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2013年4月
4.30 不動産屋に行った。 オレが住む訳ではない。 ただ、少しでも良い生活をして貰いたいと思うのだ。 |
4.29 近所の溜池に写真を撮りに行った。カワセミがいるかもしれないと思ったのだ。池は浅いが、田舎の、農村の、更に奥まったところにあって、生い茂った樹木のために昼でもうす暗い。きっとオレの嫌いなアレがいるに違いないと、恐る恐る池の周囲を歩いてみる。水面と地面の境界は二十センチほどの崩れた土となっている。その水際の水面が揺れていた。鯉かカエルだろうと思って目を凝らした瞬間、泳ぎ出たのは小さな野ネズミだった。えっ、と思って更に良く見ると、土の中から細長い爬虫類の尻尾が出ていた。思った通り、いやがったという訳だ。奴は、ネズミの穴を発見したのだ。そして、中に潜った。ネズミは驚いて穴から飛び出した。そこにオレが通りかかったのである。ネズミはしばらく水際で躊躇していたようだ。例の爬虫類に食われたくはないが、かといって、この池にはブラックバスがいる。見つかればひと呑みにされるだろう。前門の虎、後門の狼。絶体絶命。四面楚歌。行くも地獄残るも地獄。それでも、座して死を待つよりマシだと思ったのだろう。勇気を奮って泳ぎ出したのである。数メートルほど進んだ彼は、大きく方向を変えるとやがて無事に岸に辿り着いた。 彼に家族はいたのだろうか。今になってそんなことが気に掛かる。 |
4.28 北関東の田舎町。田植えが始まった。 |
4.27 達成できない目標を掲げ、それが夢だ、などと言ってはならない。 達成できないと知りつつ、それを追う振りをするのは、人生からの逃避に過ぎないのはもちろんのこと、達成できなくても構わないという姿勢でそれを追うのも、単なる時間の浪費であり、心身の疲労を招くだけである。 達成不可能な目標を追いかける暇があったら、目の前に無限に横たわる些事でもこなした方が余程有益というものだ。叶わぬ夢を追うことなど、特攻と同じく愚の骨頂であり、それでも人生には夢が必要だ、などというのは、教師の戯言か、さもなくば、全てを手に入れた金持ちの暇つぶしに過ぎないと知るべきである。 夢のための夢を見るなら、それが夢のための夢だと知らなくてはならない。しかし、それが夢のための夢だと知る者は、夢のための夢など見ないだろう。 結果ではなく過程が大事という、まるで我が子の無能に気付き、それでもそれを認めたくない母親のごとき弁解にも気を付けなければならない。負け犬のロジックは負け犬のためにあるという当然のことを証明して何の意味がある。 才能とは、自分がその目標を達成できるかどうか、己が夢を叶えられる人間かどうか見抜ける無条件の感性をいう。本や学問に頼ることなく真実を認識する知性といってもいい。 それにしても、実際、分をわきまえない傲慢さほど、辟易させられるのもはない。 当たり前だが、事の大小には関係ない。 勝つことだ。どれほど無様であっても、目標を達成することだ。それ以外にこの道を進む術はない。 |
4.26 この、危機的状況を打開するためにウルトラCを遥かに超えたウルトラZ級の方策を実行に移そうとしている。 が・・・、やはり気持ちは揺らぐ。ウルトラDくらいにした方がいいのかもしれない。 が・・・、それでは問題先送り程度の効果しかない。 うーむ。 理性で考えても答えは出ない。頼れるのは己の直感のみだ。少なくとも、今まではそうしてきた。そして、それらはどんなに無謀だと言われようと、ことごとく的中した。 が・・・、今回はどうだ。 うーむ。 若きウェルテルの悩みならぬ、バカきハゲテルの悩みだな。 |
4.25 『宇宙戦艦ヤマト2199』 初回は無料だというので、視聴してみた。 なかなか面白いというのが、ひとつめの感想。 ふたつめに感じたのは郷愁。オレは別にヤマトのファンではないが、当時の放送にかなり近い形で作られている。また、それとは別に、三丁目の夕日・戦争版とでもいうような、つまり昭和を連想させる郷愁が画面の所々にある。これは製作者側に意識、無意識の意図だと思う。 みっつめは右傾化。最後に挙げただけあって、見終わったときには、ちょっとした違和感程度だったのだが、今はこれが一番気にかかっている。 以下、ネタバレするから、黒字で書くのでドラッグして読んください。 主人公の兄であり、戦艦の艦長である古代守は、冥王星沖海戦(会戦?)において、旗艦を守るため、特攻のような形で敵陣に突っ込み戦死する。その際、彼、及び彼の部下は、歌を唄いながら敵陣へと突撃する。昭和のヤマトがどうだったか正確には知らないが、悲壮感と使命感を前面に押し出していたと思う。 オレはこのことに、戦争の記憶が遠のいた印象を受けた。戦争モノなのだから、戦闘や戦死を美化することもあるだろう。それはいい。ただ、古代守がひとりで突っ込むのではなく、画面に登場する乗組員全員が、死を恐れず歌を唄いながら特攻を仕掛けるところに、右傾化の臭いを感じるのだ。ひとりで宇宙船を操縦し、かつ戦闘することは不可能だろう。かつて、ヤマトにはそういう場面があったと思う。製作者はそのあたりのリアリズムを考たのだと思う。だが、しかし、何人もの若者が国のために歌いながら・・・なのである。オレはそういう年代ではないが、爆弾三勇士などというのを思い出してしまうのだ。 それでも、初回を見る限り、よく出来ていると思う。表現は進歩した。巨人の星や、あしたのジョーといった古いアニメたまに見ることがあるが、とても鑑賞に堪えられないものがほとんどだ。ナルトとか、黒子のバスケなど、オレは普段バカにしているが、なかなかどうして、よく出来ているし、面白いというのが実際である。 |
4.24 ハルジオン 貧しさゆえに 疎まれて 貧しさゆえに 愛されもする |
4.23 色々なことが目まぐるしく変わっていく。崩れていくといった方がいいかもしれない。 |
4.22 つちうら古書倶楽部に行く。古書の常設店としては関東最大級だという。流行りの新古書店と違って格調がある。一通り見て回るだけでも二時間ほどかかった。オレの本はなかった。うれしいやら悲しいやら。 四冊購入した。『石岡市の昔ばなし』(ふるさと文庫刊)。雑誌・太陽『第十六回太陽賞発表号』。毎日グラフ『追憶・井上靖』。芸術新潮『責め絵師・伊藤晴雨』。 太陽は同賞第一回受賞の荒木経惟氏のそれが欲しかったのだけれどもあるはずもない。 いつもは閑散としている土浦市街なのに、当日はかすみがうらマラソンの開催日で、妙に混雑していた。霧雨は止まないし、カメラを構えることもなかった。どうもついてない。まあ、普段の行いが悪いのだろう。 |
4.21 あのひとは どうしているかと かんがえる 雨の日曜 やまぶきの花 |
4.20 開業以来、ずっとピンチが続いている。要因は色々あるが、いつだって倒産破産と隣合わせだったことに変わりない。 もうダメかもしれないと思ったことが三度ある。一度目は廃業覚悟の単価交渉で救われた。二度目はネット販売だった。通算ウン千万円を売り上げた。しかし、今は見る影もない。三度目はホラ大受賞。もっとも、これを機に執筆活動に力を入れたため、かえって赤字を増大させた印象も拭えない。 そして今、四度目の危機を迎えている。秘策はある。オレは勝つ! |
4.19 今日は19日、明日は20日。実業の締日や支払日が集中するので、毎月生きた心地がしない。なにしろ大卒の初任給ほどの赤字が出るのだ。それを借金という名のやりくりでしのぐ訳である。しかも、銀行には融資枠を半減させられたときたもんだ。 小説を書くには、才能や努力はもちろんのことだが、その前に、まず体力、次に精神の安定が求められる。小説というのは、いかに書くか、というより、どういう状況で筆を執るかが大事である。それは、作品を書く前段階のことであり、また毎日における執筆前の肉体及び精神の状況のことでもある。 夜は早く寝て、たっぷりと眠る。朝は必ず定時に起きる。脳が、普段のそれから、小説脳に切り替わるまでの二時間ほどを、儀式のように過ごし、笑いもせず、怒りもせず、もちろん泣きもせず、淡々と執筆に向かう。執筆時間はせいぜい半日。本当に集中できるのは2時間だろう。乗ってきたら筆を置く。書けなくても二時間は机の前に座っている。昼食後は読書がいい。それから二時間程度の運動をして、体力を付けると共に、脳の隅にこびりついた不要な言葉を捨てる。定刻に夕食を取り、風呂に入って、深酒は避け、定刻に眠る。 似たような生活を二年ほど送った。(午後は実業の仕事をみっちりしたが)残されたのは三冊の本と、借金の山。 それでも、考えるのは毎日毎日小説のこと。金策で頭がいっぱいでも小説のこと。実業の仕事で疲労困憊でも小説のこと。書けても書けなくても小説のこと。オレはもう、うんざりしてしまったよ。 |
4.18 『作家でごはん』というサイトがある。その中に鍛錬場というのがあって、作品を載せると、作家志望の面々が色々感想を付けてくれるというシステムとなっている。 実はオレもそこに4作ほど載せたことがある。 こう書くと、気に入っているように取られるるかもしれないが、サイトも、鍛錬場(何が鍛錬だよ)も実にくだらないと思っている。それでも、誰かと小説の話をするにはなかなか具合がいいので、出入りしていたのだ。 サイトのことはいずれ詳しく書くとして、その4作の中に、女子大生の人工中絶を扱った短い作品があった。もちろん、最高の出来だったと自負している。 望まない妊娠をした女子大生が、彼と共に、知らない街の小さな産院を訪れ、中絶手術を受ける一日を描いた作品である。手術を受けている間、彼は小さな公園で彼女の帰りを待っている。夕方になってようやく現れた彼女は憔悴しきっており、ベンチに座ると、声を出さずにぽろぽろと涙をこぼす、という内容だった。 たくさんの感想を貰った。ありがたいことである。 が、中に『そんな女はいない』という感想があった。まあこれはまだ我慢できたが、『知り合いが似たような経験をしたが、女の方がわめき散らして大騒ぎになるのが普通だ』とかいう類のご意見にはうんざりさせられた。このような感想を、二、三人、から頂戴したと思うが、全員(おそらく)若い女性の作家志望だったと記憶している。 『アホか』 オレの返事は基本的にそれで終わりだった。彼女たちは小説にいったい何を求めているのだろうか。彼女達の言葉からオレが感じたイメージは、テレビの三文ドラマである。陳腐極まりない男女の罵り合い。愛憎という名のありきたりな痴話喧嘩。そんなものを小説に仕立てる意味をオレはまったく感じない。 オレは、恋愛対象として、彼女達のような普通の女が好きだ。しかし、作家志望としてははなはだ頂けない。つまり、身の回りにある小さな出来事を絶対の基準とし、四次元に広がる世界を認知できないばかりか、そこに想いを馳せることすらできないのだ。それで作家志望とは聞いてあきれる。ついでに、オレの書く小説文と、自分の書いている作文未満のお粗末な文章の違いも分からないというから始末に悪い。 だが、オレは絶望しなかった。むしろ、オレは自分がそれなりの高みに位置していることを確認できたと思っていた。 しかし、近頃そのことが何を意味しているのかようやく分かってきた。 彼女達は『標準』なのである。読み手のど真ん中といってもいい。彼女達の前では、小説と三文ドラマの区別はなく、文章のレベルも関係ないのだ。 彼女達の身の回りで起きるチマチマしたどうでも良いことを、矛盾だらけで、ご都合主義なストーリーに取り込み、女子高生が話す言葉をそのまま原稿用紙にコピーしたような、オノマトペ満載の、薄っぺらで空疎な会話を書き連ね、更には盛大に喚いたり、泣いたりさせる。 それが、彼女達の共感を得、それが感動で、真実で、泣けて、笑えて満足で、ああ、面白かった! なのだ。 誰も高みなど求めていないのだ。高みの何たるかも知らないのだ。抑制も格調も、想像も創造もカンケーないのだ。そして、それが作家志望を名乗って憚らない連中なのだ。オレが売れない訳なのだ。 アホくさ。 |
4.17 知り合いの小説家が電話をくれた。オレのことを心配してくれたのだ。 『友達は必要ですよ』 氏は言った。 『そうかもしれませんね』 孤独のうちに頑張っている氏の言葉でなければ、オレは別のことを言ったかもしれない。 |
4.16 オレにないのは金だけだと思っていたが、どうやら体力もないようだ。もちろん知力もなければ、学力もない。ついでに肝心の才能もなさそうだ。 ・・・なんだ、結局何もないじゃないか。 |
4.15 知り合いの画家、近藤宗臣氏が『掌(たなごころ)の幻妖〜幻めく物語と妖しき絵画の交わる場所』と題し、東京と大阪で個展を開催するという。 また、同展に合わせて小説とコラボした作品集が出版される。オレも掌編小説を二編寄稿した。一遍は、画家の絵に合わせて書き下ろしたものだが、もう一遍は、オレが先に小説を書き、画家が絵を付けている。 『掌(たなごころ)の幻妖』 《怪》、《恐》、《幽》の3冊(A5判 36ページ 各・限定200部 1.000円) 興味のある方は是非! なお、近藤氏は全会期中在廊予定だという。 オレも訪問したいと思っているので、時間が合えば、近藤氏のサインと、オレのサイン・・・は、いらねえか。(*_*) |
4.14 怒ってばかりだな。これじゃあ、誰も寄り付かねえ。もっと穏やかになりたいものだ。 |
4.13 『おとうとの木』を上梓したとき、早川書房から取材を受けた。 『最近読んだ本で、印象に残ったものを教えてください』 思わず考え込んでしまったオレに、編集者はいった。 『ご無理なさらないでくださいね。皆さんそうですから』 それでも、ようやく深沢七郎氏の『楢山節考』を挙げたオレに編集者は続けた。 『ご自分の作品が忙しくて、なかなか他の作品を読めないんですよね』 蛇足だが、忙しいとは時間的なことばかりではないだろう。 あちら側の人間と、こちら側の人間。先日届いた小説誌で、夢枕獏氏が書いていた言葉である。 野球でいえば、見るだけで楽しめる者と、やらずにいられない者。更に草野球で満足できる者と、そうでない者。ベンチに入る者と、そうでない者。フィールドに立つものと、そうでない者。 彼らの間にはいつだって一線がある。軽々と飛び越える者もいるが、多くは、線であるはずの境界を、大河のように広く感じているだろう。オレもそうだったし、今もそうだ。それほどに、線のこちらとあちらには隔たりがある。線が線にしか見えない者がいたとすれは、それは百年にひとりの才人か、口では色々言っても、一線を越えることを、心の底からは望んでいない者である。 一線を越える人間とは、自分が成すべきことを持ち、それに集中する人間だ。球場にいるほぼ全ての者は、基本的に同じ景色を見ている。しかし、観客席から見るホームベースと、マウンドに立って見るそれは、まったく意味が違う。マウンドに立った彼がするべきことは、最高のピッチングをして、相手打線を抑えることである。相手ピッチャーの投球を、観客と同じように楽しめるはずがない。もし、楽しめるというなら、マウンドに立っているのではなく、客席にいる可能性が高い。自分の周囲を、もう一度見直した方がいい。 文学賞を受賞する作品を書こうとして、あるいは、売れる本を書こうとして、そのとき、そのイメージすら持っていないというなら、彼は一生かかっても一線を越えられないだろう。マウンドに上がってから、相手ピッチャーを見て勉強します、などと言っているようでは話にならない。 イメージはいつもある。だからそれを求める。ただ、思うようにならない。また強く求めれば求めるほど、その現象は加速する。だから、もどかしく、悩ましく、かつ辛いのだ。 |
4.12 毎年、五月の連休までは寒い日も多いが、今年はいつにまして冷えるような気がする。 たとえば、締めたままのブラインドウが良くないのかもしれないとか、隣家が運気の流れを遮っているのではないかとか、そもそも、この土地に住み着いたのが間違いだったのではないかとか、風水に関係する要素について思うことがある。 別に風水を信じている訳ではない。ただ、オレだって何かに頼りたいときもあるのだ。 なるようになるのか、するようになるのか、問題はそこにある。 |
4.11 インコのケージの横に、使っていないプラスチック製のゴミ箱がある。今朝、何気なく覗くと、中でネズミが死んでいた。オレの親指ほどの大きさだから、カヤネズミだろうか。隣には床まで届くカーテンが吊ってあるので、それを伝っているうちに落ちたのだろう。早く見付けてやれば良かった。気の毒なことをした。 |
4.10 リーマン予想にはまってしまった。正確に言うと素数の列を文字列に変換し、それを小説に仕立てようと考えたのだ。 日本語で書く小説の道具は既存の日本語しかない。絵画のように、かつてなかった絵の具を使うことによって、差別化を図るというような技法は通用しない。 小説を書くのが、ひどくまどろっこしいことのひとつに、道具が限定されていることがあると、井上ひさし氏は看破したが、その通りだと思う。 新しい言語を使えば、間違いなく新しい小説は生まれる。しかし、新しい言語は、誰もそれを読むことができないだろう。 そこで、素数である。素数、あるいはその下一桁、1、3、7、9を、二進法に当てはめ、1と0に変換する。それをコンピューターに読ませて、文字列を抽出しようとしたのだ。 しかし、残念ながらオレにはC言語の知識も、JAVAの心得もない。一文でもいいから、素数から文章を引き出し、『ダ・ヴィンチコード』ならぬ、『素数コード』を書こうとした試みはあえなく挫折した。 新しい道具、新しい材料で新しい表現をする。 言語という古い道具。単語という古い材料に頼らざるを得ないオレにとって、それは実に魅力的だ。しかし、新しい試みは、いつも逃避と背中合わせなのである。 |
4.9 オレのことは、オレ自身が解決するしかない。 当たり前のことだ。 |
4.8 ネットから距離を置いて十日ほどになる。 その間、履歴を遡って、知人のブログとツイッターを数度見た。それと古巣の掲示板をたまにチェックし、小説とは関係ないブログをいくつか読んでいる。 新聞を読まずに捨てる回数が減った。良いことと言えばそのくらいだろうか。とはいえ、そんなものは、ネットの問題とは限らない。 小説はまだ書けない。 直感と衝動。 小説を書く理由は、このふたつが基本だと思っている。 何のためとか、誰のためという、相対的な理由もないことはないが、筆を執るための最も初期にある原動力は、自らの内にある、絶対的理由以外には考えられない。 まずは、書きたいという直感と衝動があって、次に、何のためにとか、誰のためにという、二次的理由があるのだ。 売れるか、賞を獲るか。 大沢在昌氏は、書き続けるためのモチベーションは、結局このふたつしかないのだと、小説誌で語っていた。いわば、これが三次的理由である。オレもその意見に賛成だ。 今のオレには、直感も衝動もない。売れないし、本を出していないのだから賞も獲れない。 かつては、自分を証明するために書いていた。それも、ふたつの文学賞を獲り、本も出したのだから、ひとまずその目的は達せられたといっていいだろう。 書く理由が見当たらない。あえていうなら金のためだが、金を稼ぐなら、むしろ小説以外のモノに手を出した方が効率的だ。 書くための誰かもいない。両親を満足させるためというのもないことはないが、文学を続ける理由としてはあまりにみみっちいし、第一色気がなくていけない。 欲しいのは第一読者だ。しかし、残念ながら試みは失敗している。だいたい、それが有効かどうかも分からない。 それでも、少しずつ心を落ち着けて、遠からずまた書かなくてはならない。才能はないし、努力も嫌いだが、まだ結果が出ていない以上、もうちょっと頑張るしかないだろう。 |
4.6 昨日紹介した介護士さんのブログを見ていた。 たくさんのリンクが並んでいる中に、大工さんのものがあった。開いてみると、『はじめまして、妻です。』という文章から始まる記事がトップにある。 何だろうと読み進めると、ブログ主である夫が、悪性黒色腫で先日亡くなったという。管理ページがそのままになっていたので、ブログの読者に、そのことをお伝えするというのだった。 かつていた掲示板で、オレも同じようなことをした。妻を騙って、自分の死亡報告を書いたのだ。エイプリルフールのことである。 今日は四月六日。週一回の更新なら、まず間違いなくそうだろう。似たようなことをする人がいるものだと思った。しかし、記事に偽りはなかった。 考えてみれば、リンク元のブログ主も同じ病気なのだから、こういうことがあっても不思議ではない。大工さんの年享年は41。妻と二人の小さな娘がいるそうだ。 オレはちょっとショックを受けた。若くして亡くなり、さぞ無念だっただろうとか、恐ろしかっただろうとか、残された者は辛いだろうとか、そういうことももちろんある。しかし、それだけなら単なる感傷で済ませるだろうし、気の毒だがそれで良いと思う。 オレは間違えているのかもしれない。 見知らぬ大工さんの死に接して、オレはそう思った。 これは実はよくあることだが、今日もまた実感としてそう思ったのだ。 自分の嘘には気づいている。サヨナラだけが人生だという事実を、その通りに知っていないことくらい、オレには分かっている。 だから、オレが今癌になったら、きっと取り乱すことだろう。恨みつらみを、くだくだしく、女々しく述べることだろう。 正しいことなどないという、当然の前提は前提として、それでも間違えているかもしれないという恐怖。 オレが感じたのはそういうことだ。 昨日の夕方、写真を撮りに出掛けた。 近所にあった保育所が取り壊されたのは去年の夏のことだった。それまで建物の陰に隠れていた桜が、今年は良く見える。山並みを背景に、満開の桜を撮影しようと、随分前から楽しみにしていたのだ。 しかし、いよいよ咲く頃になって、ひどく寒くなったためか、そういうめぐり合わせなのか、五分ほど咲いたところで、葉桜になってしまった。 後、何回桜を見られるかしら。 去年だったか、遠く横浜に住む年老いた母がいった。 この歳になると、そんなことが実感として思えるのだという。 今年、保育所の桜は満開にならなかった。 夕日を浴びて黒々と枝を伸ばす桜。そこに、オレの間違いがあるように思えてならない。 とはいえ、満開の花に正解がある訳でもないだろう。 |
4.5 この一ヵ月くらい、どうもよく眠れない。原因の一番は金銭的不安だろう。銀行から融資枠の半減を言われて更にひどくなったような気がする。昨夜、勇気を持って頭頂部を撮影したら、無毛部分がある。どうやら円形脱毛症に罹っているらしい。原因は同じに違いない。 北大東島にでも移住したくて、ネットを調べていたら、似たような人がいた。オレより少し年上で、会社が倒産、何度も転職を繰り返した末、奄美大島に移住したという。島での生活は快適だったというが、閉鎖的な社会に奥さんの精神が持たず鬱病を発症。結局、故郷に戻り、年老いた両親の面倒を見ながら、慣れない介護士の仕事に就くのだが、今度は本人が癌を発症。それでも、介護の仕事を天職として頑張っているそうだ。ブログにはオレのような愚痴はほとんど見当たらない。 オレにはオレの悩みがあり、苦労があるから、一概に誰かと比べることはできないけれど、たぶん、オレはまだまだ頑張れる余地があるのだろう NHKラジオで、ポップス列伝というのをやっていて、聞いていると、どのバンドもロッカーも売れない時期を経験しているようだ。もっとも、売れないままに消えて行った者の記録は残らないから、結果、売れない時期を経験して、誰もがトップアーティストに昇り詰めるという図式になる訳で、問題は、オレがそのどちらに属するのかということであり、そして比率から言えば断然消えていく可能性が高いということだ。 やっぱ、南の島に移住したくなったぜ。 |
4.4 臆病過ぎれば始まらない。大胆過ぎれば終わってしまう。とかく男女は難しい。 サヨナラという言葉に意味はない。そんなことを口にしなくても、所詮サヨナラだけが人生なのだ。 知り合いにはそうアドバイスした。 桜は散るから美しい。小説は終わるから感動する。それは事実だ。しかし、真実ではない。真実という言葉は美しくても、眼前に横たわるそれは、終わらない男女に似て意外に無様だ。 |
4.3 ツイッターと、フェイスブックのアカウントを削除した。最近になってオレを知った人は驚いたかもしれない。毎日記事を更新し、コメントがあれば返信していたのを、突然止めるのは一般的ではないらしい。それでも、古くからのオレの知り合いなら、またかと笑っているだろう。 初めて自分のサイトを開設したのは、もう十年近く前のことだ。当時はまだブログというのは一般的でなかったと記憶している。それで掲示板を設置して、知り合いと交流していたものだった。 あのサイトを止めたのはどんな理由だっただろうか。よく覚えていないが、とにかく突然うんざりしてしまったオレは、数日後にサイトを閉鎖した。その後も、サイトや掲示板を立ち上げては閉鎖することを何度繰り返しただろうか。 古くなるのがたまらなく嫌なのだ。毎日似たような記事を書くこと。似たような挨拶をすること。似たような関係が続くこと。つまり古くなること。過去が蓄積されること。 ある日突然、壊したくてたまらなくなる。もう、うんざりなんだよ!と叫ぶ。そして、実際に破壊する。友人は皆、何が起こったのか分からず驚くばかりだ。 破滅的な性格なのだといえばそれまでだが、オレに言わせれば『古くなる』というのは、つまり悪と同義だ。人生は日々新らしくなくてはならない。些細な事でもいい。必ず新しくなる。あるいは新しい方向に向かう。もちろん、古くなることで新しくなることもある。骨董品などがその代表だろう。反対に位置するのは100円均一で売っている雑貨だろうか。 新しさの追求こそ文学の本質だ。『新しい』を『刺激』と、呼び換えてもいい。文学を目指す者を自認するなら、過去の言葉にしがみついてはならない。それは、腐敗を、死を意味する。無理にでも新しい方向へと自分を導くことだ。そのためには常に破壊と再構築を繰り返す必要がある。否定と再定義が必須となる。 オレはオレの言葉が古くなるのがたまらなく嫌だ。しかし、刺激的な言葉は長くは続かない。だから定期的に壊す。捨てることで何かを得ようとする。それは特別な事でなく、オレにとっては日常だ。周囲の迷惑など省みるつもりはない。そのことで誰が傷ついても構わない。道徳に興味はない。新しさの前では全てが善なのだ。 原子力発電がなぜいけないのか。オレの答えは簡単だ。それは既に古いということだ。 |
4.2 また寝したら、寝坊した。その間夢を見た。芥川賞を獲った学生さんと、直木賞を獲った年下の会社員、他何人かの人達と、古い下宿で暮らしていた。賄の食事がおいしかった。 |
4.1 四月。死月にならないよう、せいぜい頑張ろう。 |