこから始めなければ何も見えないだろう。 見えないことは罪でもある。 |
8.25 ネットの掲示板で売られたケンカを買っていたら、すっかりブログがおろそかになってしまった。 売ってきたのはそっちとはいえ、オレのストレスのはけ口にされた相手はある意味気の毒だったかもしれない。 相手が誰だろうと言うことは言う。 ○○だからとか、××だからとか、つまりリスクを負うことを嫌い、ヘンな形で自らに言い訳をし、引き下がってはならないのだ。 それをガキだというのなら、自分は果たしてまっとうな大人といえるのかどうか、もう一度自らを問うた方がいい。 権力への迎合はそこから始まるのだ。 |
8.22 『君が人生に何を期待するかではなく、人生が君に何を期待しているのかを考えるべきだ』 哲学者の言葉を真理とするも詭弁とするも、結局は自分次第なのだろう。真理は常に相手にではなく自分にあるということだ。 だから苦しいのだけれどね。 楽しみにしてるブログがしばらくお休みだという。もしかして鯉が育ったのだろうか。 |
8.21 磯崎憲一郎著『終の住処』に収録された書下ろし作品『ペナント』を読む。 一読して、モブ・ノリオ氏が芥川賞を受賞後に発表した作品を思い出した。ほんの短い作品で平仮名で書くべきところをカタカナで、カタカナで書くべきところを平仮名で書いたひどく風変りな作品だった。正直評価に値しない内容だったと記憶している。 さて、磯崎氏の書下ろしだが残念ながらオレは良いとは思えなかった。モブ氏と同じく芥川賞の重圧に押しつぶされているとしか思えない。現在を軸に、少年時代と今と未来の、それぞれの自分を、不安と揺らぎの中に捉えようとする試みは、決して悪くないが、あまりに抽象的に過ぎるのだ。 言葉は抽象だ。だからより具体的に書くべきだ。具体的に抽象を表現しなければ、それはただのイメージの垂れ流しに過ぎないのである。簡単に言えば『ペナント』は、ただの夢話だった。オレは夢を使って何かを暗示する手法は好きになれない。安易だとおもうからだ。夢なら何でも書ける。 小説に整合性は必要だという立場を取っている。ただし、一度構築した整合性をあえて崩すことには必ずしも反対ではない。ただ、最初から整合性を無視して書かれたファンタジーは、ただの胡散臭い純文学もどきでしかないということだ。磯崎氏の『ペナント』は残念ながらそれだった。 |
8.20 小説を書いている。少しずつ、慎重に。 書けない、書きたくない日が長いこと続いた。バネが反発するまでに縮んだのかは分からない。ただ理屈もプロットも必要ないことは間違いない。作品を書き上げる以外にどんな答えもないのである。 |
8.19 カメラを持って近くの峠に出かけた。頂上付近に風通しの良い場所があって、この時期になると数百匹のオニヤンマが群れをなして飛んでいることがあるのだ。なのに林道は森林伐採のため通行止め。おまけにカメラは電池切れ。朝から張り切って出掛けたのになあ。 |
8.18 暑い・・・ オレは暑いのは苦手だ。 |
8.17 キーボードを買った。新しいパソコン、新しいディスプレイ。そんなものを買うたびに新しい作品を書いてきた。利用できるものは何でも利用してやる。 |
8.16 磯崎憲一郎著『終の住処』を読む。 非常に興味深い小説だった。多くの感銘を受けたのは、おそらく生きてきた時代と、住んでいる世界が共通していることによるものだろう。氏の勤務先は一流商社だという。そこのエリートサラリーマンと、オレのような斜陽産業の自営業者では相当の差があるとしても、バブル経済に象徴される時代の変化に敏感であるところは共通なのだと、本書を読みながら妙に納得させられた。おそらく氏とは『話が合う』はずだ。 さて、本書は主人公の男性が30歳を過ぎてから結婚し、五十歳になって、ここが終の住処なのだと認識するまでが描かれている。住家とせずに住処としたのは、物理的な家というより、その中の空気や気配までもを含めたからだと思われる。 目に見える物と、見えない物、意識と無意識、行動と想像、そんなものの数々が、文章を媒介にして往復するように書かれている。淡々とした文章は透明度が高く強度が強い。そのことが、作家の意識の高さをよく表していて好感が持てた。 突然訪れた遊園地で観覧車に乗った翌日から11年間妻と口を利かなかったという場面がある。このほとんどありえない主人公の行動を理解できるかどうかが、本書に共感を得られるかどうかの試金石となろう。オレは、とてもよく理解できた。それどころか、主人公の置かれた立場において、およそ他の行動は考えられないほどに自然だと思われた。蛇足になるが、それは夫婦仲が良いとか悪いとかいうようなタイプのことではない。 この作品にはひとつのロジックが隠されている。オレは磯崎氏が『彼』という二人称を用いて書いたことに真っ先に着目した。主人公は徹頭徹尾三十歳を過ぎて結婚したサラリーマンの男である。内面描写もそのように記されている。僕や私といった一人称で書く方がむしろ自然ななのに氏はあえて二人称を選んだ。 もちろん必然性があってしたことである。氏は主人公を二つに割り、一方の僕という視点から、もう一方の彼を描いて見せたのだ。彼は事実で、僕は真実だといえばいいだろうか。陳腐な表現をすれば、精神と肉体とでもいえるかもしれない。つまり、11年間口を利かなかったのは彼ではなく、僕なのである。このロジックというか、仕掛けに気が付くかどうかで本書の読み方は変わってくるだろう。 またこの作品にはもう一つ大きな特徴がある。真ん中が書かれていないのだ。真ん中が何かここで詳しく述べるのは割愛するが、たとえば地震計の記す図面を思えば分かりやすいかもしれない。上下に大きく振れる振幅の中心に近い部分がオレのいう真ん中である。氏は、この部分に空白及び、時代の説明を充てた。そして、振幅の両端を作品の骨子とした。しかも、振幅は意識的に増幅させられ、中央部分の空白は更に広げられたのだ。老建築家が背伸びをしただけで二階建の棟木に手が届く場面があるが、それがまさにその手法の産物なのである。 作者は作中において、何が事実で何が真実かを語っていない。浮気は事実であれ無実であれ、大筋において問題とならない。そういった意識がオレと非常に似ているのは、書き手の本質が共通しているからだろう。肉体と精神の狭間において、それがひとつの真実だという事実があれば充分ということなのだ。 言及したいことはまだまだあるが、こんなところに長々書くようなことでもあにだろう。 非常によく書かれた作品だった。というより、共感を得た作品だと言う方が適切かもしれない。 不満があるとすれば、冒頭の心象風景がいささか大仰に過ぎたことと、家族という内面と社会という外面に終始したために、命のあり方に対する踏み込みが今一歩だったということくらいだ。 書き手が感心する作品。オレの作品をしてそうだという書き手が何人かいる。氏の作品もそのタイプに違いない。 |
8.15 白河市の寺院にある地蔵尊。祖父母の家に帰る途中にあって、そのたびに石を載せるのを楽しみにしていた。震災で倒壊した灯篭も見られたし、城山公園には『放射能の危険があるので長時間の滞在はしないでください』という看板も立てられていた。それでも、懐かしい風景はそこかしこに残されていた。肉体を形作っているのは骨肉に違いないが、精神の形成に深く影響しているのはこんな原風景なのかもしれない。 |
8.14 もうね、なーーーーーんにもやりたくない。 ミョウガ食って、それもこれも全部忘れたい気分。 ザリウン。 |
8.13 昨日は赤坂に行った。 行くにはだいぶ慣れたが、帰りはいつも道に迷う。高速の入口が見つからないのだ。我ながらダサい。 お盆の迎え火を焚いた。写真を撮ろうと思っていたのに、さっさと火を点けてさっさと消したという。 今日も暑いけれども、よく見れば、そこかしこに秋の気配だ。 |
8.12 純文学作品で、妙に改行が少ない作品がある。あれはどうしてだろう。読み難いだけではないのか? 『改行を増やすと馬鹿っぽく見えるからですよ』 とは、今は文芸関係にはいない知り合いの編集者の回答である。 彼が心からそう思ったのか、軽い冗談なのか確認はしなかったが、少なくともまんざら冗談ばかりではないとオレは受け止めている。 磯崎憲一郎氏の芥川賞受賞作『終の住処』を読んでいる。 文字が大きく、行間が広くとってあるので、息苦しさは感じないが、数ページ読んだ限りでは、お世辞にも読みやすいとは言い難い。 上等の散文とはリズムを持たないものだと、どこかで聞いたことがある。オレはリズムを大事にする作風だから、編集が鉛筆を入れた部分のリズムがすっかり破壊された様を見ていつも辟易させれれるが、高学歴の彼らは、もしかして純文に近い存在なのかもしれない。半分冗談で半分本気だ。 大江健三郎氏を筆頭に、いわゆる東大臭い文章というのはあると思う。彼らの頭脳は『記憶と分析』に長けているのが特徴である。だから、数行から、あるときは数ページにわたって、書かれた文章を暗記し、後に分析するという読み方をするのではないか。オレの文章を音楽的だと定義すれば、彼らの文章はより文学的だといえるのかもしれない。 磯崎氏は東大ではないようだ。まあ、そんなことはどうでもいいのだけれども。ただ、久しぶりの『純』文学だから、楽しめるかもしれないと、内心期待している。 |
8.11 ひまわり |
8.10 『書店の女性店員にウケる作品』が、売れる小説のひとつの基準なのだと、某出版社の編集者がいっていた。(角川ではないし、その編集はは既に文芸関係にいないから言ってもいいだろう)たぶん、業界人が聞けばその通りだというはずだ。オレもそうだと思う。もちろん、馬鹿馬鹿しいと鼻で笑ってからだが。 書店の女性店員を馬鹿にしている訳ではない。むしろ、彼女たちを軽く見ているのは業界側であり、もしオレが女性店員で、この話を聞かされれば激怒することは必定だ。 新作の構想がまとまらない。理由は簡単だ。自分を見失っているのである。どこの誰がどんな作品を書き、どんな小説を読んでいてもカンケーない。オレはオレの作品をオレのやり方で書けばいいのだ。そう思って書いてきた。しかし、そのやり方でデビューはできたが、本は売れなかった。世間はオレがオレのやり方で書いたオレの作品を拒絶した。この場合の世間が何を指すのかは様々だろうが。 オレは間違っていないという自信はある。しかし、こう売れないと、正しいと言い切るこも難しい。いずれにしても、オレは次のオレになる時期に来ていることは間違いないだろう。 |
8.9 民主、自民、公明の三党会議で、消費税成立に向けた合意があったという。首相は法案成立後の解散を約束したようだ。 解散すれば厳しい選挙になるだろう。それを分かっていて、それでも法案成立に掛ける総理の決意はホンモノだったようだ。『政治生命を掛ける』何人もの政治家からそんな言葉を聞いてきたけど、総理のその言葉に関して嘘はなかったらしい。一方、『書いたことはやる。書いてないことはやらない』というマニフェストの方は反故にしたのだから皮肉なものだ。 おそらく、財政は相当にひっ迫しているに違いない。少なくとも霞が関の官僚が示したデータは想像を絶して悲惨なものなのだろう。それが正しい数字だと総理は判断したのだ。 財務省の思惑もあるだろう。支出の無駄もあるだろう。ただ、その数字を見る限りにおいて、増税なくして福祉なしというのは事実なのだと思う。政治は腐っている。しかし、そこまで腐っていないとオレは思いたい。 増税すればこの国の経済は滅茶苦茶になるに違いない。経済が壊滅すれば福祉も壊滅する。だからオレは第三の道を模索するべきだと思った。ただ、浅学非才の徒であるオレは何の知識もなくアイデアも持たないが。 今日の日経がどう動くか。市場の判断に注目しよう。 |
8.7 講演会が終わった。画家に頼まれていた掌編も書き送った。いよいよ新作だ。まだ何も見えないが。 |
8.6 小説は虚構だが、嘘を書いてはならない。 愉快な殺人者を描くのは構わないが、殺人が愉快だと書いてはならないのである。 ただし、殺人は愉快だと作者が思っているなら話は別だ。 小説におけるオリジナリティの源泉はそこにある。 だから、オレは作家という生き方はあるのだという立場を採っている。 |
8.4 泣けるという小説を読んだ。新作の参考になりそうな作品ということで紹介してもらったのだ。短編集である。その表題作だけ、とりあえず読んだら眠れなくなってしまった。 ネットの感想を読むと『泣けた』の洪水。世の中の読者は、こんなご都合主義の作品で泣けるのかと思ったら、ウンザリしてしまったのだ。深夜だというのに、更にビールを飲んだのにそれでもまだ腹立たしくて眠れなかった。おかげで腹を冷やしたのか今日は腹具合が悪い。 幽霊が出てくる。二か月で亡くなった娘が小中高のそれぞれの姿になって現れるのである。どうして彼女が自分の娘だと気が付くのか、そこに着目して読んでいたところ、彼女の持ち物であろうセルロイドの人形が、彼女が亡くなったとき棺に入れたものだと主人公が気が付くのである。 その程度のことで、はたして眼前の女子高校生を幽霊だと認められるものだろうか。主人公は翌朝亡くなるのだが、そのために霊的な感性が芽生えていたのかもしれない。しかし、死期を悟った人間の心情が描かれていないのだから、ご都合主義だと言われても仕方がないだろう。小学校のときに死んだ娘が、中学の制服を着て現れたのであれば、納得できるが。 セルロイドの(キューピー)人形を棺に入れたということは、遺体と一緒に焼却されたというつもりなのだろう。しかし、棺にはその手のモノは入れないはずである。祖父が亡くなったときだったか、石油製品を燃やせば、燃えカスが骨に付着したり、あるいは炉に付着して痛めるのだと、焼き場で言われたものだった。 だから、焼く前にその手のものは棺から取り出すはずだ。であれば、現存している可能性が高い訳で、それを持っていたから即ち霊だというのでは、あまりに乱暴というものだ。 仮に一緒に燃やしたとしても、どこにでもある量販品の人形と妻が縫ったとかいう服だけで、幽霊の持ち物と断定するのは、リアリティがなさ過ぎる。だいたい、生まれて二か月の首もすわらないような乳児に、人形を買い与えるという意味が分からない。オレも娘に人形を買ってやったことがあるが、三歳位のことだったと思う。まあ、ひとそれぞれか。 また、主人公は厳格は職場人間として描かれているのだが、その厳格な職場人間が、幽霊と気づく前の女の子とキスをする場面がある。腕をうなじに回されいきなりキスされたのだというが、厳格な職場人間が、客のそのような行為を避けないというのはおかしい。誰もいない状況での出来事とはいえ、見つかれば懲戒は必定だ。しかも定年間際の老人なのだ。普通なら顔を横に向けて避けるはずだ。それが厳格な職場人間というものではないのか。しかも、女の子はキスしながら、口に含んでいたコーヒーを主人公に口移しで飲ませたという。冗談も大概にして欲しい。オレもしたことがあるけど、そんな行為は双方の同意なしには不可能だ。いきなりキスするのも、チュっとする程度ならできなくもない。しかし、液体がこぼれないほどに唇を密着させるのに、いきなりはムリだ。もし、いきなりそんなことをすれば、前歯同士が当たって唇が切れるとか、最悪の場合歯が折れる可能性だってある。 オレは『ハンザキ』という作品で、生まれたばかりの子を亡くし、その後妻とも死に別れた老猟師を描いた。彼はあらゆる悲しみをその胸にしまって、それでも、懸命に生きていた。それと比べて、この作品の老人は芯がなさ過ぎる。オレに言わせてもらえば、厳格くずれとか、もどきとかその程度だ。ヘナチョコだといってもいい。 だいたい、この主人公はあまりに職場を私物化し過ぎているし、周囲の人間も同じだった。彼らの生き方は、人間としても甘っちょろく、職場の人間としても不愉快で、ついでに、こんなモノをで泣ける読者の気持ちが分からない。 オレにとって厳格な人間とは、人の犠牲になって死ねる人間か、人の死を乗り越えてなお生きる人間をいう。娘の死に同調する人間のことではない。 |
8.3 故郷白河市の南湖。子供の頃、オレはここで釣りばかりしていた。 |
8.2 グラフは、講演会の資料として作成したものを、よりシンプルにし、半分に分けて、上下に並び替えたものだ。 赤線が東証平均株価。紫線がGDP。青線が対ドルレートである。あえて上下に分けたのは、その方がこの表の意味が明快になるからだ。 上下合わせて、1966年から2012年までの統計となっている。半分に割った位置が1989年12月31日。日経平均株価が空前の38.915円を記録した日である。つまり、その日を中心にグラフを分割し、上下に配置したのだ。簡単にいえば、バブル経済破綻前後の日本経済の状況を表しているのである。 時代が大きく変わったのが鮮明に見て取れるはずだ。戦後、この国の価値観が180度変わったというが、それと同じことが起こっているのだと思う。ただ、敗戦というはっきりした区切りがなく、もっと静かに、そして時間を掛けて変化が進行しているために、そのような意識が希薄なのである。 このグラフを見たあなたが、もし44歳なら、社会に出た年に変化の節目を迎えたことになる。つまりそれまで学んできた社会と、これから生きて行く社会が、根本から違うということだ。 今の若者は元気がないという。しかし、グラフをよく見てほしい。右肩上がりの時代に生きた人たちの価値観はもはや通用しないのだ。その時代の空気を持ち込んで『頑張りが足りない』などというのは、もはや罪悪だ。 頑張ってどうにかなる時代ではない。今の若者はそれを肌で感じているに違いない。今22歳の若者は、生まれたときから下のグラフを生きてきたのだ。 この先どうなるかは分からない。しかし、原発事故で、この国の経済はとどめを刺された感がある。今更上のグラフの再来を望むより、下のグラフを維持しながら、いかにより良く生きるかを模索するべきではないだろうか。 それが、この国の本来あるべき姿のような気もする。 |
8.1 白河でソバを食った。ソバ屋なら、オレはいつでも『もりそば二枚』だ。車でなければこれにビールがつく。一枚450円は安かったが、隣のねーちゃんが、席に座って注文を出す間に食い終わるのだから、時間単価は安くない。 |