1.31 一難去ってまた一難。 |
1.30 友人というにはおこがましく、知人というには他人行儀なある人から、プロユースのカメラとレンズをお借りした。 さっそく、試し撮り。 さずがの描写力でびっくり。 問題はオレに使いこなせるかどうかだ。でも、せっかくだから使い倒すつもり。 |
1.29 毎朝寒くてウンザリする。オレは北関東の乾いた冬がどうも好きになれない。とはいえ、日本海側の雪はオレが思う以上に大変だろうし、遥か北の大地の低温は、想像することすら困難だ。 雪は意外と温かいのだというのは、やはり幻想なのだろうか。真冬に訪れた北海道の地下街は、Tシャツ一枚でも歩けるぐらいに暖かかったし、住宅の中も同様なのだと聞いたことがある。あれは、どこまで事実なのだろうか。 北関東の田舎町。今の季節、外気はマイナス7℃。室内でも氷点下になる。ボンビーなオレは、朝ストーブを付けないから服を着替えるのも命懸けだ。いや、ホント高血圧だから、いつコロっといっても、プツっといってもおかしくない。 日本は四季があるのがウリだと教わって育ったが、四季にも弊害はあるだろう。夏は暑いし冬は寒いしでは、暮らしにくくてたまらない。春はあけぼのは同意できても、冬はつとめては、カンベンして欲しい。自虐趣味にもほどがある。 できれば南の島に移り住んで、農業と釣りを生業に、たまに小説なんぞを書いて暮らしたいと思う。 南国に四季がないというのはオレは嘘だと思う。少なくとも北関東のような四季はなくても、その土地には、その土地の季節の移ろいがあるものだ。 |
1.28 海に行った。 しょぼくれたカモメを発見。 エサの付いた釣り針を呑み込んでしまったらしい。 糸が羽に絡まって飛べなくなっている。 剣道三段の相棒と挟み撃ちにして捕獲する。 車にハサミを積んでおいて良かった。 細いけれども強力な糸から解放された彼は、羽を広げて飛び去った。 腹には釣り針が残されているだろう。 長生きすることはできないかもしれない。 それでも、浜辺で人の目に晒されながら死ぬより、ずっと幸いなのだと思いたい。 釣り針、釣り糸の問題が指摘されて久しい。 オレも釣りをする人間として、申し訳ないと思う。 それでも、強力な胃酸で針を溶かし、生き続けて欲しいものだ。 そして、オレに是非!カモメの恩返しを! 捕獲の際、コケて脛を怪我してしまった。ゴロタ石の海岸だったのだ。今も痛い。 |
1.27 荷物を作ったり、送り状を書いたり、メールを送信したり、封書をポストに入れたり。 その度にひどく不安になる。荷物をちゃんと入れただろうか。宛名や住所は間違っていないだろうかと、後になって心配になるのだ。 何がという訳ではないが、オレは間違えているのではないかという漠然とした不安が、心の奥底にヘドロのように横たわっている。そこから滲み出てくる、一種の脅迫観念なのだろう。 写真はルリビタキの女の子。青い尾羽が可愛らしい。 |
1.26 ジョウビタキがいた。 |
1.25 オレを支援してくれるひと。応援してくれる人。支持してくれるひと。コメントを寄せてくれるひと。いいね!を押してくれるひと。自身のブログや掲示板でそれとなく触れてくれるひと。そして記事を読んでくれる全てのひとに、オレはとても感謝している。いつもありがとうございます。&oq=オレを支援してくれるひと。応援してくれる人。支持してくれるひと。コメントを寄せてくれるひと。いいね!を押してくれるひと。自身のブログでそれとなく触れてくれるひと。そして記事を読んでくれる全てのひとに、オレはとても感謝している。いつもありがとうございます。 |
1.24 『愛ある体罰』 愛があろうとなかろうと関係ない。 スポーツだろうと、勉強だろうと、殴られてまでしなければならないことなど何もない。殴られたおかげでできる様になった、などと感謝するのは、マゾのすることであり、自らを猿回しの猿と同列にするのと同じことだ。 だいたい、本当にできるヤツは、殴られたりしなくとも、殴られたヤツ以上にできるものだ。それをして『できる』というのだ。 問題は秩序を破壊する者が現れたときである。これはもう殴ってでも従わせなければならない。何しろ社会の危機なのだ。愛などと悠長なことはいっていられない。 ただ、殴られて反省する相手なら、それは殴らなくてもいずれ反省するだろう。むしろ殴らない方が理解は早いと思われる。彼は愛に飢えているだけなのだ。 問題なのは、愛が通じず、殴っても従わない者が相手の場合である。こういう人間は必ず一定割合で存在する。そういう輩は核兵器の照準を合わせても、聞く耳を持たないどころか、自分たちも核兵器を作り出そうとするだろう。全ての問題はそこにある。向ける側、向けられる側。彼らを平和裏に説得する。それができれば、暴力に関係する全ての問題は解決するはずだ。 つまり、ここにこそ人類の英知を結集しなければならないのだ。 バスケでミスったなどというアホな理由で、愛ある体罰などやっている場合ではない。 |
1.23 ごく稀にだが、ツイッターなどで、宮ノ川の小説を読んでいる、という呟きを目にすることがある。 『止めた方がいい』 無性にそう忠告したくなる。 オレの小説は最高の小説だ。だが、残念ながら貴君の好みには合わないだろう。 |
1.22 たった3日だけど、オレにしては珍しく根を詰めて小説を書いた。 おかげで腰に疲労が蓄積している。今朝グキッとやりそうな感じがあったので、そろそろと服を着替えた。まるでジジイだぜ。 残り1/4。ラストまでの筋道は見えている。後は書いてみて想像通りに仕上がるかどうかだ。 細工は流々、後は仕上げを御覧じろ。だぜ。 ところで、これ↑↑↑使わなくなったなあ。度忘れしてネットで調べたよ。 心頭滅却すれば火もまた涼し、とか、巧言令色鮮し仁 とかも、めっきり聞かなくなった。日本人は、(というのも大仰で大雑把だけど)諺を使わなくなった。 で、その代りに『人という字は・・・』だの『人間だもの』かあ。ココロザシが低くなったような。 ところで、『少なし』ではなく、『鮮なし』とは知らなかった。 『少なし』はちょっとある状態で、『鮮なし』は滅多にない状況らしい。 正直に告白すると、『ごろうじろ』を『ご覧じろ』と書くのも、言われてみれば、という感じ。 無学は辛い。 |
1.21 オレに期待してくれるひとがいる。 応援してくれる人がいる。 手放しに本気にするほどオレはおめでたくない。 オレが成功したからといって、彼らが幸福になる訳でもなければ、失敗したからといって、不幸になる訳でもない。 だからといって、彼らの気持ちを無駄にしたくない。 陳腐なことをいうようだが、これは本心だ。 |
1.19 好きな逸話がふたつある。 ひとつは太宰治。 第一回芥川龍之介賞が開催されると知り、是非自分に与えて欲しい、自分こそふさわしいと選考委員に手紙を書き送ったという。その文面は物乞いのように卑屈に感じられるが、それでも言葉の端々に傲慢な自信と尊大な自負が見え隠れして、オレには好ましく思えてならない。 もうひとつは、ミケランジェロ。 若い頃、彫刻学校に在籍していたミケランジェロは、学友の作品を見て回り、ヘタだ。これもヘタだ。ひどくヘタだと、けなして回ったという。あまりの侮辱に、ある者がひどく腹を立て、ミケランジェロを殴ったという。ミケランジェロは鼻を骨折し、そのため、彼の鼻は生涯曲がったままだったそうだ。 謙遜は商売人の美徳なのだとオレは思う。 自らの才能と作品を良しとするなら、その通りに良しという。たとえ誰の作品でも、ダメと思えばダメという。ビリビリするようなむき出しの感性。表現せずにいられない溢れる感情。 とても、まともに世の中を渡っていくことはできないだろう。彼らの拠り所は自らが信じる才能と、その結晶である作品だけである。世間との間に何らの夾雑物もない。素通しの生。 安っぽく人の作品を褒める人間が好きになれない。誰彼なく仲良くしようとする人間を信用しない。素通しのように見せかけて、実は防弾ガラス越しに話をしているような人間と、いったい何を話そうというのだろうか。まあ、あくまで書き手として文章を綴っているときの話だが。 なお、商売人としてのオレは別人だし、普段は冗談好きのただのオッサンである。そして、女性の前に立てば、正真正銘スケベオヤジ・・・に、なってしまったなあ。 |
1.18 どん底。 しかし大底ではない。 オレはまだ落ちるだろう。 更に落ちて、やがて底に溜まった泥の中に埋もれてしまうだろう。 もし、何かの拍子に浮上するとしたら、泥の中に硬い岩盤を見つけたときだ。 とはいえ、そのとき岩盤を蹴るだけの気力と体力がオレにあるとは限らない。 可能性は限りなく低い。ゼロではないというだけだ。 |
1.17 小説家に向いているのは、いサギよくないひとに違いない。 |
1.16 刺激的な言葉を聞ききたいのかもしれない。真実のきらめく断片を思わせる言葉。世界の真新しい切り口を記した言葉に飢えているのかもしれない。だから苛立つのかもしれない。古い言葉はそれだけで罪なのだ。 |
1.15 持ち株が僅か七営業日で二倍以上に暴騰。 しかし、虚しい。 騰がったといっても、元手が少ないから所詮子供の小遣い程度の話なのだ。 それに、まったく小説が書けない。これには参った。 金は日銀で刷れば済む。 やはり大事なのは作品。オレにしか書けない作品。そこにこそ生まれてきた意味がある。 雪は融けない。今夜は一段と冷える。 |
1.14 雪 |
1.13 夜をさまよう「マクド難民」 非正規の職まで失う(朝日新聞トップ記事より) アメリカ在住の女性のブログを思い出した。彼女によれば、危険な地域にあるマクドナルドには、終日、危険な人たちがたむろしているという。詳しく覚えていないが、おそらく職もなく、貧しい若者が中心なのだろう。 こんなところまでアメリカに似るとは思わなかった。オレは国粋主義者でもなんでもないが、一度Gパン、Tシャツ、スニーカーを脱いで、違うものを身に着けた方がいいような気がする。服装は当人が思う以上にその人の精神に強く影響するものだ。 出典も定かでないが、イタリア人は子供にスニーカーを履かせないと聞いたことがある。革靴が基本なのだと。スニーカーは幼い足に良くないという理由だったと思うが、多分に文化的意味もあるのではないだろうか。 ブログ(FB)の記事ばかり書いていて、ちっとも小説を書いていない。素人のにわかジャーナリズムは結構楽しい。だからこそ気を付けなければならない部分があると思っている。第一、ちょっとばかり報道に触れ、本を読んだくらいで、分かったようなことを得意気に書くのは、かなりみっともない行為なのだ。語るならそれを知りつつ語ることだ。自戒を込めつつ。 正しいと思うことこそ危うけれ。 |
1.12 『平和ボケ』『思考停止』 なんと戦闘的な言葉だろう。 聞くたびに嫌悪感を抱かずにいられない。 |
1.11 ***** いうまでもなく体罰は悪い。厳しい対処は当然だ。それでも、禁じられた行為だと覚悟のうえでふるわれる熱血教師の「愛のムチ」があり得ることも信じたい。ただ今回のケースは、そうした願望からもあまりに遠い。(20012.1.11産経ニュース【主張】より抜粋) なんという安易で危険な思想だろう。まるで時代錯誤の安物のドラマだ。愛は暴力の免罪符足りえるとでもいうのだろうか。 『愛のムチ』この行為において、最も傲慢と感じ、不愉快に思うのは、ムチは常に、強者から弱者に向かって振るわれることだ。まさに愛を知らずに愛を騙る愛の無知といいってもいいだろう。 ムチという恐怖を使った、強者による弱者への価値観の押し付け、刷り込みに過ぎないことに、なぜ気が付かないのだろうか。そこに愛があったとしても、愛のムチの効果を支える原理は、恐怖による支配なのだ。もし、そうでないというなら、なぜ『愛の言葉』では未熟な者を導けないというのだ。両者の違いは恐怖の有無なのは明らかである。 ついでに、スポーツで勝つ喜びなどというものは、個人の価値観であって、断じて強要されるものではない。自分のペースで楽しく出来るのであれば、オレは野球部にだって、柔道部にだって、入ってみたかった。 一時期、学級崩壊という現象が騒がれたが今はどうなのだろう。あのときも体罰に賛同する意見があったと記憶している。 体罰賛同者はいう。ある程度体罰を容認しなければ、学級が崩壊するのだと。先生が怖い存在でなければ、子供たちは皆好き勝手なことをし出して、収拾がつかなくなるのだと。 言い聞かせるという文化はもはや廃れてしまったのだろうか。何度でも何度でも言い聞かせる。子供は聞いていないようでもちゃんと聞いている。そのときは、知らん顔をしていても、それこそ愛情を持って言い聞かせれば、それを忘れることはない。 体罰という恐怖で維持してきた秩序は、体罰がなくなれば崩壊する。崩壊を食い止めようとすれば、更なる恐怖が必要となり、その行き付く先に恐怖政治があるのだ。そんなことは当たり前で、だからこそ、言葉や理性で秩序を維持する必要があるのである。 たとえば、ひとりのヤンキーがいたとして、彼が愛のムチで立ち直ったのなら、彼はまた愛の言葉でも立ち直ることができただろう。恥ずかしげもなく言うならば、彼を立ち直らせたのは、言葉でもムチでもなく、愛に違いない。 (あまり好きなタイプではないが)夜回り先生という人がいると聞いたことがある。夜の街に出て、ヤンキー話し掛けて回るのだそうだ。彼に出会ったことがきっかけで立ち直った人も多いという。その彼が愛のムチを使っていたらどうなっただろうか。とはいえ、教育委現場では、ムチの方が即効性がある場合も多いだろう。しかし、ムチで立ち直った人間が、将来ムチを使って未熟の者を指導する可能性は非常に高いのではないだろうか。 たとえ、根底に愛があっても、ムチは人を委縮させる。当人だけではない。それを目撃した者をもまた委縮させるのだ。ムチの最大の罪はそこにある。あるいは自分に降りかかってくるかもしれないムチに怯え、多くの才能が目を出すことなく葬られたに違いない。 日本が相変わらずの男性社会であるのは、ひとつに、愛のムチに代表される、暴力と恐怖を秩序の要にする風土があるのではないだろうか。つまり強者が支配する社会だということである。 女性にとって、男はそこにいるだけでひとつの暴力だ。社会に出ればその割合は更に高まるだろう。女性が男性の暴力に怯えずに済む社会になれば、生産性も飛躍的に上がり消費も増えるに違いない。そして、それはきっと豊かで穏やかな社会でもあるだろう。 オレは別にフェミニストを気取る気はないが。 |
1.10 持ち株が4日で50%騰がった。元手が少ないので絶対的な利益はささやかなものだし、利益確定していないのだから、喜ぶにはまだ早い。 以前、持ち株が倍以上になったことがある。デビューしてしばらくのことだった。その頃は小説の方が忙しく、そのままほったらかしにしておいたら、じりじりと値を下げ、やがてすっかり元通りになってしまった。 近頃は小説もヒマになっし、相変わらず事業は倒産の危機にあるから、再び株に手を出すようになった。去年の11月くらいからのことである。コツコツ儲けてドカンと損する。コツコツドカンを何度か繰り返した後、うんざりげんなりして再び放置。 自民党が圧勝してから、株価は世界の株式市場でNO1の高騰率だという。それを見越して投資できなかったオレはトレードに向いていないのだろう。 騰がった株はやがて下がるのか、日銀がばらまいた資金が株に向かい、再びバブルが起きるのか。オレは無責任にバブルに期待したい。 長嶋、王が現役だった頃、プロ野球で3ゲーム差を縮めるには、1ヵ月かかると言われていた。それが今では10ゲームだって、あっという間にひっくり返る。企業も同じで、数年前まで世界のトップを走っていた会社が、気が付くと倒産の危機を迎えていたりする。アップルなどはその逆の例だといえるだろう。 日経平均も僅か二ヵ月で20%も上昇した。良くも悪くも忙しい時代になったものだ。 |
1.9 高校の部活動で体罰があり、それが原因で高校生が自殺したという。 オレも中学のとき、半年間だけバスケットボール部に所属していた。団体主義。上下関係。体罰。実に嫌な環境だった。 スポーツがどれほど偉いか知らないが、あんなのもは、やりたいヤツが、やりたいときに、やりたいだけやればいいのだ。 それで、試合に負けるなら別にそれはそれでいいではないか。 チームがバラバラになってしまうというなら、それでいいではないか。 そうなったとき、試合に勝ちたいを思う部員が、自らの意思で練習に励み、チームが大切だと思う連中が、協調性を身につけたいと考え実行するべきであり、それが本来のあり方なのだ。 なのに、生徒を導くという美名の元に、頼まれた訳でもないのに、指導者と称する馬鹿な大人がしゃしゃり出てきては、体罰という名の恐怖で生徒の自由を縛り、まるで猿回しの猿のようにスポーツという芸をさせるのは、つまるところ、指導者という独裁者に成り上って、支配欲を満足させたいだけに過ぎず、その様は、まるで隣の国の将軍様そっくりだ。 人間の欲望の中で、支配欲はかなり強いものだ。そして、多くの教師や指導者が支配欲に支配されているように思えてならない。 彼等はたいした理由もなく生徒を縛る。団体生活をする上で必要だからと規則と罰則を作り、時に体罰で生徒の自由を拘束する。実際に手を上げなくても、権力を誇示し、威圧的な態度や言葉を使い、生徒を委縮させ自らの思うように動かす。 高校に入学したとき、ある教師がいった。人間には義務と権利があるのだと。しかし、オレの知る限り、生徒にあるのは義務だけで権利など、どこにもなかった。 野球をやりたい生徒に対して、彼らは簡単に野球をやらせないようにする。やり方は簡単だ。まず、バットとボールに触らせない。次にレギュラーにしない。試合に出さない。 野球をやりたい生徒に、野球をさせてやるのが指導者というものだろう。なのに、彼らは試合に出さないぞ、レギュラーから外すぞ、と脅しをかける。そうすることによって、部員を従わせ、自らの支配欲を満足させようとしているのだ。少なくとも、オレの目にはそう映る。 元サッカー選手のセルジオ越後氏がいっていた。ブラジルに補欠はないのだと。チームができる人数がいれば何チームでも作って、試合に出すのだと。試合に出ずに、どうしてサッカーが上手くなるのかと。 高校野球でも同じことだ。90人の部員がいるなら、10のチームを作り、彼ら全てに背番号を与えるべきなのだ。高校の代表として甲子園大会の予選に出場したいなら、まず、その10チームの総当たり戦を行い、勝ったチームが出ればいい。 ついでに、言っておくが、甲子園に出場するからといって、寄付を集め、応援団を募るという傲慢さには心底辟易する。 オレが高校生のとき、隣に野球部の四番バッターがいた。『甲子園に出たら応援に来いよ』オレはいった。『オレが自転車競技でインターハイに行ったら、応援に来てくれるのか』と。彼は黙った。 それにしても、中学高校のスポーツの指導者というのは、どうして、あのようにスポーツをつまらなくしたがるのだろうか。楽しく野球を、楽しくサッカーを、楽しくバスケットボールをさせようとしないのか。彼等はどうすれば、野球が、サッカーが、バスケがつまらなくなるか。日々そのことに腐心しているように見て仕方がない。 楽しいだけでは勝てないという理屈を、安易に押し付けるべきではない。努力とは、それが楽しいからする。そこに充実感を覚えるからする。勝利を欲求するから自らに課す。それが本来のあり方なのだ。教員も指導者も胸に手を当ててよく考えるがいい。自らの支配欲を満たすために、彼らを猿回しの猿にしていないかと。 まず、バスケットボールをやりたい生徒には、バスケットボールをやらせてやる。それが大人の責任だ。 しこうして後、試合に勝ちたいと思う生徒には、試合に勝てるようなメニューを組み、楽しくできればそれでいいという生徒には、それに沿ったメニューを組む。それが指導者の役割なのだ。 口で言うほど簡単でないことは知っている。下手に出ればつけあがり、始末に負えなくなることも想像が付く。しかし、だからといって、彼らを支配しようとするべきではない。 誰かに支配された者は、やがて誰かを支配しようとするのである。 |
1.8 廃校になった近所の小学校を、解放しているというので行ってみた。日曜日だというのに誰もいない。雰囲気はいいけど、田舎のひとは田舎を嫌うからなあ。 |
1.7 筑植フォトコンテストの会場に行った。 思ったより立派な展示で、驚いてしまった。 153作の応募で、入賞4作。入選21作。 最優秀植物園賞(風景部門)は13歳の少年だった。父親がカメラ好きなのだろうか。 オレの作品は左から三番目。 来週は授賞式だ。ちと恥ずかしいけど、行ってくることにしよう。 |
1.6 怖い話も、泣ける話も正直いって苦手だ。 オレの得意なのは、とぼけた話。 化身もとぼけた話といえば、とぼけた話だった。 話だけでなく、とぼけた人物も大好きだ。 一応の最新作、鯨塚などは、話も人物もみんなとぼけていた。 だが、このとぼけた味がなかなか評価されない。 どう解釈していいのか分からないらしい。 怖いとか、悲しいとか、爽快とか、そんな分かりやすさがウケるのだろう。 オレの冗談は分かり難いとよく言われる。冗談だと思って聞いていると本気だと言われ、本気だと思えば冗談だと笑われるのだという。 なに、迷うほどのことではない。オレは本気で冗談を言っているのだ。 |
1.5 庭木にミカンを刺しておいたらヒヨドリが来た。 ブラインド越しの撮影なので写りがシャープでないのが残念。 |
1.4 行き詰った。 少し本を読んだ方がいいのは分かっている。 だが、傲慢で嫉妬深いオレは、まともに活字を読むことがきない。ヘタなら馬鹿にして本を閉じ、上手ければ悔しくて途中で投げ出してしまうのだ。 謙虚でありたいと思う。 傲慢が悪い訳ではない。いや、むしろ傲慢なくらいで丁度いい。ただし、土台に謙虚のない傲慢はただ愚かなだけだ。 注意するべきは傲慢の土台に謙虚の館を建てることだ。安っぽいプライドのベランダに立ち、謙虚と卑下の区別をすることもなく、どうでも良い借り物の言葉を得意顔で発することだ。そういう連中は意外に多い。オレは彼らを見るにつけ、ひどく辟易させられる。もちろんオレがそうでないという確証はない。だから、彼らを見るとき、オレは平静を装いつつも、内心穏やかでない。 ささやかな成功にも気を付けたいものだ。たとえば、ホラー小説大賞を受賞したとか、ナントカ賞の予選を通ったとか、知り合いに作品を褒められたとか、有名大学を卒業したとか、その手のことだ。成功体験は自らをそこに導いた高いプライドを下げ、謙虚の土台を傲慢の土台へとすり替える。謙虚の微笑みを卑下の愛想笑いへと変える。 高いプライドは、根底に謙虚の心を持つ。 そして、謙虚とは、過去の実績にも、他人の評価にも囚われない自由の心に根差している。断じて処世術などではないのだ。 |
1.3 一般参賀に行った。 断っておくが、オレは右翼ではない。 かといって、左翼でもない。 資本主義のブタに、そういう大層な思想はないのだ。 |
1.2 キツツキの中で最も小さなコゲラ。 デジイチを買い、初めて公園に出掛けたとき、最初に現れたのがコゲラだった。それほど珍しい鳥ではないというのに、以来、どうにもシャッターチャンスがなかった。 昨日のことだ。カワセミの溜池に隣接する雑木林でのこと。ギーギーという鳴き声に混じって、木をつつく音がする。見上げるとコゲラがいた。 オレはこの鳥が好きだ。 |
1.1 お世辞にも、きれいとは言えない近所の溜池。 まさか、カワセミがいるとは思わなかった。 |