2.28 今日で2月も終わり。一作どころか、一文字も書けなかった。というか書かなかった。 10月から月一作ずつ短編を書いてきた。ノルマという訳ではないが、そのくらい書ける。書けなきゃしょうがない。書くのだ!と思ったのだ。なのに・・・ ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。 実家で裸婦像を撮りながら考えた。どうせなら生身の女の子がいい。 いつものことか。いいから小説書こうぜ。オレ。 |
2.27 トリはオスがメスに食べ物をプレゼントするという。インコでは『吐き戻し』という行為が知られている。好きな相手(それが人間であっても)に、半消化された食べ物を、げーっと、プレゼントするのである。いくらなんでも、これはちょっと遠慮したいが、写真のオオハシが、メスに木の実をプレゼントする場面をテレビで見たことがあって、これは実に微笑ましかった。求愛の印としてそのような行為をする動物をオレは知らない。可愛いと同時に、変わった生き物だと思う。 近頃トリをトリに行かれない。オレにも忙しいときはあるのだ。ははは。 |
2.26 高校受験が間近に迫っている。希望校に入れるかどうか、人生の岐路に立つ15の春。この不況にあって、選択肢から私立高校を外さざるを得ない親も多いだろう。田舎では、親の協力なしに通えない高校もあり、更に選択肢は狭くなっている。 少子化の時代にあって、未だに昭和の受験戦争さながらに学力試験一発入試を続ける意味はあるのだろうか。最も手っ取り早い『平等』なのは分からないでもないし、この時期、無理矢理でも勉強する意義もそれなりにあるとは思う。 しかし、その結果、作り出せる人物といえば、せいぜい優秀な官僚くらいで、だから政治主導などといってもうまくいかないし、独創的な産業も生まれないのではないだろうか。 高校くらい行きたいところに行かせてやればいいのに、と思う。定員オーバーならプレハブでもいいから校舎を増設すれば済むことだし、少なくとも、まず希望を取って、振り分けが可能かどうかくらい検討できないものだろうか。 この時期になるといつも思うのだが、どうしてこう入試関係者は、若者を振り落すことばかり考えるのだろうか。そうでなく、ボーダーラインにいる、あるいは強い上昇志向を持つ若者をどうしたら拾い上げられるか、それを考えるのが大人の役目ではないのだろうか。おそらく選ぶ側の人間が、かつて選ばれた人間だったことと無縁ではないだろう。 つまり、学校で教えるのは競争だということだ。他人を蹴落として自分が這い上がる方法。いじめの根源。 写真は酒の神バッカス。(W:約20p、ブロンズ製) |
2.25 父親の作品集を作る準備をしようと横浜の実家に行った。作品集といっても、フィルムメーカーなどで作るフォトブックという形式である。 以前、彫刻家としての仕事を、自費出版という形でまとめようと何度か検討したのだが、実現するに至らなかった。それが、先日ふと、フォトブックなら一冊からできる。これならひとまず作ってもいいのではないか、と思いついたのである。 一冊だけなら費用も安い。少々の失敗もご愛嬌で済むし、幸い、手元には分不相応ともいえるカメラとレンズ、それにストロボもある。写真さえ撮っておけば、いずれきちんと出版することもできるし、そのとき、こんな形でベースを作っておけば作業も楽になると考えたのだ。 300コマほど撮影し、帰宅後見直した。結果不満ばかりの写真になってしまった。アマチュア以前の素人なのだから、まあこんなものだろうと思いつつ、ああ撮れば良かった、こう撮れば良かったばかりの夜だった。おまけに今朝は身体の節々が痛い。 それにしても、彫刻の写真は難しい。 |
2.23 人生の選択は、何かを始めるより、止める方が、より大きな意味を持つ。始めるのは過去の固定であり、止めるのは未来への解放だからだ。 たとえば結婚は限定された幸福だが、離婚は無限の幸福に続いている。会社の場合も同じで、その先により多くの選択肢と、より広い未来が待っていのは、入社でなく退社のほうである。もちろん広い未来が幸福だとは限らないのだが。 When I let go of what I am, I become what I might be(老子) 固執しなければ得られない。しかし、固執を捨てなければ本当に欲しい物は手に入らないだろう。 |
2.22 世界にはまだまだ貧しい地域があって、そこでは食べるものもなく、満足な医療を受けることもできずに死んでいく子供がいるという。 彼らの苦しみはオレの想像を超えているだろう。 しかし、彼らには彼らの苦しみがあるように、我々には我々の苦しみがある。 食べ物がふんだんにあって、最先端の医療があって、なのにその恩恵を受けることなく亡くなっていく人たちがいる。 食べ物がなくて飢える苦しみがあるなら、食べ物があってもそれが買えない苦しみもまた存在する。 オレが貧しい国の子供と親の苦しみを真に理解できないように、彼らもまた、金のために生きることを断念せざるを得ない苦しみを理解することはできないだろう。それは良いとか悪いとかいうことではない。比較したり相殺したりできる種類のものではないということだ。 だからオレは、『食べ物も食べられない人たちがいるのだ』という類の、感傷的かつ、道徳的な説教が好きになれない。 |
2.21 早春と初秋の数日間だけ、パソコンモニタに陽が当たる。朝八時過ぎ、僅か数分のことである。オレは毎年、この光でひとつの季節が過ぎ去ったことを知る。そして、巡り来る次の季節も、しぶとく生き延びてやろうと思うのだ。 |
2.20 ズバリ!オレ様はハゲている。 おでこもそうだが、頭頂部がハンパねえ。 宮ノ川・ザビエル・顕と名乗ってもいいくらいだ。 昨夜、上から写真を撮ってみた。 半年ほど前からカロヤンを付けている。 もしかしたら生え始めているかもしれないと思ったのである。 だが、どうも様子がはっきりしない。 なにしろ初めて画像で見る自分の頭なのだ。 そこで定期的に写真を撮り、経過を観察することにした。 パソコンのデスクトップに保存用のフォルダーを作った。 『ハゲ用』と名前を付けたら悲しくなった。 |
2.19 目の前のことに、集中できない。 買った株が暴騰しないか、そんなことばかり考えている。 困ったものだ。 |
2.18 賞状三枚。感謝状二枚。色紙三枚。全てこの十年の間に貰ったものだ。それ以前には表彰されたことも感謝されたこともない。つまり、ウン十年掛けて仕込んだ成果という訳だ。これで終わりなら、オレの人生あまりにショボい。 ついでに、配電盤の周囲というのがかなりダサい。 うんざりしている月曜日。 |
2.17 今朝は寒かったー! もう、水道なんてバリンバリン。 ハンパねえぜ。 で、バレンタインデー。 オレ様もチョコレート貰ったぜ! フッフッフッフッフ。 ハーッハッハッハ! ざまあみやがれ! |
2.16 今日は寒い。 小学校時代の親友から手紙が届いた。思い出のあの場所で会いたいと書いてある。私は三十年ぶりに故郷の町へと向かった。 という小説を構想中。書けるかな? |
2.15 昨日高値掴みした株。今朝の気配は高値寄り。よし!今日は寄り天と見切って、朝一番でしっかり利確したはずが、押したボタンが売りではなく買い。気が付いた時は株価暴落。ありえねえ。 売るに売れない二月の雨かな。 |
2.14 光文社から、光文三賞の贈呈式&パーティの招待状が送られてきた。とはいえ、このテイタラク。そんな所に提げて行くツラなどどこにもなく、今日にも欠席の返信を出すつもりだ。 小説誌が毎月二冊ほど届く。これが辛い。ポストを開けて、その分厚い封筒を見ただけで、あー、という気持ちになる。そして、不要だからと断りたくなる。これらが届かなくなったら、いよいよオレも見限られた証拠だと思うと、たまらなくなるのだ。つまり、振られる前に振る作戦である。 馬鹿馬鹿しい・・・ |
2.13 阿佐田哲也氏の短編集『牌の魔術師』から『天和の職人』を読む。 天和とはテンホウと読む麻雀の役満である。配牌が終わった時点で上がりという、ゴルフで言うところのホールインワンなのだが、ゴルフのそれよりずっと難しいと思われる。 三十枚に満たない短い作品である。面白かったというのが偽らざる感想だ。先日某小説誌に同じく麻雀に題を取った氏の短い作品が掲載されていた。ひどくつまらない作品だったが、筆の運びにキレがあり、まさかこの程度の作家とも思えず、文庫本を求めたのだ。 井上ひさし、五木寛之、団鬼六、野坂昭如などなど、(敬称略)1930年前後生まれの男性作家には親しみを感じる。オレが芥川や太宰を読んで、小説家を目指した頃に、文壇の中堅として活躍していたからだ。 年寄りぶるつもりはないが、オレは自分が作家を目指して以来、他人の小説を読むのを止めたのもで、だから未だにオレの中ではムラカミナントカあたりは、ポッと出の新人であり、その更に年下の、今、中堅と呼ばれている作家達などは、ナンダソレ状態なのである。 文章には時代の匂いがある。阿佐田哲也氏の作品は初読だけれども、身体にすっと馴染むのは、その時代の作家と同じ空気を吸っていたためだろう。去年だったか、松本清張氏の作品を初めて読んだときにも、その文章に芥川や太宰を感じたものだった。 さて、冒頭に挙げた作品だが、あと半ひねり、あるいは、半歩深く踏み込んでいれば・・・。いや、正しくもあり、正しくもなしだろう。 感心したのは比喩。 『どろどろに酔った、長靴から河馬(カバ)が首を出したような中年男』。 実に見事だ。オレは比喩が苦手だから心の底から羨ましくなった。 |
2.12 先日、島根県のどこだかにダビデ像のコピーを置いたら、町民からパンツを履かせてくれと要望があったという。正直、町民の気持ちも分からなくもない。去年、近くで毎年行われる大きな祭礼の見物をしていたとき、市民会館前に設置された裸婦像の胸を、隙を見て撫で繰り回しているアホガキがいたことを思い出す。 日本の田舎町に西洋美術は似合わない。つまりそういうことなのだ。根本にあるのは、安易というか無知というか無配慮というかイナカモノというか、要するにトイレの芳香剤にミロのビーナスを使ったりする無神経。美術に対する敬意が足りないのである。ダビデを設置したいのであれば、ミケランジェロが生きていたとして、彼が納得するだけの場所を選ぶべきなのだ。美術と建築は一体だということを知らないのだろうか。いや、それ以前に、世界に名だたる美の女神と、便所の神様を同列に扱うべきではないということなのである。 ところで、女好きを自認するオレだけれども、フィギュアスケートはどうも好きになれない。どういう風に見ればいいのか良く分からないのだ。技術を見るのであれば、チャラい服や音楽は不要だと思うし、芸術の一種だというなら、演技中に小さな声でナントカアクセル!とか言うのは明らかにヘンだろう。バレエでいえば、白鳥の湖を踊っているの最中に、解説者がごちゃごちゃ言うようなものだ。 だいたい、見ていて恥ずかしくなってしまうのだ。近頃、足を前向きに高く上げるのが流行っているけれど、中年オヤジにとって、あれは、正視したくもあり、正視できなくもありで、目のやり場に困ってしまう。 とまあ、真央ちゃんのこの写真を見て、朝からエロエロ、いやイロイロ思った次第。君、スケベオヤジの考え過ぎだと言うなかれ。 http://mainichi.jp/graph/2013/02/08/20130208org00m050017000c/108.html 写真はエナガ君。ピントは合っているのに、どうしてもぼんやりした顔に写るのは、もともとそんな顔なのだろう。見る度、マンガの山口六平太そっくりに見えて仕方がない。 http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/kushiro/oshirase/18411200610100/02_dvd_02.html |
2.11 某スポーツウェアーメーカーのブランドマークは、オレがその会社にいたときにデザインしたものだ。小さなメーカーだけれども、その世界では有名で、オリンピックや世界選手権、あるいはそれに比肩する大きな大会で、そのメーカーのウェアーを着た選手が表彰台の真ん中に立つことも珍しくない。もちろんウェアーの胸にはオレのデザインしたマークがある。 とはいえ、そんな光景がうれしかったのも最初のうちだけで、かれこれ四半世紀も経つうちに、近頃ではそんなマークをデザインしたことすら忘れていたくらいだった。 そのブランドマークが変更になると聞いたのは去年の暮れのことだった。これにはちょっと驚いた。世界に浸透したマークである。会社が倒産でもしない限り変更になることはないだろうと思っていたのだ。時代は変わるものだ。 今年になって新しいマークを見た。正直ほっとした。やはり誰が見たってオレのマークが基本になっていることは明らかだからだ。もともと、オレがデザインしたときは、マークの一部が●だったのに、採用後菱形に変更された。その延長線にある程度の変更だといっていいだろう。 街を歩いていて、よくこのマークを見かけるし、本屋に入ればオレの本が置いてある。ささやかではあっても、社会に自分の足跡を見ることができるのは、幸せなことである。 辛いことばかりの毎日だけれども、オレはほんの少しだけ運がいいのかもしれない。 |
2.8 なーんも浮かばねえ。才能ねーなー。 |
2.7 職種という観点から仕事を考えるとき、オレはいつも以下の四つの区分を設定している。 1、命に関わる仕事。 その仕事で、最悪のミスをした場合、誰かが死亡する仕事。 2、命には関わらない仕事。 最悪のミスを犯しても誰も死んだりはしない仕事。 3、金のためにする仕事。 金を儲けることが前提にあって、そのための方策としての仕事。 4、仕事のための仕事。 まず、仕事があって、それをすることによって、結果金が入ってくる仕事。 1の代表は医師。ただ、この分類に含まれる職種は意外に多い。医療や介護の現場は全てそうだし、各種運転手、建築関係、飲食関係、教師もこれにあたる。最悪のミスを犯した場合、人の命に関わるので、取り返しがつかない仕事だといえる。 2の代表は小説家。これはもうその意味では気楽なもので、だから小説家がどれほど大変な職業であっても、誰も同情しないのである。他に銀行や事務職全般、また商店がこれにあたる。 3の代表は営業。いくらのモノを、いくらで、いくつ売るかが全てであり、つまり、稼いだ金額によって個人の優劣が付く仕事。シンプルなだけに、ある意味やりがいのある仕事でもあるだろう。他に多くの会社経営や、時給で働く場合もこれに含まれる。 4の代表は研究職。特に純粋数学とか天文学あたりだろうか。研究することが第一義であり、金のために働くのではない羨ましさがある反面、金持ちにはなり難い仕事だ。警察官なども治安維持のために存在するのが大前提という意味では同じである。芸術家ももちろんここに分類される。 医師、パイロットなど、1+4は、個人から尊敬を集めやすい仕事といえる。また、2+3は実業家に代表されるように、金儲けには向いているといえる。気楽なのは2+4。それだけにこれで生活するのは大変なのだ。やはり厳しいのは1+3だろう。介護の現場などはこれにあたるのだと思われる。 オレは2+4がいい。だから小説家を選んだといってもいいくらいだ。 異論もあるかもしれないが、主にオレ自身が何か考えるときの整理のために書いた記事ということで。 |
2.6 百舌鳥。 |
2.5 近頃、春という季節が少し好きになった。 これから先の人生で、訪れる春を数えるだけの年齢になりつつあるからだろう。 春は輪廻の象徴であり、だからこそ、死にもっとも近い季節なのかもしれない。 |
2.4 日曜日に一週間分の写真を撮って、それをアップしながら記事を書いている。だから、月曜日には最も気に入った写真をアップすることが多い。 で、今週のベストショットは、文句なくこの一枚。 |
2.3 先日賞を頂いた『筑植写真コンテスト』の入選作が、いつの間にか筑波実験植物園のサイトに掲載されていた。 http://www.geijutsu.tsukuba.ac.jp/~adp12_tbg/ 筑波大学が、授業の一環として、隣接する国立博物館筑波実験植物園の協力を得て開催したコンテストだという。学生さんが主体になって運営していたから、少々のんびりした部分もあったけど、植物園の職員の方や、教授のバックアップもあって、授賞式もなかなか良い雰囲気だった。 授賞式当日はあいにくの雪だった。受付の女子大生と話をしていると、『つくばに来て初めての雪です』といった。聞けば山形県から来た一年生だという。十八歳の女の子がひとり知らない土地に来て勉強するのは、寂しいときもあるだろう。窓の外、降りしきる雪を見つめる顔が印象的だった。 受賞者は四人だというので、きっとスピーチがあると思い、色々考えていったがそれもなく、ちょっと残念のような、ほっとしたような気分だった。オレの作品を選んでくれたという、美術の準教授から賞状を貰って、握手しようとしたら、気が付かれず、副賞の記念品を貰ってもう一度手を出したら、学生さんが笑っていた。学生さんにとって、賞状というのは押し戴くものなのだろう。でも、小なりといえ、表現者であるなら、作品を前に、授受が対等の立場でなければならないと思っている。そういえば、一昨年の角川の授賞式では、井上社長が手を差し出したのに、受賞者が気が付かずに苦笑いしていたっけ。 この写真は、シャッターを切って、モニタで確認した瞬間に、選ばれる手応えがあった。写真は素人のオレがいうのもどうかと思うが、構図、配色、コントラスト、題材、切り口、全てにおいて、満足できるレベルだった。 小説の賞を二度頂いたが、受賞するときは、胸の内が妙に静かになる。今回もそれと似たような感覚があった。小説でいえば、作品を存分に書き切ると、その作品と自分との間に夾雑物がなくなるのだ。賞とか、他者の評価が気にならなくなって、ただ、クリアな視界の中に作品が存在する。そういった感覚。 受賞が近くなると、口数が減るというが、そういうことなのだと思う。 |
2.2 霜柱と、ネコヤナギと、アオジ(鳥)。 昨日の朝は冷え込んだけれども、今朝は春を思わせる温かい雨。 カメラをモチーフに使った短編を構想中。二転三転、できれば四転くらいさせたいものだ。本来なら一点に集中するのが好きなのだけれど、今はどうしても売れるエンタメを書かなければならないのだ。 |
2.1 実業の仕事がなくて、おまけに小説のアイデアも湧かない。そんなときもあるさと、腹を括って新しい相棒EOS-7Dに、白レンズを装着して朝から近所の公園に行った。 さすが、APS-Cの最高峰機。オレ様の愛機KISS-X5がおもちゃに感じるほどだ。ただ、白レンズが予想以上に重い。これは慣れるまではちと辛そうだ。高価なレンズに緊張したこともあって、たった三十分の間に、肩がバンバンに凝ってしまった。 まずは撮る。しこうして後、設定やら、操作方法やら覚えるのがオレ流だとはいえ、測距エリアの設定方法くらい覚えてくれば良かった。おまけに、手ぶれ防止のスイッチをONにするのを忘れていたために、ずいぶん眠そうなエナガ君になってしまった。 次はもう少しマシな写真が撮れるだろう。 |