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2012年9月
9.30 『自分は作家足りえるのか』 デビュー前、そのことばかり考えていた。 小説家を志望するのだ。文章が上手いとかストーリーが面白いとか、当たり前である。 問題はオレの作品が、言葉が、求められていかどうかである。 オレという人間が必要とされているかどうかと言い換えてもいい。 もし、そうであるなら、書き続ける義務がある。 そして、その思いは今も変わらない。 自分のために書くことは否定しない。 ただ、それがどこかで社会と繋がっていなければ、いったいどこに書く意味があるというのだろうう。 作家とは、社会の要望であり、個人の欲望ではないのだ。 たとえそれが、極めて個人的な衝動によるものだとしても。 |
9.29 台風が来ている。 その前にと、朝から14枚のすだれを外した。 これで、オレの夏も終わり。 |
9.28 もう金曜日か。一週間が早い。 インコの胸に鼻をくっつけて、匂いを嗅ぐのが好き。 ヘンタイだな。 |
9.27 ちょっと上手くいくと、ブタのように木に登り、ちょっと躓くとこの世の終わりのように落胆する。 この『ちょっと』が、実に文字通りちょっとだから、我ながら嫌になる。 疲労によるものなのか、季節によるものなのか、たぶん両方だろう。そして慢性的な苦境が少しずつオレの精神を蝕み・・・。 いや、そうじゃない。 思い返せば子供の頃からこんな性格だった。何かにつけて一喜一憂し、喜怒哀楽が激しく、完全主義者で、ちょっと褒められれば有頂天になり、ちょっとでも貶されれば、荒れたりキレたりするタイプだった。 泰然自若とか、謙虚とか、温厚とか、そんな言葉が似合う男になりたいと、いつも願っている。 |
9.26 バケツで育てた稲を月曜日の昼に刈り取った。 後で気づいたが、奇しくも天皇陛下が稲刈りをされたのと同じ日だった。 |
9.25 気欝だ。 たぶん、小説を書いているのがいけないのだろう。 さりとて今は止めるわけにもいかない。 どうにもならねえ。 |
9.24 月曜の朝はいつもミスタードーナッツと紅茶。 主婦だったら良かったのに、と思うことがたまにある。 家事は好きだからあまり苦にならないし、オレはこう見えてサービス精神旺盛だから、楽しく明るい家庭になるはずだ。 まあ、絶対にムリだというのが大方の見解なのだが・・・。 確かにオレは家事もできればサービスもする。でも、それを遥かに上回ってワガママで、気分屋で、自分勝手なのだそうだ。まあ、そんな部分は誰にもあるものさ。 そんなことはともかく、専業主婦なら存分に小説が書けるだろうという意識があるというか、主となる収入源が他にあって、更に小説の稼ぎがプラスされるのなら、きっと書く内容も違ってくるような気がしてならないのだ。 無い物ねだりもオレの得意技なのさ。 |
9.22 幌獅子 何十台くらい出るのだろうか、かなり見ごたえがある。小屋の中で打ち鳴らされる太鼓が腹の底に響くのがいい。 |
9.21 手掛かりは掴んだ。足場も確保した。 あとは黙ってやるだけだ。 なせばなる。 成さなければ、成ることはない。 成さずに成そうとすれば口数が多くなる。 言い訳を張り巡らせるからだ。 言いたいことは、成すべきことを成してから存分に言えばいい。 それからでも遅くない。 |
9.20 どうもあちこちで嫌われているようだ。 オレは自分で自分をまあまあいいヤツだと思っているけど、実はオレの勘違いなのではないかと、近頃かなり疑っている。 |
9.19 『善意は見えるが、悪意は見えない』 善意は隠す必要がないが、悪意は常に隠されるものだ。 更にいえば、善意は見たくても、悪意は見たくない。 悪意にこそ真理があるとはいわないが、他者はもちろん、自身の中に存在する確かな悪意から目を背けていては、とうてい現実を見たとはいえないだろう。 |
9.18 つくば市にある国立科学博物館の別館『筑波実験植物園』に行った。ここで撮影した写真のコンテストがあるというので、応募してやろうと思ったのである。 先日プロカメラマンに頂いた伝説のマクロレンズで撮りまくったのはいいけど、手ブレ、ピンボケの山を築いてしまった。マニュアルフォーカスに慣れない上、手ブレ補正機能がないのだ。 覚えたばかりの露出補正を使ってやろうと目論んだのも、被写体に集中できなかった原因かもしれない。やっぱ、写真は難しい。 150枚近く撮ったけど満足できたのはこの一枚しかなかった。(ホントはこれでなくて、これと同じ構図で撮った色調の良い別の一枚。公募規定に未発表とあるから) しかもメモを持たなかったので、植物の名前も分からないというテータラク。まだ何回か行くつもりだからリベンジだな。 |
9.16 『大切なものは、目に見えない』 アントワーヌは別に好きでも嫌いでもないし、キツネはちょっと鼻に付くけど、王子様はまあどうでもいい存在であり、むしろ薔薇に興味がある程度だ。『星の王子様』の話だね。 大切なものとは、何にとって大切なものなのだろう。 人類にとってだろうか、生命にとってだろうか、宇宙にとってだろうか、あるいは個人にとってだろうか。 『宇宙にとって大切なものは、目に見えない』 たぶん違うだろうね。 宇宙には精神も意味もない。それを支配しているのは物理的な法則だ。つまり、宇宙にとって大切なものは、物理的な法則である。法則は数式で表すことができるし、その作用もまた観測できるわけで、だから、『大切なものは目に見える』ないという結論になる。もっとも、キツネのいうところの大切なものに、量子論も相対論も入っていないだろう。 では『生命にとって大切なものは、目に見えない』だろうか。 これも違いそうだ。生命にとって最も大切なことは、生存し、存続することだ。これもバッチリ目に見える。絶滅が大切なら目に見えないかもしれないが。 『人類にとって大切なものは、目に見えない』 これもどうかな。画家や、作家にとって大切なものは作品だろうし、音楽家にとっては譜面か今ならCDだろう。生演奏も大事かもしれないが、楽譜という形に残さなければ、社会資本としての価値は激減してしまう。もちろん社会資本や、人権も大切だ。ちなみに人権は法とその実効性で見ることができる。 アントワーヌのいっていることはそうではない! ここまで読んでそう思ったひとは何人いるだろうか。オレのブログを読んでいるくらいだから、本気でそんなことをいう人はかなり少ないと予想している。まあもともと、読んでいる人が極端に少ないんだけどね。 『大切なことは、目に見えない』 アントワーヌいっているところのそれを、ひとことでいうと『愛』だろう。 しかし、ここでいう愛は神の愛であり、キリストの愛であり、キリスト教国の愛であることは意識しなければならない。それがたとえキリスト教を憎む者であっても、彼の価値はその反作用を帯びている。 いずれにしても、この国で多く言われるところの愛とは違うということだ。 この国において、愛とか真心だとか、そういったものを指して『見えない大切なもの』だという人が多くいる。オレはそれを怠け者の言い訳だと断じる。こんな言葉をよく持ち出すのは、成すべきことを持たない、あるいは持っていても成すのに困難を感じている者ばかりだ。少なくともオレにはそう見える。 もしこの国一流の作家が、作品より愛や家族が大切だと言うなら、もはや彼の作品は読むに値しない。実に馬鹿馬鹿しいではないか。もしそうなら、彼の作品はもはや文学ではなく、商品だ。彼の愛する家族を幸せにするために金を払うなんて冗談じゃない。 愛だの夢だの誠だの、何も持たないガキの妄言に過ぎない。大人なら成すべきことを持っているはずだ。そしてそれを形にする義務を負っている。それが愛だ。 またこれといって、成すべきものを見いだせない者なら、大切なものは家族だと、近しい人間だと、あるいは仕事だと胸を張ればいい。それを形にするのが愛だ。 見えなかったものを見えるようにする。それがこの国の愛だとオレは思っている。『大切なものは、目に見えない』などと簡単にいうべきではない。愛を思うだけなら誰にでも出来る。というより社会を構成する一員としての最低限のモラルだ。 さて、だいぶ脱線したからもとに戻ろうか。 キツネのいうところの『目に見えない大切なもの』とは、極論すると神だ。あるいは、神の作った世界にあるべき神とその愛の概念。 愛は地球を救うとかいうオレの大嫌いなテレビ番組がある。愛が『成すべきことを成すこと』だと定義すれば、それは見える愛であり、この番組のタイトルも成立する。 しかし、見えない愛で地球を救えるのはキリスト教国だけなのだ。 彼等の神は宇宙をも創造した。だから、そこに目に見えない大切なものが存在するのだ。もし、神が宇宙に内包される存在なら、それを支配する法則があるはずだ。そして法則は目に見える。 キリスト教社会でいうところの愛と、神の存在が希薄なこの国でいうところの愛は、違うものだと考えた方がいい。神の愛は絶対であり、この国の甘ったれがしばしば口する愛は相対の愛だ。つまり『試される愛』に対して『試す愛』だといえる。 『大切なものは目に見えない』 キツネの言葉に感心するのは結構だが、そこをはき違えて、自分に都合のいいように解釈し、成すべきことを成せない(つまり愛を結実できない)怠惰の言い訳にしてはならないのだ。 神のいない国において、あるいは人において、愛とは『成すべきことを成す』ことを指す。作家が小説を書くでもいいし、大工が家を建てるでもいい。また、子供を作り育てるという、そのものズバリでもいい。愛を目に見える形にするのが、神の愛が希薄な人々の愛なのだ。 しつこくもう一度書くけれども、愛を思うだけなら誰にでも出来る。というより、思うだけならそれはモラルに過ぎない。 オレはキリスト教を歓迎するものでも、擁護する者でもないが、彼等の優れたというか、見事に組み立てられたロジックを、それと知らずに受け入れ、自己流に解釈して悦に入っている景色は、滑稽であり恥知らずでもある。 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが、どこまで神を意識して『星の王子様』を書いたのか知らないけどね。 |
9.15 今日から三日間は、地元石岡のお祭り『常陸國總社宮例大祭』である。関東の三大祭のひとつだそうだ。毎年ひどく暑い上に、雨に祟られるのだが、今年はお神輿の出立と同時に雷鳴が轟き、雨となった。で、オレはささっと退散した次第。カメラが濡れて壊れたらたまらないからね。人ごみが嫌いだし。 コンデジで撮影していたときは感じなかったが、デジイチで獲るお祭りは、思いの他、難しかった。人が多いものだからポジションが取れず、しがたって構図も決めにくい。それに対象を定めるのが難しく、従ってピントも合わせずらいし、お神輿だって、屋根に合わせるのか鳳凰に合わせるのかでも迷ってしまうし、迷っている間に、動きやがるときたもんだ。ついでに通行人は邪魔だし、揺れるお神輿は、シャッター速度が遅いとすぐにブレやがる。腕のことは棚に上げて、カメラに付属のズームレンズのせいにしてやろう。 で、『ささら』を撮影したかったのだけど、どれもブレブレ。三体いるから、どれのどこにピントを合わせようかとしている間に、シャッターチャンスを逃してしまった。 仕方がない。この写真だけ、昔コンデジで撮影したヤツを載せることにする。 でも、立体感に欠けるし全然シャープさがないね。 |
お神輿の屋根紋は十六菊花紋である。 なお天皇家の十六八重菊を付けた御神輿を所有している神社は全国的にも数少なく、日本に3社しかないと言われている。WIKIより |
ネットの某所で『なぜ人は変われないのだろうか』という話題があって、そこに長々書き込んだので、もったないからこっちにも掲載しよう。オレはケチなのだ。 ******************** >価値観は変えられる。絶対的な感性は変わらなくとも、価値観を変えれば人は変わることが出来るのではないか? と思うのです。 もう一度、オレの考え方をきちんと書いておきましょう。 価値観(感性というより観念)を変えるのではなく、『捨てる』のが大事なのだと思います。 相対的なそれも、絶対的なそれも、先天的なそれも、後天的なそれも、まさにそれであるところのものも、それらしきものも、全て捨てることです。 ○○さんは『人は変わらない』と書きましたが、オレは『変わらない』のではなく『捨てられない』のだと解釈しています。 老子の言葉でいえば『固執しない』 ニーチェのいうところの『没落』(誇りにしていた知恵をみずから否定し愚かさに立ち帰ること) 老子も、ニーチェもそれまでの自分を捨てろと言っているのではないでしょうか。 それが新しい自己形成への出発点なのだと。 書き手でいえば、新しい創作(新しい作品を書く)の出発点なのだと思います。 唯一無二を捨てる。変わるのではなく捨てる。変わるのはその結果です。 捨てることが新しい自分を見出す第一の、そして唯一の方法なのだと思います。 >文章も達者で善い物を持っているなあって端倪する人物がいたりします、しかし書くものといえばひどく狭義で、そこから一歩すら踏み出せないってことがままあります。 ○○さんがこのように感じる原因は、その書き手が、あらゆる価値観を捨てられずに、固執しているところにあるのではないでしょうか。 ニーチェの解説は、『自分の知恵の空しさを知り、本来の愚かさに立ち帰る。この本来の愚かさこそ、本当の自己創造が可能となる地盤』となるのだと言っています。 つまり、どこまで捨てられるかが勝負なのです。 殺人は悪だというおそらく唯一無二であろう価値観をどこまで捨てられるか。 『オレは人を殺した』 たとえば小説にそう書いたとします。 殺人は悪だという価値観の上に書かれた一文と、それを捨て去り、真っ白な原稿用紙に書かれた一文では、自ずと深みに違いが出るのです。 読み手が説教臭いと感じるのは、捨てられない書き手だからでしょう。 六法全書に基づいた小説だとしても、記された文章は原始のそれであるべきだということです。 同じ文章を書いても、違いが出るのは書き手の内面にそういった違いがあるからです。 先日テレビで、高倉健はこういいました。『内面は映る』のだと。 作家の手段は引き算であり、読み手の手段は足し算です。 そこを勘違いしている書き手が多いような気がします。 蓄積は腐敗のもっとも大きな要因のひとつです。 作家とはまったく新しい価値観を生み出す存在です。 それば突然変異に似ています。 新しい表現は過去の遺伝子を積み上げた先にはないのです。 小説を書くのに、学ぼうとするひとがいます。 オレはその危険性を何度か指摘してきました。 なっちゃんには悪いけど、小説学校にもその危険性があります。 学ぶのではなく、得るのではなく、捨てるべきでしょう。 ただ、多くのモノを捨てるには、多くのモノを持たなくてはなりませんが。 いくら捨てても、老子は老子だし、ニーチェはニーチェです。 それが、個の個たる唯一無二の価値観なのだと思います。 そして、我々書き手は、自身にそれがあるかを探す者なのでしょう。 それを見つけるには、唯一無二だと思われる価値観を、捨て続ける以外にないのだと思います。 ニーチェが捨てたのは唯一にして絶対の神だね。 だから、ニーチェはニーチェ足りえたのでしょう。 最も大事なものを捨てられない者は、 最も大事なものを捉えることはできない。 最も大事なものの奴隷に過ぎないからだね。 ニーチェとかオレは詳しくないけど。 蛇足ですが、絶対的な価値や観念に関する意味で書いたつもりです。 売れる売れないに代表される、相対的な評価や価値観はまた別の話です。 **************************** |
9.14 昨夜のテレビに赤川次郎氏が出ていた。 著作数は500部を超え、累計出版部数は実に三億部だという。 年間24冊出版したときもあるそうだ。 ここまで違うと、嫉妬すら覚えないね。 今度会ったら爪の垢でも貰っておこう。 煎じて飲むのかって? まさか。 オレにそんな趣味はない。 小分けして、売れない小説家と作家志望者に売るのさ。 |
ある、牧師だか宣教師だか司祭だか、オレはそのあたりには詳しくないが、とにかく、キリスト教に携わっている人物を知っている。知っているといっても、オオクワガタのことを調べていたら、たまたま氏のブログにたどり着いたのであり、それ以上の関係はないし、コメントを書き込んだこともない。 氏のブログに初めて訪れたときのこと。こんなことが書かれていた。それはブログに行かなくなった今もよく覚えている。 『クワガタのことでの議論なら、面倒なら打ち切ることもあるし、いい歳して・・・、といった揶揄には腹も立ちます。しかし、福音(?)のことについての話であれば、どれほど馬鹿にされようとも、とうてい理解してもらえそうになくても、笑顔で何時間でも何日でも話ができる自信があります』 ネット社会になって、自らの意見や、考えを披露する人が増えた。原発のこと、政治のこと、戦争のこと、領土のこと。 オレの知り合いにもそういうことをしている人がいる。記事を読んでいると、どうも、この国の現状を嘆き、未来を憂いているようだ。いささか軽薄で感傷に偏り過ぎているとは思うが、その志は悪くない。 オレは彼が好きでないこともあって、彼のブログのコメント欄で、一度か二度、彼をからかったことがある。論戦に持ち込んで、ちょいと鼻をへし折ってやろうと思ったのだ。(オレが負けたかもしれないが)すると彼は、オレに反論することもなく、『どうせ話を聞く気はないのだろう。そういう輩と話をしても無駄だ』と、捨て台詞を吐き、それ以来オレの名前で書き込みがあっても即座に削除するといった。意見を異にする他の論者にも同じことをしていたから、彼にとってそれはごく自然なことのようだ。 もし自分が、心の底から、この国と、多くの隣人のためにモノを考え、よって微力を尽くしたいと思うのであれば、たとえ相手がどんなに嫌なヤツであっても、どれほど侮辱されようとも、ことによっては身に危険を感じようとも、最後まで真摯に論を尽くすべきだ。聞く耳を持つ相手には語り、そうでない者は排除するという姿勢のどこに正があり義があるのだろう。オレはますます彼のことが信用できなくなったが、そんなことを思うのはむしろ少数派のようだ。 自分は正しいという信念は非常に危険なものだ。だからいつも自分を疑っていなくてはならないし、自分と自分の信念を試す意味でも、論敵を選んではならない。そして、正しさを相手に向かって証明するには、どこまでも穏やかでなくてはならない。詭弁を弄して相手を黙らせるなどもってのほかなのだ。暴力とは肉体的なそれに限らない。言論もまた大いなる暴力だ。力でなされる正義、つまり正義の暴力ほど危険なものはない。戦争はいつだって正義から始まるのだ。 だから正義だと信じていても、また自分にとっては紛れもない正義であっても、それを論じ、また実行するには、どこまでも穏やかで、かつ粘り強くなければならず、そのためには、自我を抹殺するほどの胆力が必要なのである。ちょっと揶揄されたくらいで議論を放棄するなど話にならない。保身を計る者が革命を果たせるはずがないのだ。 ごくまれにではあるが、彼のブログを見ることがある。相変わらずの軽薄で感傷的な正義ぶりに失笑すると同時に、上のキリスト教関係者の心の強さを思い出す。 いいたいことだけ言って悦に入っている限り、どれほど高次元な言葉を吐こうと、所詮は場末の飲み屋でクダをまく政治好きの酔っぱらいと何ら変わりない。それは、彼が町会議員にでもなったとしても同じだろう。本物は雑草の隙間に埋もれているときから、志高く輝きを発し、よって敵をも惹きつけるものだ。 |
9.13 焦ってはダメだ。 これは実に真理だと思う。 焦って何かして、良いことはひとつもない。 一喜一憂もまた同じ。 いつも淡々として、やるべきことをする。 何事か成そうとするなら、成すべきことがあるなら、それが最善であり、およそ、それしか方法はないのだ。 |
9.12 明日はこの話を書こう、と思っても、今日になるとすっかり忘れている。 そうそう、昨夜はカゲロウの写真を撮りに出かけた。風呂に入った後だった。ばらばらの髪のままでいると、頭頂部が禿げていることもあって、落ち武者そっくりに見えるらしい。その落ち武者が、夜、人気のない自動販売機の前で、光に集まるだろうカゲロウを探して、ウロウロしているのだ。そんなこととは知らずにタバコを買いに来たおっちゃんが、いつまでも車から降りない訳だ。まあ、カメラを持っていたもので、カエルなんぞを撮り始めたら、おっちゃん、安心したらしく、『どうも』とかいいながら、胡散臭そうにオレを見てタバコを買っていったっけ。おっちゃん、タバコは身体に毒だぞ。 で、やはり季節が遅いのか、カゲロウはいなかった。残念だが仕方ない。 こんなことを書きつつ、さて、今朝はどの写真にしようか。カエルにしようか。でも、しぼんだ朝顔にする。オレの夢もしぼみそうだぜ。 |
9.11 ツァラトゥストラはかく語りき。 『評価することは創造することである』 『評価することによって、初めて価値が存在する』 |
9.10 カメラを持って近所まで出かけた。 それにしても暑かった。 |
9.9 我欲すの獅子は精神の砂漠で汝成すべしの竜に出会うと、ツァラトストラは語ったという。おもしれえ。 |
9.8 当たり前のことを、当たり前のこととして捉える感覚が減少している。というより、何をして当たり前とするかの基準がどんどん低くなっているような気がしてならない。 たとえば不言実行。オレが子供の頃、その概念は当たり前のこととして存在していた。少なくとも、黙って何かに取り組む人間を褒めるための言葉ではなく、口ばかり達者な愚人をいさめるためにあったと記憶している。 全力を尽くすとか、一生懸命やるだとか、そんなことは当たり前のことだ。もちろん、当たり前のことが難しいというのも事実である。その狭間で誰もが悩み苦しみ、それを解消するために努力する。そして、それもまた目的のためには当たり前のことなのだと思い至ったとき、身体は軽くなり口は重くなるのだ。 |
9.7 大気が入れ替わったようだ。日差しは強いが、空気の感触が新しい。昨日の夕方、冷気を伴って降った雨が影響したのか、雨戸を開けても今朝はセミの鳴き声が聞こえなかった。 |
9.6 『雑草という名の植物はないんだよ』 昭和天皇は仰ったという。 しかし、オレの周りは、残念ながらオレも含めて雑草ばかりだ。 |
9.5 オレの言うことの五割は愚痴だ。残りのうち、文句と泣き言がそれぞれ二割を占めている。前向きな発言はせいぜい一割程度だろう。それも、発展的で健全な前向きではなく、ほとんどはビッグマウスの類ときたもんだ。 不言実行はいつの間にか有言実行に取って変わられてしまった。それでも、やるヤツはいつだって黙ってやるのだと思う。夢を掴むために、目標ををクリアするために、それを誰かに話すことは有効かもしれない。しかし、彼が希望したものを手に入れるとすれば、それらのことに寡黙になったときなのである。 |
9.4 拙著『化身』に収録の『雷魚』より抜粋。 池の周囲にはたくさんの赤トンボが、透き通った羽根を日差しに輝かせながら飛び回っていた。夏の間は涼しい山の上で過ごし、秋が近づいてきたものだからこうして平野に下りてきたのだろう。同じように女のひとも間もなく都会へ帰ってしまうのだろうか。康夫がそんなことを考えていると、ひときわ鮮やかな赤に染まったトンボが一匹舞い降りて、女のひとの白い帽子にとまった。 「トンボ」 指差すと、女のひとが「えっ」と、小さくいった。 「じっとしてて」 少し屈んでもらうように合図しながら、そっと近づいて背伸びをする。指をゆっくり回すと、虹色の光彩を放つ大きな目がゼンマイ仕掛けのおもちゃのように動いた。 指先が羽に触れるほどに近づいたとき、思い切って手を伸ばした。だが、獲ったと思った瞬間、トンボは隙をついて素早く指の間をすり抜けた。 康夫は飛び立ったトンボを見失わないように目で追った。真っ赤なトンボがまるで洒落たブローチのように女の人にぴったり合うような気がして、近くにきたら今度こそ捕まえてやるつもりだった。けれども、風に乗って空高く舞い上がったトンボは、そのまま飛び続けて二度と戻ってこなかった。 |
9.3 子供の頃から気になっていた空飛ぶエビ。 調べたら『オオスカシバ』という名前だった。 漢字で書くと『大透翅』。透明な羽を持つ蛾という意味だ。 撮影するときはいつも『オート』。 でも、動きが激しい被写体のときはシャッター速度を上げようと思っていたのに、すっかり忘れてしまった。 そのために、いまひとつシャープでない写真になってしまった。 残念。 |
9.2 もう9月か・・・。 シャレにならねえ。 |