戻る


2014年5月








5.31
もう土曜日か。そして5月も終わり。早い。早すぎる。ありえねえ。



現在18枚。
50枚予定だから、そろそろ山場。
真ん中よりちょっと手前で物語を大きく回転させる。
それがセオリー。



インコの瞬きを唇に感じるのが好き。
オレはヘンタイなのだ。






5.29
深津十一著『コレクター・不思議な石の物語』読了。
快作である。
読み終えて、なるほどこう来たかという印象。
爽やかな読後だった。実に爽やかだ。

物語の季節は冬。舞台の場所は、駅から出る市内循環バスが三十分に一本とあるから、たぶん地方都市。
そうだよな。東京や横浜の山の手にしては、文章が静かすぎるし、何より屋敷がでかすぎる。
それにしても惜しい。
地方都市特有の冬の描写がもっと欲しい。東北なのか、北陸なのか、日本海側なのか、太平洋側なのか、山が近いのか、平野部なのか。
都市の規模は?匂いは?産業は?そして、土地の歴史にちょっとでも言及されていると、ずっと親しみが湧くと思う。これはオレにも言えることなのでよく注意しよう。
ただし、たぶん本書のメインであるだろう若い読者は、気にしないのかもしれない。

面白かったというより楽しかったのは、ビニール袋で臭気を閉じ込める場面。
ナオミ先生の部屋にある人体模型にビニール袋がかぶさっていた。ちょっと奇異に感じていたのだが、なるほど、そういうことだったのだ。たぶん、作者は臭気の場面を書いたとき、ここはビニール袋が必用だと思い、それで遡って人体模型にビニールを被せたに違いない。別に間違っていても構わない。物語とは別の意味で、作者の作意を想像するのは読書のひとつの楽しみである。
もちろん、読書における最大の喜びは、作者の仕掛けた罠にはまることであり、世界を見せて貰うことである。その意味で、オレは十二分にこの作品を楽しめた。

技法について、ちょっと言及しておこうか。
ためしに、ランダムにページを開く。
『じらさず早く見せてくれ』『どんな石なんだろう』
随所に短い独白が散りばめられている。
世界と自分を同時に捉えるこの技法が、リアリズムというより作品に臨場感をもたらしている。
作者は確信的に行ったに違いない。ともすれば軽妙過ぎるラノベ調の文章。それは修辞意識の高さと、作者の意図だ。
理由は第八章の『来歴』を読めば明らかだ。
作者はここで、明らかな転調を試みている。というより、作品の中心であるこの章を書くために、それまでの合計八部の章を、あえて軽く書いたのだ。それまでに比べて、この章は極端なほどに文章が重く、内容が濃い。これを受け止めバランスの中心とするには、それまでの大半をラノベ調の文章とし、更にそれだけの分量が必要だったのだ。
この作品の文章が、一見ラノベ調に見えて、ラノベのそれとどこか違うのはそのためである。

『この作品の弱点はプロットだ』
解説にあったが、オレは違うと思う。
題材、ストーリー、構成。どれも秀逸だ。
そりゃあ、こうすれば、ああすれば、という気持ちもなくはない。でも、そんなものはどんな名作にもあるものだ。
オレはもしこの作品に弱点を探すとすれば、それは『タイトル』だと考えている。
応募時の題名は『石の来歴』、刊行時は『「童石」をめぐる奇妙な物語』そして、文庫となった今回は『コレクター:不思議な石の物語』である。
なぜ、二度も替えたのか。つまり『これ!』という、タイトルが浮かばなかったのだ。
営業的な理由もあるだろう。でもオレはそうだと想像する。

その理由は、作品の核が分散していることにある。
この作品は群像劇である。少なくともオレはそう読んだ。群像劇であればこれはある程度仕方がない。
主人公はひとりに見えて、実は複数いる。だから中心がはっきりしない。群像劇の宿命なのだ。
『霧島部活辞めるってよ』という作品がある。オレは読んでいないが、作中、霧島は登場しないそうだ。それでも霧島は間違いなく主人公のひとりだろう。それと似ていている。
対照的に、『老人と海』は、まさしく老人が主人公だ。そして、海が舞台だ。だから『老人と海』なのだ。
では、本作はどうすれば良かったのか。
オレは、この物語の中心にある『石が収められた蔵』に焦点を当てるべきだったのではないかと思っている。
蔵と、蔵がある土地の来歴を、物語と強力にリンクさせるのだ。
なぜそこに蔵が出来、なぜそこに石がコレクションされ、なぜそこに人々が集うのか。
これが設定できれば、物語に核が生まれる。群像劇に人間的な核心が作り難いとすれば、場所にそれを求めるのが良策だと思うのだ。繰り返し土地の様子の描写を求めたのは、そこに理由がある。土地のプロパティを明らかにし、蔵に名前を付ける。そして、それをタイトルにする。そうすれば、そこに物語を束ねる求心力が生まれると考えたのだ。
『輪廻堂主人』最近書いたオレの短編のタイトル。手前味噌になるけどつまりそんなイメージという訳だ。


深津十一。風変りな書き手である。いや、もちろん良い意味で。
第八章『来歴』を読んだとき強烈にそう思った。
見事に完成された世界だった。格調高い文章だった。風を肌で感じ、生身の人間を眼前に見た。
氏はなぜ、この世界をベースに作品を書かなかったのだろう。
オレならこの世界をそのまま書いて、ひとつの作品に仕上げようと目論む。
しかし、氏はそうしない。
不思議な書き手である。

最後に作中から一部抜粋する。
***********
なにかを探している。
それがなになのかはわからない。
でも見つけたときにはそうとわかる。
なんだかそれって人生そのものじゃないか。
***********

深津氏はこれからも書き続けるだろう。
なぜ書くのはわからない。
意味を知るのは、書きあげた後である。
それが、書き手の人生なのだ。








5.28
『コレクター:不思議な石の物語』
丁度半分まで読み進めた。
褒めてばかりでは、書き手同士の営業と疑われかねない。不満なところにも言及しておこう。
まず、季節がはっきりしない。次に舞台の場所が曖昧である。
いや季節はどこかに書いてあったのだろう。オレはあまり良い読み手ではないのだ。でも、そういう読み手のために、随所に,、とまでは言わないが、一定の間隔で、季節を感じる描写があってもいいように思う。
舞台の場所は、山の手のお屋敷が出てくるから、都内だと考えた。でも、電車に乗る場面の記憶がない。深津氏は場面の切り替えを大胆に行うタイプで、だから移動の描写が少なく、それで、土地の雰囲気が掴み難くなっている。オレも具体的な地名はあいまいにするタイプだ。深津氏もそうであるなら、気持ちは分かるが、街並みの密集度や、都心から主人公の家までの距離、建物の様子や周囲の景色などが書かれていると、それなりに現場を想像できるので、不良読者としてはありがたい。
さて、アラさがしはこれくらいにしよう。
三分の一を過ぎたところで、第三の重要人物が登場してきた。若くて美人。おまけにスタイル良しの、高校の理科の女性教師である。しかもフレンドリーときたもんだ。売れる作品のキーワードに人間関係があるそうだが、なるほど、こういうことなのだろう。
またしても、オレの作品との比較になって恐縮だが、どうもオレの登場人物は皆不機嫌そうにしている。フレンドリーな奴は皆無といっていい。少なくとも、自分から積極的に物語に関わって来るヤツはいない。どいつもこいつもひねくれているのだ。これからは、オレも少し考えよう。
物語はいよいよ佳境に入る。点から線への移行があるだろう。それぞれの登場人物や事案がどう動き、どうつながっていくのか。そして、それがどう収斂していくのか。
深津氏のお手並み拝見である。



一昨年の角川三賞の二次会。
左隣は朱川湊人氏、右隣は新津きよみ氏。
向こうのテーブルには道尾秀介氏。
こっちは京極夏彦氏。
肩身が狭いったらありゃしねえ。
うんざりして後ろを振り返ると、飴村行氏がいた。
『化身読みましたよ』
『どうも・・・』
『すげえ!と思いましたよ』
あのときはうれしかった。





5.27
『コレクター:不思議な石の物語』
第三章『訪問』読了。
いよいよ筆が乗ってきたという感じ。
ようやく舞台設定が終わって、いよいよ書きたい人物、場面に入ってきたのだろう。書きたくて書きたくて仕方がない作者を見る思いがする。文章が軽妙になり、良い意味でラノベ調になっている。エピソードの使い方も上手いし、『僕の数少ないポリシー』という、繰り返しの技法も奏功している。
長編小説の書き手とはなるほどこういうものか。エンタメの長編小説とはこのように書くのか。そういうことを思いつ学びつ読んでいる。
更に、オレの作品との違い。
オレの小説。
登場人物が圧倒的に無口だ。
どうして、というくらい喋らない。
ありえねえ。








小説文には三種類ある。
説明と描写と会話(独白)だ。
説明で物語を進め、描写で止める。
そして会話で間を取るのが基本だ。
その上で同時性を意識する。
人と自然を同時に捉え、更に進行も加えるのである。
つまり、背景の描写と人の移動、それを繋ぐ会話(間)を同時に書くのだ。
難しいことはない。







ドラエモン実写版のPVに出てくる場所に行った。
パッソで。(マジ)
だから、写真のふたりは、
のび太としずかちゃん、
・・・な訳ねえだろ。









5.26
受賞作の話をしようか。
あれから5年。
選考委員も代わったことだし、もうそろそろいいだろう。

新人賞の最終選考は、ABCに+−を組み合わせて採点する。おそらくどの出版社でもそうだろう。良くてB+で、余程の作品でも、まずAは付かないそうだ。オレの受賞作『化身』は、3人の選考委員のうち、2人が1位、1人が2位を付け一発で大賞決定。最高点は『A+++』。圧倒的な評価だった。



深津十一著『コレクター:不思議な石の物語』
第二章『製作』まで読み進める。
ひとことで言うと、この作者は、『読ませる』
謎の作り方が上手いからリーダビリティーが高い。
その上、文章に瑕疵がなく、淀みもないから、文字を追う作業が苦にならないのだ。
緊張した場面の書き方と効能も知り尽くしているのだろう。
まんまと読まされるのがちょっと悔しい。
オレはエンタメ作品というのはほとんど読んだことがないが、
場面の盛り上げ方など、
なるほど、こう書くのかと勉強になることしきり。
『もっと書き込んで欲しい』
編集にそのようなことを言われたことがあったが、
こういうことかと納得した次第。
それにしても、枚数を感じさせない筆の運びはさすがである。







5.25
海に行った。



『一緒に行きましょう』



だった、はずなんだけどなあ・・・






5.25
深津十一著『コレクター:不思議な石の物語』を読み始める。
十章に分かれた内の第一章『発掘』
文章が上手い。まずそう思った。書きなれた筆を感じる。次にディテールがいい。
『ごく普通の黒雲母岩』『化石ではありませんね。花崗岩は火成岩ですから』『もちのロン吉や』
こういった細かい知識や観察が、物語のリアリティを支えているのである。読み手ならそのまま読み過ごすかもしれない。しかし、実際に書けば分かるが、まず知識を得るのが難しい上に、それを自然に書き込むのが、更に難しいのだ。一見何気ない著述に見えるが、著者の学識と技量と思わずにはいられない。
ところで、深津氏は京都教育大学の出身だという。芥川賞作家の吉村萬壱氏と同窓である。しかも調べたら2〜3歳違いだ。吉村氏の芥川賞受賞作は、同賞受賞前に文芸誌で拝読した。しかも先日はネットを媒介として、言葉を交わす機会があった。そして今日、同大卒の深津氏のデビュー作を読むというのも不思議な縁である。
ここまで読んで、ひとつ気になったのは、工事現場から現れた不思議な石を業者に売る現場監督の心理である。業者はかなり良い値で転売できることを示唆していた。オレが現場監督ならきっと所有権を主張する。
いや、現場を預かる立場にあれば、そううい気持ちにはならないのかもしれない。また、更に読み進めれば、理由が更にはっきりするのかもしれない。
それにしても、吉村氏の芥川賞受賞作『ハリガネムシ』とは随分違うものだ。当たり前といえば当たり前だが、つい最近までオレはエンタメ小説というのを読んだことがなかったから、それぞれが同じ大学出身の、同年代の書き手による、同じ小説という区分に属する作品だというのが、ひどく不思議に思えてならなかった。



パナマ帽を買った。8.000円。
なんだ安物かというなかれ。
オレにとっては清水舞台の散財だ。
なにしろ被っていく場所がない。
もちろんデートのアテなどさらさらない。
さあ、どーするオレ。






5.24
初めて公募に作品を送ってからプロになるのに6年かかった。その間に書いたのは30枚と100枚の作品がそれぞれ5作品ほど。原稿は必ず誰かに読んで貰った。ただし、応募前に読んで貰ったことは一度もない。完成稿以外はたとえ編集者でも読ませたくない。見当違いのアドバイスなど迷惑千万。
プロの作家になるためには、公募での落選が一番勉強になる。ただし、公募原稿を120%の力で書き上げなくては意味がない。100%ではダメだ。何が何でも実力以上の結果を原稿に求めることだ。その姿勢が次の作品に必ず生きるし、落選後に誰かに読んで貰ったときの感想が栄養となるのだ。
小説教室などでは、出された課題をこなしたり、先生と呼ばれる作家にアドバイスを貰ったり、合評したりするという。きっとそれなりの効果はあるだろう。ただ、オレは一切誰の力も借りずにプロになった。そして、おそらく小説教室を開催している作家も同じだろう。孤独こそが核心なのだ。
本当の意味でプロの書き手になりたかったら、誰の言うことも聞かないことだ。アドバイスを貰おうなどと考えない方がいい。ただ求めること。心の奥底から求めることだ。そうすれば、たとえその声がどれほど小さくても、聞きたくなくても、必ず聞こえるだろう。それこそが聞く価値のある言葉である。
とはいえ、オレは誰かに教えたくてうずうずしている。オレは何かを痛烈に求めているのだろう。それが何か今のところ判然としない。ただ単に誰かと繋がりたいのか、先生ぶってみたいのか、教えることで自分も学びたいのか。もしかしたらただのナンパかもしれない。でも自らの欲求には、いつだって忠実でいたい。
何でもやってみるものだ。恥をかくことを恐れてはならない。きちんと自問すれば、孤高の姿勢と、引っ込み思案の区別は容易につくはずだ。簡単ではない。プライドを高く保つことだ。本物の誇りは謙虚を生む。人とは話してみる。会ってみる。小説は書いてみる。答えは常に行動した後の結果の中にある。



今週は身体が重くてあちこち痛くて、もうボロボロだった。
どうしてだろう。
昨日医者に行って気が付いた。
痛風のクスリが切れたのだ。
痛み止めの力はすさまじい。
もやは覚せい剤並みだな。






5.23
『あらゆる表現は時とともに安きに流れる』
あるブログにオレが書いたコメントだ。
書いた時は、自信たっぷりだったが、その後少々不安を感じていた。
一方、少なくともそういうベクトルは働いているのではないか、という思いもある。
そしてまた、オレの直感が、実に正しい考察だとささやく声も聞こえる。
現在根拠を模索中。



健常なスズメの巣立ちヒナ。
やはりオレが拾った個体は足を怪我していたようだ。






5.22
小説を書く上で映画は非常に参考になると、多くの小説家が述べている。子竜蛍氏もそのひとりである。映画にはふたつのヒントが隠されているそうだ。それを知れば誰でも小説がすらすら書けるほどの、決定的なものだという。氏は、自分に直接学ぶ者以外にそれを明かすつもりはないという。
オレは聞きたくて仕方がないが、どうやらプロはライバルと捉えているようなので、仕方なく諦めている。それに、もし、氏から聞いてしまったら、こういう場所でそれを話すことができなくなってしまう。それもあまり楽しくない。オレは女性に打ち明けられた秘密だけは厳守するが、それ以外はお喋りなのだ。

映画から学ぶべきふたつの重要なヒント。
ひとつは『カメラの位置』だろう。氏は三人称の書き手だというから、これは間違いなさそうだ。カメラをどこに据えるかで見える風景が違う。オレ流に言い換えれば、視線の元を意識するということだ。
ふたつめは『場面転換(コマ割り・絵コンテ)』か、『構成』だと思う。
『場面転換』が有力だろうか。
起承転結のような大きな構成はもちろん、大段落、小段落、改行、一文、視点の移動など全てに、場面の転換は重要な役割を果たしている。
山田洋二のようにカメラを長回しするのか、ハリウッド活劇のように、細かく切るのか。それを意識しつつ、また固定で撮るか、パーンするか、ホワイトアウトするか、などなど、技法を挙げたらキリがない。
オレが最も重要視しているものをあえてひとつ挙げるとすれば、場面の切り替え。先日読んだ『お初の繭』でも、見事な場面転換があった。下手な書き手はこれがダメだ。ダラダラと場面を引っ張るから、作品に切れ味が無くなってしまうのだ。
映画を見るとき、どこでどういう風に画面が切り替わったか、これを注視すれば、監督の意図が読み取れるだろう。ひとつの場面を成立させるのは、演技と演出だが、場面を変えるのはまさに監督、つまり書き手の本分なのだ。
三人称の小説とは、絵コンテを文字に置き換えたものといってもいいかもしれない。








5.21
小説を書く上で、絶対にしてはならないことがある。

嘘をつくとこだ。
どんなに些細な嘘でも、絶対についてはならない。
嘘をついた途端、その作品は台無しになるだろう。

嘘とは、作品世界での嘘のことだ。
どんなに荒唐無稽な話であっても、作品の中で嘘さえつかなければ、正直に書きさえすれば、上手下手、好き嫌いの差はあっても、作品世界は現実世界となって、読み手を招き入れるだろう。

だが、作者が嘘をついたとき、作品世界は風船が割れるがごとくに破たんする。鼻白んだ読者は、たちまち本を閉じ、現実世界へと帰って行く。くだらない、という捨て台詞を残して。

くれぐれも注意することだ。



嘘の次に忌避すべきは
書き手の照れ。
書いていて照れている文章はすぐわかる。
読んでいるこっちが、余計に恥ずかしくなるのだ。
照れの有無を調べるのは簡単だ。
エロ場面を書いてみるといい。

三番目に気を付けるのは
カッコつけ。
こう書いた方が文学的だろうなどという、
安易な計算。
知ったかぶり。
浮かれた根無し草。



つまりこういうこと。

どうだ文学的だろうと、カッコばかりつけて、
そのくせ、照れが入っているから、
読まれると恥ずかしい場面は巧妙に、
あるいはヘタクソ丸出しに避け、
人間はそんなことをしないし、考えないのに、
作者の都合を優先して、嘘の描写をする。

サイアク。

でも、良くいるタイプだ。






5.20
ただでさえ活字離れなどと言われ売れなかった小説は、バブル経済の崩壊で、その販売部数を激減させた。1990年代のことである。
出版不況と言われる中、2008年に突然起こったのがリーマンショックだ。小説の売上は劇的に落ち込んだそうだ。
そして、2011年東日本大震災。
もう、ほんの僅かな例外を除いて、専業作家は現れないだろう。
オレのいう専業作家とは、それなりの家に住み、自分だけでなく、家族も養うという意味である。
実際、これができているほとんどは、リーマン前に売れた作家だろう。
でも、オレはそれが健全な姿なのだと思う。
小説を書くだけで飯が食えるなんておかしいのだ。
テレビドラマの原作になるような作品を書く連中は生き残るかもしれない。しかし、そんなものは小説とは呼ばない。脚本家になるべきだ。テレビ業界も恥を知れといいたくなる。
まともな小説を、まともに発表し、それで生活などできるはずがない。



もちろん、例外はある。
だが、例外は狙えない。
狙ってはならない。
それだけの話。






5.19
一日中家にいた。
昼前からビール飲んで昼寝してテレビ見て。
少しは楽になったような気がする。








5.18
前の家の片付けがようやく終わった。
とはいえ、今度は豆屋ワンダーランドの修繕をしなくてはならない。
でも、今日は少し休もう。
オレは疲れた。








5.16
一路晃司著『お初の繭』読了。
救いのない物語である。
読み終えた今、オレは他に言葉を持たない。
『己をさもしい姿に変えながら(中略)する性質が、この社会の有様そのままのような気がしました』
一路氏の、社会を見る目が書かせた一文だと思う。
ネタバレするので、詳しくは書けないけれども、孤独とは生きることそのものだと著者は言いたかったのではないだろうか。そして、己をさもしい姿に変えながら増殖し続ける社会に救いはないのだと。
純粋な者は生き残れない。生き続けるためには、たとえさもしい姿であろうとも己を変える必要がある。そして、さもしい姿になったからには、絶望と寂滅の淵に沈むばかりで、もう救済されることはないのだ。
ほのぼのした文体と、フルチンスキーという一見ふざけたような命名の謎が解けたような気がした。つまり、そうでもしなければ、書いていられないほど凄惨な物語なのである。
内容の残酷さや恐ろしさで、これに勝る作品はいくらもあるだろう。
ただ、これほど希望のない作品は稀に違いない。
人は、書き手は、どうしても希望を描く。どれほど絶望に彩られた物語にも希望の光はあるものだ。
しかし、ここにそれは皆無だ。
死ぬことは恐ろしい。けれども、それ以上に恐ろしいことは確かにある。
それを改めて知らされた思いだった。
一路氏の授賞式にはオレも出席していた。氏の緊張した面持ちと、いくらか上ずった声。そして上気した顔は今でもよく覚えている。
オレは、それを受賞の喜びと授賞式の緊張のためだと思っていた。
しかし、そうではない。
一路氏は、この物語が、お初が、たくさんの少女が、たそえかりそめであっても、受賞によって救われたことに、喜んではならない喜びを覚えながら、この世に生きるひとりの大人として、華やかな金屏風を背に自らをひとり断罪したのだ。
少なくとも、オレにはそう思えてならない。
第十七回・日本ホラー小説大賞『お初の繭』傑作である。



正直、チンケな自己憐憫を端緒にした
純文学の安っぽい絶望はナントカならないもんかねえ。
同じ絶望でも、もっと力強く絶望したいもんだ。






5.15
『お初の繭』を三分の二まで読んだ。
ネットで話題のフルチンスキー氏が、いよいよ登場してきた。
正直、気になってはいた。辛辣な感想を述べる読者の中には、このネーミングをひどくけなしている者もいたからだ。
しかし、オレはまったく違和感を覚えなかった。
先入観がなかったら見過ごしていたか、そうでなくても、せいぜいニヤッとするくらいである。
著者の本心は分からない。ただ『破廉恥』という意味で名付けたのだけは確かだろう。
まず作品の雰囲気に注目するべきだ。重さを嫌った文章である。それはもちろん書き手の企みである。つまり、これから起こるであろう惨劇に対して、あえてお気楽にも思える名前を使ったのだ。対比の妙を意図しているからだとオレは想像する。シリアスが過ぎればギャグになる。徹頭徹尾重苦しく書くのはむしろ容易いのだ。
書き手は対照の効果を強く意識していたに違いない。
三食昼寝付きでのほほんとした養蚕部に対して、その残飯を与えられ人間性が変わるほどの厳しさの中にいる製糸部。
遡って、人買いであるところの福助さんと、娘を売るに等しい親たち。
幸福と不幸。幸福という名の不幸と、不幸という名の幸福。
それらの中間にいるのがお初である。
アレルギーを発症したお初は養蚕部から離され、かといって製糸部に配置換えされることもなく、社長宅の女中のような仕事に回される。
このあたりを読みながら、オレは、黒澤明の『用心棒』を思い出した。
一路氏は映像関係の仕事をされていたと記憶しているが、あるいはこの映画のことが意識の片隅にあったかもしれない。
中盤に差しかかかっても、これといった大きな事件は起きない。
それでも、中だるみを感じさせないのは、物語の所々に、先の暗黒を予感させる不穏な空気が散りばめられているからだ。もちろん、それらは物語を貫く大きな謎に直結している。
さて、物語はこれから佳境に入る。書き手の筆はますます冴えるだろう。そして、お初はどうなるのか。
楽しみだ。








5.14
『お初の繭』三分の一まで読み進みる。感想を書くなら読了してからがいいに決まっているだが、それでは後出しじゃんけんのようになるし、だいいち、オレは気が短いのだ。

最初に挙げたいのは実に滑らかな文章であるということ。文学的に上手いというのとは少し違う。手練れという感じでもない。あえていえば企みを感じさせない巧みさ。読ませる文章というより、読ませられてしまう筆致といえばいいだろうか。
宮沢賢治の『注文の多い料理店』を思わせる雰囲気や、筆の運びも心地よい。とにかく、気が付いた時、既に物語の三分の一に到達していた。もちろん、書き手としてストーリーや修辞の苦悩はあったに違いない。ただ、作品を支えているのは、天性の語り部たる作者のような気がする。

次に感じたのは、資料の読み込みだ。おそらく、相当な量の資料に当たったに違いない。何気ない描写や説明に、分厚い下地を感じる。本文に書かれているのは、調べた資料の十分の一にも満たないだろう。残りの九割が、作品のリアリズムを支えているのだ。著者は、製糸工場の隅々まで、正確に再現できるはずだ。

ここまでにおける欠点を挙げるとすれば、厳しさに欠けることだろうか。
三分の一のところで、工女達が製糸部と養蚕部に別れて配属される場面がある。製糸部で働く子は、理不尽かつ、ひどい目に合わされるのだが、ここに筆に戸惑いがある。
もちろん、ここまで読んだだけの感想だから、今後のことを考えてあえてそういう筆致にしていることもあるだけなのかもしれない。しかし、オレは、ここに筆者の暖かい眼差しを感じずにはいられなかった。
健気であることに対する、無性に優しい気持ち。弱者に対する隠しきれない思いやりが文章ににじみ出ている。だからこそ、読み手は主人公お初をはじめとする、少女たちに声援を送りたくなり、それが作品の推進力となっているのだが。

著者の一路晃司氏は確か北海道の出身だと記憶している。それも寒さのより厳しい旭川地方だったような気がする。オレはこの作品を読みながら、井上靖を思い出した。氏の描き出す少年もまた、氏の温かい眼差しがたっぷりと注がれている。ふたりが同郷なのはあながち無関係ではないだろう。

最後に、あくまでここまで読んだ限りの感想であり、こういう言い方は一路氏に対してはなはだ失礼かもしれないが、『お初の繭』は、オレの『化身』があったからこそ大賞に選ばれたよう思えた。もちろん、どちらが優れているということではなく、それだけ対照的な作品だということだ。
賞を獲るといういのは、そういう運というより運命的な巡りあわせがあるのだと、オレは思う。








5.13
『お初の繭』第一章読了。
つまりプロローグである。物語の土台となる風景や、人物像。時代背景が描かれている。年代は特定されていないが、女工哀史の時代――貧しい農村が本当に貧しかった時代という解釈で良いと思う。
なお、農村がいつの時代も貧しかった訳ではない。明治維新後、政府は、工業を発展させるために、米価の引き下げを行い、農家の力を削いでいった。そうすることで、労働力を農村から工場へと誘導したのだ。豪農は姿を消し、小作人は工場勤務となった。そのことの是非はともかく、豊かな農村という風景は、以降、この国において名前だけの存在になったといえるだろう。
国が第二次世界大戦へと向かいつつある頃。資本家と労働者の格差はすさまじく、男女差別も当然のようにまかり通っていた時代である。
『お初の繭』の主人公である、お初や、その友人たちが勤めることになる製糸工場における労働の過酷さも、並大抵のものでなかった。なにしろ3年の勤務契約を終え、生きて帰ってくる工女は五人に一人だというのだ。
この第一章では、家族と別れ、その製糸工場に出掛ける直前の様子が描かれている。金のために家族の犠牲になること。かといって村に留まるのも地獄であること。自分が工場へ行くことによって家族が救われるという事実と自負。それを誇りに思うことで恐怖に打ち勝とうという少女の心。そういったものが、作者の人柄を表すような優しい筆致で描かれている。
舞台の基礎をしっかり作ろうという意思が強く出ているために、やや、緩慢な印象を受ける部分も僅かにあるが、むしろそれが後半への期待となっていることも事実である。
オレが感心したのは、第一章の終わり方と、第二章の冒頭。
第一章の終わりに、少女たちは、不安を紛らわし自分を鼓舞するため、工場へ向かう汽車の中で合唱をする。そして迎えた第二章の冒頭。
『・・・・・・何もねえ所だな』
誰かがポツリと呟いたその一言が、すべてを物語っています。

これを書いたとき、著者はこの物語の成功を確信したのではないだろうか。




高血圧にはクレソンがいいと、
知り合いの三味線のお師匠さんがいう。
よし、明日からクレソンを主食にする。
美人のいうことなら、オレは何でも聞くのだ。






5.12
奥歯の詰め物が取れてしまった。
さて、どうしたものか。
隣に虫歯の親不知があって、そのために、既に三軒歯医者を替っている。
親不知を抜きたいが、高血圧なので抜けないという。
医者は言う。
『血圧をコントロールしましょう』
うるせえ。
何がコントロールだ。
オレは色々やったんだよ。
でも、下がらないから困っているんじゃねえか。



笑気ガスというのがあるそうだ。
高血圧の患者に有効だという。
でも、その歯医者はちょっと遠い。
さて、どうする。





グラン・ツール・南2014というイベントが、
新潟県小千谷市で開催されるという。
レースではなく、ラリー形式のような大会らしい。
町興しの一環として、地元のサイクリングチームが、
開催、運営を行っているとのこと。
場所を調べたら、オレの住む北関東の田舎町から、車で3時間ちょっと。
真夏の新潟はいい。
カメラを持って行ってみたいものだ。
(自転車はムリ)







5.11
本を買った。
何のために?
読むんだよ。
あたりめえじゃねえか。



今頃か、と言うなかれ。





こっちは、売りに出す予定。
でも、なかなかどうして、
めんどくせえ。





奥歯の詰め物が取れた。
歯医者から危険だと言われていた場所。
激痛を覚悟して、冷水を飲む。
うむ、大丈夫だ。







『女になり片目をつぶって書く』
ある女性からのアドバイス。
よし、さっそくパンティーとブラジャーを買って来よう。
眼帯は伊達正宗タイプがいいかな。
『キーワードは右傾化、愛国ですよ』
海の向うに住む友人の作家は言う。
おお、それなら日本刀と迷彩服だ。

かくして、独眼竜オレ様は、
迷彩服の下に女性ものの下着を付け、
腰に二本の業物を差してパソコンの前に座る。

要するにラノベのロジック。

だが人よ、馬鹿にするなかれ。
オレは大真面目なのだ。



5.10
壇蜜似の美人人妻とツーショット。



ハハハ、ざまーみやがれ!





・・・・・・




.

5.9
北関東の寂れた駅前商店街。
朝から暑い。
夏が来たりて鳥が鳴く。
北半球は冬に向かっているのだろうか。



アル中。
ビール風味のアルコール飲料が止められねえ。
350ml入り88円。
どうしても飲んじまう。
道理で本も読めなければ小説も書けない訳だ。
廃人じゃあるめえし、何とかしようぜ、オレ。






5.8
近頃小説家としてデビューした若い作家がいる。
若いといっても既に結婚しているそうだ。

聞いた話だが、彼の奥さんは、彼の小説にまったく関心がないという。
彼が一生小説を書いて生きて行こうというなら、オレは一刻も早く離婚することをお勧めする。

デビュー前なら別に構わない。
趣味は、たとえ婚姻関係にあろうと恋人同士であろうと、ひとそれぞれでいい。
しかし、デビューしたからにはプロである。
プロとは仕事であり、仕事とは人生そのものだ。
連れ合いの人生に無関心な奥さんなど、一緒に暮らす価値はない。

無関心を近づけてはならない。
無関心は表現者にとって最悪の害悪なのだ。



日本ホラー小説大賞受賞の電話を貰ったのが、五年前の今日だった。
たちまち登ったハシゴを、オレはその後ゆっくりと降りてきた。
あと数段でオレは元の位置に戻る。
あのとき、ハシゴの頂点から更に空高く舞い上がらなかったのは幸いだったと、
いつか言いたいものだ。



縦の構図とは、
対象により近づきたいという、
撮影者の意思の表れなのだと、
ラジオであるカメラマンが言っていた。



そうかもしれない。







5.7
文学フリーマットに行った。
立ち寄ったのは、慶応大学ペンクラブ、日本大学KMIT、morto che cammina(投稿怪談未採用作品集)
慶應は友人のカメラマンの出身大学。
日大は学部は違えどもオレの母校。
何しに行ったのかといえば、半分営業、半分ナンパ。




投稿怪談には知り合いがいるので、
その関係で立ち寄った。




出たな! 妖怪顔隠し。




せっかくカメラをぶら下げていったのだから、
慶應や日大の写真も撮ってくればよかった。
会場の風景とかも。
ただ、オレは人に会うのが苦手だし、
建物の中は、閉塞感いっぱいで、
汗ばかり出るので、長居ができない。
それでも、若い書き手と話をしたり、
プロ作家の平金魚さん、小島水青さんにお会いして
活躍されているご様子を伺ったりと、良い刺激を貰うことができた。
(オレにも、そういうことはある)
やはり、外に出ること、人に会うことは大事だ。



文フリで手に入れた作品集を読みながらビール。
営業は不発、ナンパは失敗。
全然ダメじゃん、オレ様。






5.6
先日は水戸でアイドルのタマゴを撮影。
いや、友人のカメラマンが仕事で来るというので、会いに行ったついでに撮ったんだけどね。













オレもショーセツ家なんかじゃなくて、
アイドルになれば良かったぜ。






5.5
北関東の寂れた駅前商店街。
曇天。
スズメの羽根を運ぶ蟻。
疲労、肩凝り、高血圧。
そして地震。








5.4 『五月の旗』改稿



5.3
kuniomonji.comに、今年も、A・ランボーの『Bannieres de mai』の訳が掲載された。
オレは去年、この訳詩を元に意訳を試みたが、今年は原詩をネットの翻訳サイトで翻訳し、それを意訳した。
基本的に誰の訳も参考にはしなかった。
そのために、明らかなミスもあるだろう。
ご愛嬌に願いたい。



『五月の旗』 アルチュール・ランボー

オレはきっと狂い死ぬ。見事なライムのその枝で。
讃美歌が好きだというならば、枯れた葡萄のジャングルで、逆上がりでもするがいい。
葡萄の酒が血液で、オレ達の血管ときたら、まるで薄ら笑いによじれたその蔓だ。

オレは行く。青き波が、遥か彼方で天使の空と交わるように。
光の矢に射られたら、暗い森の奥深く、苔の上に横たわる。
忍耐と退屈の繰り返し。
それがオレの苦しみだ。

運命の二輪車よ。オレに劇的な夏をくれ。
より良き自然を前にして、より悪しきオレは滅び去る。
イカれた羊飼いは、草原に報復されるのだ。

季節が恵みをくれるなら、オレは自然の前にひざまずく。
飢えと渇きに苦しむオレを、嘲りながら救済を。
嘘はやめてくれ。
父なる太陽を嘲笑するな。
代わりにオレに微笑みを。
不自由は不幸というけれど、自由が幸福な訳じゃない。



スズメのヒナは死んでしまった。
猫に食われてしまったのだ。
ヒナのエサに赤い虫を運んできた親スズメの目の前での出来事だった。
気の毒なことをした。
危険だと鳴き続けた親スズメの警告をオレは軽く受け止めた。
完全にオレのミスだった。
ヒナはオレが猫のエサにしたに等しい。
弁解の余地はない。





5.2
たぶん、あの換気扇の隣の隙間に巣があるのだと思う。
そして、そこから落下、いや巣立ったのだ。



朝5:00に起きて、挿し餌をやった。
サーモスタットの設定を間違えていて、
ヒーターが切れていたので、
ヤバイと思ったが、ひとまず生きている。
無理に口をこじ開けると、ようやく食べた。
7:00に二度目の挿し餌。
元気になったような気がする。



やがて、チュンと鳴いた。
外で鳴く他のスズメの声に反応したのだ。
親スズメの呼びかけだと信じることにする。

鉢台の上に使っていない睡蓮鉢を置いて、
中に使い古しの生地を敷き、更にティッシュを丸めて放り込む。
ダンボールで屋根も付けた。



親鳥は気が付いているに違いない。
たぶん彼がそうだと思う。
ヒナに近づくと、チキチキチキと、
凄い剣幕で警戒音を出している。



本当なら『そのう』を見て、餌を運んでもらっているか
確認するべきなのだが、
オレは鳥飼いだというのに、そのうがよく分からない。
情けない。

どうも、ヒナは足を痛めている様子。
つま先が前を向いていないし、姿勢も不安定だ。
骨折している可能性がある。
だから、保護したのだ。
あるいは、それで親鳥に見放されたのかもしれない。
もしそうなら、自然界では生きていけないだろう。

たとえ、そうであっても、
それが自然の摂理であり営みなのだから、
なるがままにするべきだとは思う。
法の上でも、スズメを飼うことはできないはずだ。
実際、これが出先の公園なら、オレはヒナを拾ったりしない。

でも、ここはオレの住み家なのだ。
オレの領地で勝手は許さない。
スズメは助けて、ゴキブリは殺すという矛盾もカンケーねえ。
文句があるなら、地代を払うか他所に行け。







5.1
庭にスズメのヒナが落ちていた。
工場の出入口の脇である。
馬鹿だなあ、おめえさんの羽じゃ、まだ飛べねえよ。
カメラを構えると屋根の上でスズメが大騒ぎ。
ああ、あれがパパとママだな。
ここは猫の通り道。
親の不注意か、子の不祥事か知らないけど、メーワクな話だ。
かといって、オレが保護するより彼等に任せた方が育つ確率は高いだろう。



あーーーーー
拾っちまった。
だって夕方から雷雨だったんだよ。
雨宿りにと置いたブロックの隙間にさっそく潜り込んだから
これで大丈夫と思っていたんだよ。
でも、大雨になれば水没の危険があるから、
隣に穴を掘っておいたんだよ。
そしたら、その穴の中に落ちてもがいていたんだよ。
もうすぐ夜なのに何で出てきたんだよ。
除草剤が効いていて、庭に雑草が生えていないんだ。
雨が降ったら助からないだろ?

インコの雛を育てたときの道具がまだあるんだ。
ペットヒーター、ヒートマット、
爬虫類サーモスタット。
でも、餌がない。
給餌道具も捨てちまった。
だから、慌てて買ってきた。
とんだ散財だ。

明日は、親鳥の所に帰れよ。
ひと晩だけだぞ。
分かったな。






5.1
子竜蛍氏のブログ『小説の書き方教えます』について、少し話してみようか。

この中でオレが最も勉強になったのは、『作品の位置エネルギーを高く保つ』という部分である。
もっとも、氏のブログを隅々まで読み返ても、そのようには書いていない。
ただし、言っていることは同じである。

『冒頭で読者を惹きつける』は、よく言われることだし、『いきなり物語を始める』というセオリーもある。はたまた、『キリの良いところで筆を置いてはならない』というのも、小説家の間では古くから言われていることである。
これらをオレの言葉に直すと、『位置エネルギーが高い状況』ということになる。

ここには『宮ノ川流』という、オレ流の文章作法を述べたページがある。
それを読んだ作家志望の方が、どこだかでこんなことを述べていた。
『宮ノ川の書いていることは、自分も知っている。新しい発見はなかった』
彼は更にこう続けていた。
『知っていることは同じなのに、宮ノ川はホラ大を受賞し、自分はアマチュアのままなのはどうしたことだろうか』

三流の新人のロジックだと見下してはいないか。
既に知っていると慢心していないか。

オレが子竜氏のブログに感心したのは、知らないことが満載だったからではない。知っていること、古くから知られていることが、違う言葉で語られていたことに驚いたのだ。

同じことを違う言葉で表現する。
これが肝要だ。

氏の言葉を、オレはオレの言葉に置き換えた。
あるいは自分なりに要約した。
自画自賛のそしりを承知で言う。
これこそ、血肉になった証拠である。
知っているだけではダメなのだ。

ちょっと話はずれるが、かつてこんなアホがいた。
『宮ノ川流を一通り読んだ。要するに自分に合うか合わないかなんだけど、それよりやはり一流の作家から学ばないとね』
馬鹿丸出し。合うか合わないかではない。求めるか求めないかの違いなのだ。合うモノを取り入れようという怠慢と傲慢には開いた口が塞がらない。そういう姿勢が奏功するのは学校のテストくらいなものだ。だいたい、その前に一流には呆れた。書き手が権威に尻尾を振ったらおしまいだ。

オレは子竜氏を知らない。
架空戦記という分野も特別尊敬に値するとは思わない。
それでも、オレは一読して、氏の言葉に感銘を受けた。
オレを知る人なら、オレがオレ以外の書き手を簡単に褒めないことは知っているだろう。

オレはこうして手放しで氏の文章作法を褒めている。
それは、オレがまだ死んでいないひとつの証拠だ。
オレは、僅かながら再び自信を取り戻すことができた。
何よりの収穫だった。

『知っている』
即ち、求めない者の言葉である。
本当に知っているなら、なぜいつまでもアマチュアのままなのだ。

オレは売れない小説家だ。
売れる作品の書き方を知らないからだ。
知っていればとっくにベストセラー作家になっている。

オレを不遜だという者がいる。
謙虚とはへりくだることではない。
むしろそれを傲慢という。

求めよ。されば与えられん。
それが第一歩だ。



小説をジェットコースターにたとえるとして、
コースターに乗りこむ場面から書きたくなるのが人情だ。
ゴトゴトと車輪を軋ませ、急な坂を登って行くときの緊張感を、
是非、冒頭で味わってもらいたいと思うのは、ごく自然な感情だろう。
もちろん、それで成功するならそれでいい。
しかし、コースターが今まさに、最も高い位置から走り出した瞬間。
そこから書き始めるという手法は、
多くの書き手が思っている以上に効果的に違いない。

ベートーベンの交響曲のうち、
最も有名な楽曲は『第九番』かもしれない。
しかし、最も印象的なのは『第五番』だろう。
理由は述べるまでもない。






inserted by FC2 system