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2013年10月
10.31 ここ数日、心臓が痛い。 急にくたばるかもしれねえな。 なにしろ血液ドロドロ。 気持ちもドロドロ。 性根が腐っているからどうにもならねえ。 |
10.30 完全原稿しか読ませたことはない。正確にいうと、デビューまではそうだった。 とはいえ、デビュー後も似たようなものである。『おとうとの木』も『斬首刀』も『鯨塚』も、プロットもなく、打ち合わせもロクになく、書き上げてから編集に渡している。 『書き上げるまでは誰にも内容を喋ってはならない』 丸山健二氏の教えを頑なに守ってここまできた。 『これだけは何が何でも書き上げる。その気持が創作のエネルギーとなる』 井上ひさし氏の言葉に強く同意しながらやってきた。 とにかく『作品』を書き上げること。構想だの、プロットを得意気に喋ってどうなるものではない。それどころか、それをすれば創作のエネルギーが文字通り無為のうちに消費されてしまうのである。 しかし、行き詰った。 そこで、これから書く、あるいは書いている作品について、誰かに喋ってみた。意見を求めてみた。 けれど、うまくいかない。 そこで今度は、実際に書いている途中を公開するという暴挙に出た。 だが、結果は同じ。 それでも、成果はあった。 多くの仕事がそうであるように、小説もまた過程に意味はない。 『完成した作品を読んで貰う』 プロットや習作ではない。まして構想や着想でもない。 渾身の一作を書き上げて発表する。 短編だろうと長編だろうと、エッセイだろうと、更にいえば、こんなところに書くこんな文章だろうと、それは同じことだ。 創作とは毎回その繰り返しなのである。 しんどい訳だ。 |
10.29 学生の頃、自転車で随分旅行をしたものだった。 旅慣れるにしたがって、寝袋ひとつで一ヵ月近く各地を転々と回るようになったが、それまでは、もっぱらユースホステルに宿泊していた。 今朝のネット広告に航空会社の宣伝があった。『おかえりなさい。ただいま』というコピーを見てユースホステルのことを思い出した。今はどうか知らないが、当時、経営者だか管理人は、自らをペアレントと称していて、利用者は、たとえ初めて宿泊するホステルであっても、その受付で『ただいま』という慣行があった。ずいぶん嫌らしい挨拶をするものだと思っていたが、その思いは今も変わらない。 『流氷に会いに行く』という類の言い回しも嫌いだ。流氷は会う物ではなく見るものであり、『ただいま』は、もともとそこにいた者が帰宅した時に使う挨拶なのだ。言葉を妙な具合に捻じ曲げる。チマチマした仲間意識。馴れ合い。グラニュー糖のような口に残るイヤな甘ったるさ。もし流氷に人格があったら、さぞ苦々しい思いをしていることだろう。彼は人間に会いたいなど思っていないはずなのだ。 ついでにチョンマゲをしているヤツも嫌いだ。オレも含めて例外はあるが、総じて、自然大好き、芸術家気取り、目指せ自給自足。そんな輩が多いのである。オレは自然が好きだし、芸術家を目指しているし、自給自足は嫌いでも、循環型社会は必要であり先進だと思っている。 だが、決定的に何かが違う。たとえば、農家の土は社会と繋がっているのに対し、彼らの土は彼らのためにしかない。社会からの逃避。自己完結。自然保護を訴える集団も同じ臭いがする。安っぽい自己満足。あいだみつを。グラニュー糖。 |
10.28 日曜日の陸上競技場。大学生がラグビーの試合を行っていた。 |
10.25 明日『ツール・ド・フランスさいたま』が開催されるという。 オレがツール・ド・フランスの存在を知ったのは35年程前、エディ・メルクスが引退する直前のことだ。当時は自転車競技のことなど誰も知らず、話をしても競輪と間違えられるばかりだった。それが、隣県でその名を冠したクリテリウムが行われるようになるとは思わなかった。 ヨーロッパの三大スポーツは、サッカー、F-1、自転車競技だという。サッカーのワールドカップも開催されたし、F-1レースもある。そして、ついにツール・ド・フランスが来たという訳だ。 まあ、『来た』といってもなあ、という気持ちはあるし、第一、ツールは来るものじゃねえし・・・。 それでも、オレも僅かだが意外なところで関係しているし、ツール総合優勝の現役レーサーの走りを見られるのならと、明日観戦に行こうと思ったのだが、様々な障害があって断念した次第。 |
10.24 三階建の倉庫がある。まずは壁と筋交いを入れて耐震補強をしなければならない。その後居室に改装する。小説はきっぱりやめて大工にでもなるか。 |
10.23 携帯電話を持っていない。もちろんスマートフォンも同様だ。 誰かと待ち合わせをするのに不便だと思うことはある。 あるいは、外出先でクルマが故障したら困るだろうとか。不倫がし難いとか・・・。 とはいえ、待ち合わせで失敗したことはないし、クルマは故障しないし、残念ながら不倫相手もいない。 あれば便利だろう。 一方、あれば不自由だと思っている。 どこにいても電話がかかってくる窮屈さには耐えられそうもない。 行方不明にもなれないなんて、そんな状況、オレにはありえねえ。 電源を切っておくのはダメだ。「現在、行方不明中です」と、宣言しているようなものであって、それじゃあ、まるでガキの家出だ。だいたいそんなことをしてみろ。信用のないオレは何を疑われるか分かったもんじゃねえ。 「電話が掛かってこないと寂しいですよ」 携帯電話が普及し始めた頃のことだ。 年下の知人に使い心地を尋ねたときの返事である。 コイツはアホだと、オレはそのとき確信したものだ。 電話なんて欲しくねえ。 いつでも誰かと繋がっているなんて、うぜえだけだ。 もちろん可愛い女性は除いて、の話である。 |
10.22 オレは待つのが苦手だ。 することもなく、できることもなく、ただその日が来るのを待つ。 短気だからというより、小物なのだろう。 |
10.20 向かいに住む工事屋が、オレの家の前の広い空地を借りたという。 今は目の前に工事用のフェンスが立ち、中は作業場になっている。 おかげで眺望は遮られるし、朝からうるさいこと甚だしい。 すっかりイヤな土地になっちまった。 こうなる前に引っ越しを決意したのは、それでも不幸中の幸いだった。 |
10.19 もの言えば唇寒し秋の空 唇なんぞ、いくら寒くてもオレは平気だ。 なにしろ、懐に氷河期を抱えているからな。 その氷河を溶かすべく、来月引っ越しを敢行する。 家を買い替えるのだ。金はない。ウルトラZ級の無謀。 しかも、買い替えとは名ばかりで、今の家が売れる可能性は低い。 が・・・、このままでは自滅を待つばかりだ。 オレはアイスマンにはなりたくない。 北関東の田舎町。それは同じ。 ただ、今度はキンショー。つまり近隣商業地区。 シャッター通りとはいえ、駅前商店街。 正直、不安だらけだ。 |
10.18 佐久の大杉。 何度か訪れたことがあるが、初めてこの木を良いと思った。 今まで見たのは全て午後のことだった。 今回は午前中。 光の具合によってこれほど変わるとは、ちょっとした発見であり、驚きだった。 |
10.17 オレにないのはカネで、足りないのは髪の毛な訳だ。 髪は仕方がないが、カネはそうもいかない。 それで、来る日も来る日も、必死の思いで働いている。 実に馬鹿馬鹿しい人生だ。 |
10.16 アレがうまくいかねえ。 でも、頑張ろう。 思っていた矢先にコッチに障害発生。 それでも、負けずに頑張ろう。 気を取り直そうとした途端、今度はアッチに大問題。 小説を書くどころじゃねえ。 その上、実業の仕事も少ないときたもんだ。 このままじゃ死ぬな。 神は乗り越えられない試練は与えないという。 ありゃウソだ。 |
10.15 不安ばかりが強くて落ち着かない。 何をするにも、失敗するのではないかという恐怖が先に立つのだ。 良いことを思えば良い方向へ行くほど世間は甘くない。 それでも、微かな明かりが見えなければ、いったいどうやって進むべき方向を見定められるというのだろうか。 つまり、オレは何をするべきかという問題なのだ。 |
10.14 新聞に垣谷美雨氏の著書の広告が掲載されていた。 何でも週イチ9時の連続ドラマになるのだという。 垣谷氏とは言葉を交わしたことはないが、ネットのある場所で、デビューするまでの一時期、その書き込みを読ませて頂いていたので、それなりの親近感がある。 彼女に遅れること二年ほどでオレはホラ大を受賞した。 そのとき、オレはあっという間に追いつき、そして追い抜くことになると、信じて疑わなかった。しかし、現実はこの通り。 嫉妬がないとは言わないが、かつて経験した身もだえするような悔しさはない。代わりに、ひどく打ちひしがれるようになった。 何かもう、良いことは起こらないような気がする。 弱気になったら負けとはいえ、勝つために犠牲を払うのも、もううんざりという気分だ。 |
10.12 『激写』 『私写真』 カッコイイ。 そこで、オレも考えた。 『ガン写』 ガン見から流用。 しかし、これは駄目だ。エロと間違えられてしまう。 『純写真』 悪くない。 でも、どこが純なのか分からない。 なにはともあれ、小説を書くのは辛く、写真を撮るのは楽しい。 それは『良いこと』に違いない。 |
10.11 写真には音がない。 静寂の世界。 写真が好きなひとつの理由だ。 |
10.10 誠実でありたいと思う。 人間関係においても、創作においても。 ゆえに時に苦しくなることがある。 不器用なのだ。 |
10.9 風が吹いても痛い。 なるほど、痛風の痛さはハンパねえ。 今日はだいぶ良くなったけど、右足の甲がパンパンに腫れ上がってしまった。 血液はドロドロ。血管はガチガチ。脳は酸欠。才能はカラカラ。 どうにもならねえ。 |
10.7 右足の甲。中指と人差し指の付け根がイタイ。 イタクテ、イタクテ、昨夜は眠れないくらいだったし、今朝は歩くのも困難だ。 熱も出たようで、寒気はするし、嫌な汗はかくし・・・。 たぶん痛風だな。 不摂生のツケが回ってきたのだろう。 |
10.5 『カタルシス』 正直に告白すると、この言葉を知ったのは最近のことだ。 2、3年前だろうか。少なくともデビュー後であることは間違いない。 オレはカタカナ語が苦手だ。理由は色々あるけれども、要するに頭が悪いのだろう。 それでも、覚えると便利なもので、カタルシスについても、以来よく使うようになった。 『カタカナ語は、つまり意味の要約である』 井上ひさし氏はそういっていた。 つまり、本来なら言葉を尽くして説明しなければならないのに、ひとことで言える簡易言葉という訳である。カタルシスにしても、その例に当てはまるようだ。うまく例を挙げられないけれど、それが、カタカナ語の便利さと危うさだろう。 頻繁にカタカナ語を使う者に、ある種のうさん臭さを感じるのは、本来、言葉を選び、丁寧に語らなければならない現象に対して、(使っている本人ですら意味を把握できていないかもしれない)カタカナ語で要約するためである。つまりお茶を濁しているような印象を持ってしまうのだ。 更に、カタカナ語を多用すると、インテリらしく見える訳だが、その『らしく』が問題なのは言うまでもない。 アメリカ人もまた、本国で『侘び寂び』だとか『禅』などという概念を頻繁に持ち出せば、周囲は胡散臭い奴だと思うのではないだろうか。 で、ここからが本題である。 オレは小説にカタルシスを求めたことはない。 読む場合でも、書く場合でもそうだ。 しかし、エンターテインメント小説を好んで読む人の多くは、カタルシスを得たいと考えているらしい。 おバカなオレはそんなことは全く考えずに、デビュー前はもちろん、デビュー後も自分の思ったように書いてきた。カタルシスとはつまり水戸黄門の印籠に違いないが、それを得たいのなら、それこそ水戸黄門を見ればいいことで、何も小説など読む必要はないと考えていたのだ。 実際、今までの読書体験の中で、深く印象に残されている作品から得たものはカタルシスとは違うタイプの何かであり、だからオレもそういう作品をモノしたいと思うのはごく自然な感情だろう。 だがしかし、エンタメ読者はカタルシスを求めているのだ。 オレの失敗はそのことを知らなかったことだ。 そして、それ以前の問題として、カタルシスという言葉を知らなかった。 知らないモノは探せない。 当たり前の話。 カタルシス【(ギリシャ)katharsis】 《浄化・排泄の意》 1 文学作品などの鑑賞において、そこに展開される世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放され、快感がもたらされること。特に悲劇のもたらす効果としてアリストテレスが説いた。浄化。 |
10.4 家内制手工業的自営業者のオレは、一日中家にいる。正確にいうと、起きている間中、庭にある仕事場にいる。基本ひとりでする仕事だから、一日の大半は誰とも話をしない。 気分が晴れない。それどころか、どん底にいる気分。 原因は色々ある。ただ、オレはそれを自ら必用以上に増幅しているのではないだろうか。子育て中の若い母親が、ノイローゼを発症するという、それに似ているような気がする。 精神と肉体は自分が思う以上に密接に結びついている。さらに、物理的な移動は精神と肉体に大きな影響を及ぼす。 オレには通勤の苦労が一切ないけれども、それが災いしているような気がしてならない。 自発的な運動ができれはいいのだが、運動は金持ちでないとできないものだ。 運動する暇があったら働く。哀しいかな、それが貧乏人の貧乏人たる所以なのだ。そして、それが更なる悪循環をもたらしている。 |
10.3 しかし、どうしてこう災難ばかり降りかかるのだろう。 腹立たしくて、悔しくて、昨夜もほとんど眠れなかった。 一発逆転を願う気力もない。 ザリウン。 |
10.2 落ち着かない。 まったくもって落ち着かない。 心頭滅却して、するべきことをしたいものだ。 でも、実業の仕事はそれでいいとして、果たして滅却した心頭で小説が書けるのだろうか? |
10.1 訪問者が日を追って少なくなっている。 あたりめえだろう。 オレ様のグチの多さときたらハンパねえからな。 |