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2011年11月



11.30
焦ってはダメだ。追えば逃げる。株も小説も。







11.29
明日は角川三賞の贈呈式&パーティ。オレは行かない。次、東京會舘に行くのはプロとしてそれなりの結果を出したときだ。







11.28
コツコツと木をつつく音がするので、見上げたらヤマガラがいた。中の虫をおびき出して食べようとしていたらしい。



何をやってもうまくいかない。
所詮オレはこの程度か。
うんざりする。





11.27
シジュウカラ。
関係ないけど、先日テレビドラマを見た。オレにしては非常に珍しいことだ。有名な小説家の作品が原作になっているという。ちょっと面白かったので本を買った。数ページ読んで嫌になった。こんなものは小説とは呼ばない。少なくともオレの知っている小説ではない。







11.27
ドングリもすっかり色づいた。







11.26
公園にメジロが来ていた。付属の250oズームで小鳥はやはり苦しい。良い望遠レンズが欲しい。本よ、売れろ!当たれ、宝くじ!株価よ、上昇しろ!あーあ。







11.25
突然、いきなり、急に、唐突に、女性に嫌われたことが何度かある。いつもの調子でメールを送ったら怒りの返信を貰ったこともある。いつだってオレに悪気はない。女心はわからねえ。







11.24
アイデアの断片は浮かぶけれども、それらがラストに向かって動き始めることもなく、肥大化することも、意外な結合をすることもない。一作書き終えて一週間。締切がある訳でもないのだから、焦る必要はない。追えば逃げるだけなのだ。とはいえ待っていても来る保証はないのが悩ましい。







11.23
北関東の田舎町。『化身』に収録の『雷魚』で、雷鳴の轟く中、主人公が駆け抜けたのがこの通りです。
まあ、読んだ人ひとりひとりに、それぞれの通りがあるんだけどね。オレはただ、その通りが、その人にとって大事なものになってもらえればと願うばかりです。







11.22
『君の名は』というドラマが昔流行っていたそうだ。もちろんオレは知らない。そのドラマは、想い合う男女がやたらすれ違うのだという。会う約束をしたのに、電車が遅れたとか、場所がちょっと違ったとか、とにかくすれ違う。

携帯電話が普及し始めたとき、これでもう、こういうドラマはなくなるだろうと誰もが思ったというが、本当にそうだろうか。
たとえば、誰かとメールのやりとりをしていたとする。何回か送受信を繰り返した後、ぱったりとメールが来なくなったとする。話の区切りがはっきりしているとか、どうでも良い相手であるならそれでよい。しかーし!そうでなかったらどーする。更にそれが、ほのかに想いを寄せる異性だったらどーする。
『メールの返信が来ないんだけど』
そんなメールを送れるなら、それはもうほのかな想いではない。

そんなことは、ネット音痴の純情おじさんの考えることだと笑うことなかれ。
ある高校生に聞いたことがある。とにかく返信が遅れてはならいのだという。連中の作法は日進月歩だから今はどうなのか知らないが、多くの連中が風呂にまで携帯電話を持ち込むのはそのためだという。更にはメールの切り上げ方にもルールがあるらしい。メンドクセー。

まあ、オレが言いたいのは、届かぬメール。それはさほどに相手の気持ちを不安にするということだ。そして、その相手が異性だったら。更にちょっと気になる異性だったら!ということだ。
大いに気になる異性なら問題ない。返信が来なければ、どうしたどうした、メールくれくれメールを送れば済むことだ。その程度のこともできない純情ヤローなら、どうせ他のことでも似たような状況に陥るのだからカンケーない。

で、冒頭の男女のすれ違いと、届かぬメール。似ていると思わないか?
自分が送ったメールが絶対に読まれているのであれば問題ない。
メールを読まれた上に、返信がないなら、それもまた良しだ。しかし、ここで大いに問題なのは、もしかして、自分が送ったメールが届いていないのではないかという疑念だ。あるいは相手が間違って削除した可能性だ。どんな理由であれ、相手に届いてないなら、結果、不義理をしたのは自分ということになる。これは悲しい。

メールは無事相手に届いているのか。白ヤギさんに食べられていないか。はたまた、返信のメールを食べてしまった黒ヤギさんがいるのではないか。いやいや、そんなことではなく愛想をつかされただけなのか。
『メールの返信してくれた?』
あるいは『メール届いてるよね?』
これが訊ければ世話はないのだ。
しかーし、オレは、ほのかな関係が好きだからそんな無粋なことは聞きたくない。

メールがらみのこんなトラブル。オレは何度か経験がある。
たとえば編集に原稿を送るとき。
送ったはずの原稿が受信されていなくて、その後のやりとりがちぐはぐになったことがある。男女の仲なら下手をすればケンカ別れにでもなりそうな感じだった。
小説の公募に応募したときも、メールだと本当に届いたか心配になる。実際、相手の迷惑フォルダに入っていたことがあるのだ。

という訳で、メールのやり取りには、常にすれ違いの危険性があり、実際たぶん相当数の男女が、お互いに思い合っているにも関わらず、その手のすれ違いのために、結ばれなかったことだろう。
そんな彼、彼女たちに、モテないオレから慰めの言葉を贈ろう。
ざまあみやがれ。ご愁傷様!

まあ、そんな歳じゃないんだけどね。オレ様は。







11.21
不景気だからある程度仕方がないのだろうけど、このところ随分右傾化が進んでいるようだ。芥川賞受賞のじいさんは核のシミュレーションくらいはした方がいいと発言したという。おいおいと思って、ニュースのコメント欄を見れば、賛成の声で埋め尽くされていて、またびっくり。東西冷戦ならぬ、日中冷戦でもしたいのだろうか。
一方の自民党は憲法に国防軍を明記すると公約するという。アメリカ頼みの国防でいいのかといわれると、まあそれもどうかと思うが、だからといって、いきなり軍といわれてもねえ、という印象は拭えない。
『声高に主張してはならない』
領土問題について、こんな話を聞いたことがある。
つまり、こちらが自国の領土だと声高に主張すれば、相手国もまた声を大きくして反論しなければならなくなるのだと。
『時間が解決してくれる』
こんな考え方は昭和と共に終わってしまったのかもしれない。







11.20
ある俳人はいう。『予定調和をはずす』ことが大事なのだと。分かるような気がする。







11.19
それがヒーローショーであっても、ナマの演劇はいい。しかもタダときたもんだ。







11.18
今日は用事を済ませてから地元商工会のお祭りへ。
やっぱ撮るなら人だよなあ。







11.17
北関東の田舎町。
今日は雨。
何も書くことがない。
どだい書くことなど、もとより何もないのだ。







11.16
『男は40歳になったら自分の顔に責任を持て』エイブラハム・リンカーン
つまり、親の責任だとか、生まれつきなのだという弁明は、40歳を過ぎたら通じないということだ。顔にはその人の生き方がでる。40年あれば後天が先天を上回り、自分の顔になると、大統領はいっているのである。
オレの顔がどうかはともかく、オレはいつだって今のオレが一番気に入っている。若くモテモテだった?ときよりも、ホラ大を獲ったときよりも、今が一番いい。ただ、ハゲてきたのだけは何とかならないだろうか。こればかりは自分の責任ではないと思いたい。

写真は食中植物サラセニア。なお消化酵素はあまり出さないそうだ。







11.15
野田総理が解散を決めた。
政策においての批判は色々ある。TPP参加も消費税増税もオレは反対だ。しかし、それでも彼の政治家としての覚悟は立派だと思っている。支持率が低迷し、国民、野党、更には身内の与党からも批判を浴びながら、それでも、自分の信念を貫くのは簡単ではない。
ただ頑迷なだけでなく、機を見るに敏であり、交渉も上手い。近頃の総理の中では群を抜いている。胆も据わっていて、戦国時代の武将に生まれても活躍できただろう。
昨日の党首討論。総理は良い顔をしていた。







11.14
『化身』の初稿を書いたのは、もう十年くらい前のことである。まず一人称で書き、数年後に三人称でリライトし、更に数年後、再び一人称に書き直して受賞に至った。
三人称のときの主人公の名前が『横田』だった。これには理由がある。帰還兵の横井さんと小野田さんを、足して二で割ったのだ。
南方戦線だったところの熱帯雨林から、おふたりが帰還したことの記憶は、この作品の陰のイメージになっている。当初付けた『ヤゴ』というタイトルから、この昆虫の変体を想像した読者も多かったようだが、最後、背中から羽が生えたりしないのはそのためだ。

写真はサラセニアというウツボカズラに似た食虫植物に落ち、消化されかかっている虫。







11.13
先日の日曜日は『つくしょく』(国立科学博物館筑波実験植物園)に写真を撮りに行く。行くぜ!とか思っているときに限って曇天。それでも、19日締切の筑植写真コンテストに応募するのか、スマホで花を撮影している女子大生グループもいたりして、オレはやっぱ植物よりそっちがいいなあ、なのだ。







11.12
今日は雨・・・。
だな。







11.10
筑波山を貫いて、トンネルが開通した。オレの住む北関東の田舎町からつくばの中心までクルマで50分ほどかかったのが、このトンネルのおかげで30分ほどに短縮されることになる。オレがこの地に来た三十年近く前から、早期実現の看板が立てられていたが、本当に完成するとは思ってもみなかった。
今日トンネルウォークが開催されたので、向こう側まで歩いてみた。あの峠をこんな簡単に抜けて向こう側へ出られるとは、分かっていても、やはり不思議な気分になった。
写真はつくば方面からトンネルを抜けて、オレの住む北関東の田舎町方面を撮影したものだ。こうしてみると、驚くほど田舎だ。背後にある峠から新宿の高層ビルが見えるとは思えない。







11.9
ジョッキ生はともかく、瓶や缶のビールをグラスの注いで飲むなら、その材質は薄い方がいい。
東京に、うすはりという、非常に薄いガラスでできたグラスがあるというが、これなど最適だろう。
ただし、個人的にはビールを飲むなら錫のカップが最高だと思っている。京都のお店で買った(ネットだけど)錫のビアカップを愛用しているが、たまにガラスのコップで飲むと、これが嫌というほどまずくなるのだ。錫の食器というと厚い印象があるが、これはガラスのコップより薄いところが良い。やまなし文学賞の賞金で買ったというところが更に良い。
正直にいうと、近頃ビールは飲んでいない。毎晩飲むのは、ビール風味のその他の雑酒だ。しかし、しかし、しかし、侮ってはならない。冷蔵庫のチルドルームで一日冷やしたこの雑酒を、件のビアカップで飲むうまさは格別なのだ。ガラスのコップで飲む最上級ビールより美味いと断言してもいい。もちろん、同じ方法で飲むならビールの方が断然うまいけれども。
錫のビアカップで唯一気に入らないのは、ビールの色が見えないことだ。これは実に残念だ。どこかに、縦に薄くガラスのはめ込まれた錫のビアカップはないものだろうか。







11.8
南二局、リーチもできない残り100点で、起死回生の四暗刻。
しかも単騎待ち。
でもトップを獲れない。
まるでオレ様の人生みてえだ。







11.7
日曜日と月曜日に一本ずつ、計二本吸った煙草のニコチン中毒で、朝から髪の毛が逆立っている。まあ、実際に逆立っている訳ではなく、そんな感じがするということだが。 ニコチン恐るべし。







11.6
ひょんなことで恩賜煙草が手に入った。恩賜煙草は2006年に廃止されているから、この品もおそらく10年程度は経過しているだろう。しかし、無類の煙草好きだったオレにそんなことはカンケーない。
煙草を止めて10年ほど経つ。懐かしい味だった。しかし、二本吸って終わりにする。早くも身体がニコチンを求めているのを強く感じるのだ。いくら好きでも、また一日40本の生活に戻るのはごめんである。
学生時代のこと、咥え煙草の仕方をオレに教えてくれた友人がいる。自分は吸わないクセに面白い奴である。彼がいうには『煙草の先端が内側に向いていることがポイント』なのだそうだ。マカロニウエスタンに登場するクリント・イーストウッドは、必ず先端を内側にして煙草を咥えているのだという。何かの機会に見たらなるほどその通りである。
普通、煙草を咥えるときは先端を外に向ける。内側にすれば、立ち昇る煙が目に入るし、やってみれば分かるがその方が自然なのだ。
とはいえ、木枯らし紋次郎の楊枝も、ドカベンに出てくる岩鬼の葉っぱも外側に向いているから、これは煙草だけに通用する理論なのかもしれない。
煙草といえば灰皿だが、悪役俳優が灰皿の使い方について話していたことがある。その筋の人を演じるときには、煙草を灰皿に押し付けるのではなく、灰皿を手に持って、灰皿を煙草に押し付けると、危険人物の印象が強くなるのだという。
更に別の人の受け売りだが、持つときはできるだけ指の根本で挟むのがカッコイイ。指先でちょこんと摘まむのは女性にはいいが、男がやると貧乏くさくなる。男は手の平で顔を覆うようにして、指の根元に挟むといいのだという。渡哲也がそうだというから、これも改めて見直したら確かにそうしていた。
小説にも煙草は有効な小道具だった。しかし、今は携帯電話に取って替られてしまった。ケイタイは絵にならない。そう思うのは、持っていないオレの僻みだろうか。







11.5
亀戸天神から東京ゲートブリッジ経由で城南島海浜公園へ行く。初めて行ったが、ここは海を挟んだ正面に羽田空港があって、飛び立つ飛行機が真上を通過していくのが面白く、また東京タワーとスカイツリーの両方を海の向こうに見ることもできて、なかなか良い所だった。
さらに新浜にある宮内庁の鴨場を外から眺め、大井経由で赤坂へ。
色々行った割にはのんびりとした良い一日だった。
そうそう、東京ゲートブリッジからは東京港と東京の高層ビル群を一望にできた。予想よりずっと良かった。歩道があって歩くこともできるようだ。高所恐怖症のオレはクルマで走っていても****が縮み上がってしまったが。














右端にスカイツリー、左端に東京タワー
















11.3
書く。欠く。賭ける。
これがオレの3K。
そして、この人生を駆け抜けてやる。








11.2
ある日、父親がいった。
『ウチの連中は親戚を含めて、皆、好きで貧乏をしてるんだ。』
ウチの連中だけでなく、おそらく世の中の大半の人がそうなのだと思う。
『そんなことまでしてお金を欲しいとは思わない』
どんなことをしても金持ちになりたいと考え、実行する人間はとても少ないい。
お金は欲しいという。でも、ただそれだけのことであり、そのための努力はしたくないのだ。これでは好きで貧乏をしていると言われても仕方がない。
話はちょっと違うかもしれないが、こんなことを考えることがある。
たとえば日本中の人間全員でじゃんけんをしたとする。普通の人は良くて数回勝って終わりだろう。一億人のじゃんけんで最後まで残るなんてあり得ない。
でも、どれほど多くの人間でじゃんけんをしても、最後まで勝ち続ける人間が必ずひとりいる。
成功とは、そういうことではないのだろうか。







11.1
株をやっている。やっているというには少ない資金だが、社会を覗く窓としてはそれなりに有効である。漠然と新聞を読むより、株価の上下を介して見た方が、経済や政治が、生々しく身近に感じるのだ。

プロアマを問わず、小説を書く者が株に手を出すなど許されないことだと思っていた。小説以外の収入、特に不労所得を期待することで、文章が汚れると考えたのだ。しかし、状況は変わった。
小説で得た収入を投資で増やすどころではない。投資で得た収入で小説を書く時代なのだ。余程の売れっ子作家ならともなく、中堅以下の書き手の生活はかなり苦しいだろう。筆一本という形であれば、本人が食えればいい方で、家族を養い、なおかつ家を購入、あるいはそのローンを払うとなったら絶望的に違いない。想像に過ぎないし、ラノベなどの世界のことは知らないが、一般文芸の現状はたぶんそんなものだと思う。

正直カネのために小説を書いている。そんなオレがもし株で大儲けしたら小説は書かなくなるのだろうか。
いや、そんなことは儲けてから考えよう。
馬鹿馬鹿しい。








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