6.30 『ふと、窓の外を見た。ブラスバンドの音が聞こえたのだ』早稲田在学中の作家志望がかつて書いた一文。『嘘は書いちゃいけねえって言っただろ。ふとって何だよ。音が聞こえたから見たんじゃねえか』『俺、モニタ叩き割りたいです』彼とは以来音信不通。他にも何人かやっつけちまった。反省している。 |
6.29 『こういうことをされて怒っているんだよ』 『でも〇〇さんに悪気はないんじゃないの?』 『ずっと長い間、それを繰り返しやられたんだ』 『そう思い込んでいるだけだと思うよ』 『いや、彼はひどい。オレは本当に嫌になってしまった』 『えー、悪い人じゃないけどなあ』 『お前にはそうでも、オレには会うたび嫌なことをするんだよ』 『それって、僻みとかそういうのじゃないの?』 どうしてオレの話を聞こうとしないのだ。 オレがそうだといっているのだから、そうなんだよ。 オレは〇〇と、もう何十年も付き合っているんだ。 何もかも知り尽くしているんだよ。 そのオレがいっているんだ。 それに、仮に百歩譲って〇〇に悪気がなかったとしても、オレはひどく不愉快な思いをし続けたんだ。何十年もだ。 そのことが大事であって、それが全てなのだとなぜ分からない。 『それは、気の毒だったね』 『嫌な思いをさせられたんだね』 どうして、まずそういえないのか、オレには理解できない。 いじめられた側にも問題がある。 いまにそんなことを言い出すのだろう。 愚かなことだ。 オレは残念だが、お前のことも見限った。 人の気持ちが分からない、分かろうとしない者に興味はない。 オレも、おそらく多くの心優しい人を傷付けてきたことだろう。 オレの言葉はときとしてキツくなるという。 いつも、申し訳なく思っている。 |
6.28 緊縛師と知り合いになった。 せっかくなので、麻縄を買う。 伊藤晴雨、荒木経惟、団鬼六が好きだというなら当然だろう。 とはいえ、リアルの知り合いに、そういう女性はいない。 そこで、麻縄のある景色ということで、しばらくやってみようと思ったのだ。 まずは、試し撮り。 |
6.27 セルジオ越後が好きだ。 Jリーグ発足以来、ずっと日本サッカー、日本代表が嫌いで、常に代表の無様な敗退を願い、相手チームを応援し続けてきた。カッコつけることばかりに熱心なのが、鼻について仕方がないのだ。南米の貧しい国のサッカーが戦いなら、日本のそれはまるで芸能人のお遊びだ。髪の毛と服ばかり気にして馬鹿じゃねえのかという気分。試合になれば、自分の姿に酔うことばかり。観客に対するポーズ。試合中に歯を見せるな。『よく頑張った』だの『ありがとう』だの『お疲れさま』だの、サポータがいちいちいうのも気に入らない。まるで小学校の運動会だ。その上、安っぽいナショナリズム。サポーターという言い方も好きになれない。ゴミ拾いとかもうんざりする。善意とかいう以前に、田舎臭くてたまらない。オペラ座でおにぎり食っているようなものだ。 『自分たちのサッカー』まるでマンガ。いつまでも『キャプテン翼』ごっこしてろ、といいたい気分だ。そして、今回のワールドカップでその思いは深まったというより、間違っていなかったと確信した。 だが、それでも、もし、もしもセルジオ越後が代表監督になるなら、きっと応援するだろう。 |
6.26 現代アート界にはコミケや文フリに相当するイベントがないようだ。こういった表現者の手によるムーブメントこそ、アートの世界にぴったりだと思うのだが。個展、グループ展。四十年前、オレの父がやっていたのと変わらない。アーティストなら、権威や既存のマーケットを自ら打ち破るべきではないのか。 小説業界における権威の凋落は著しい。代わって出てきたのが『本屋大賞』。これは新鮮だった。美術界における権威の失墜はことさらひどく、見本市としてのイベントはよりやりやすいはずである。なぜ『美大生が選ぶ美術展・美術賞』を造ろうとしないのだ。『デザイナーによるデザイン見本市・デザイン大賞』を作らない。アーティストが画商に通うようでは情けない。画商に足を運ばせるのが本来だろう。 ネット社会は仲間の集合を容易にした。表現者は同時に鑑賞者である時代にあって、盛大な仲間内の盛り上がりは価値を有するようになった。コミケ然り、文フリ然り、そしてオタク文化然りである。人が集まればマスコミが来る。やがて金が動く。新しい才能が生まれる。 まずはアーティストが集まり自らの手で大きなアートフリマを開催するべきだ。オレは仲間の安易は寄り集まりは嫌いだったが、それも目的によるし、時代も変わった。オレが美大生だったらきっとやる。権威を排除し必用なら相互投票によって優秀作を決める。自らのヒーローは自分たちで作る。最先端を行く現代アートの旗手なら、自らの手で時代を切り開け。 蛇足だが、今までのようなスタイルの個展とかグループ展を否定している訳ではない。ただ、若いアーティストが、新しいムーブメントを起こす環境が整ったのではないかと思うのだ。 街の画廊で、個展、グループ展が行われる必要はある。 文化は街角に根付くものだからだ。 |
6.25 たまにだが、オレの写真を褒めてもらえることがある。 うれしくも、ありがたいことだ。 ネットには、オレより上手い人が掃いて捨てるほどいるから、ちょっと恥ずかしくもある。 写真を撮るなら、一眼レフを手に入れた方がいい。 理由は背景をぼかせるからだ。 写真の良し悪しを決める最も大きな要素のひとつは、背景だと思う。 被写体の選択や、構図といったものは、コンデジでも創意工夫が可能だが、背景をぼかすのは一眼レフでないと難しい。背景をぼかすと、対象がくっきりと浮かび上がる。これはもう劇的な変化で、だから、一眼で撮影した写真は、コンデジや、それに類するカメラしか持っていない人から見ると、別次元の写真のように見えるのだ。 他にも色々アドバンテージはあるけれども、オレの写真が(プロ以外の人に)褒められる、最も大きな、そして単純な理由は、そこだと思う。 オレが買った一眼レフは Canon Kiss X5 Wズームのキットで5万円くらいだった。 もし、写真に興味があるなら、一眼レフを手にした方がいい。 その人の感性にもよるが、人生が変わるくらいの衝撃があると思う。 |
6.24 アジサイ。知り合いのねーちゃんは上手に撮っていた。 オレも負けられねえ。 |
6.23 『雨と猫』というテーマで写真を撮りに行った。 小雨が降っていた。 濡れた土手で滑ってコケた。 土が粘土質だったのだ。 右手にカメラ、左手に傘。 その傘を持つ手を思わずついた。 痛かった。 マジ手首の骨が折れたかと思ったぜ。 今もイタい。(T_T) |
6.22 Eテレ日曜美術館で写真家東松照明氏の特集番組を見る。 ワールドカップを見ようと、数日前にようやく部屋にテレビを設置したのだ。 北関東の寂れた駅前商店街。 雨が降ると、駅に向かう車の音が大きくなる。 布団から手を伸ばしてスイッチを入れたら、たまたまやっていたのだ。 『事実尊重』という言葉が出てきた。 なるほどと思う。 それにしても、写真家という生き方も大変だ。 |
6.20 直木賞と芥川賞の候補が発表になったのか。 文藝春秋はいつまで、国内の作品、作家相手にチマチマとこの賞を続けるつもりだろうか。ジリ貧なのは文春が一番よく分かっているだろう。海外の作品を選考に加えるべきだ。文化の担い手たる出版社がいつまでもこんなことだから、文化も民度も低いままなのだ。 |
6.19 最近ネットで知り合った若い女性は写真の修行中だという。 顔を知っている別の知人によれば、すっごい美人らしい。 少なくとも顔が見えないよう加工された画像を見る限り、プロポーションは抜群だ。 詳しいことは何も知らないが、8メートル程の長さの麻縄を、染めたり、なめしたり、使ったり、販売したりしているらしい。 オレは詳しくないが(笑)、荷物を縛るためのものではないようだ。 その彼女の撮影する写真が素晴らしい。 猫が好きだそうで、撮影画像を何枚か拝見したが、実に良く撮れている。 夜明けの写真も実にきれいで、オレなどはどうやって撮影したのか分からないくらいである。 世の中には色々な人がいる。 つくづくそう思う。 |
6.18 知り合いの画家が似顔絵を描いてくれた。 エグザイルからスカウトがくるな。 間違いねえ。 |
6.17 ミクシィ株、本日ストップ高で17.000円。 先月7.000のときに買いにいったんだよなあ。 でも、持ち株ダダ下がり。 資金不足で買えなかった(T_T) ガンホーのときも同じだった。 その後ガンホー30倍くらいになったかな。 あのとき資金があれば今頃楽に1.000万円超。 まあ、途中で売っちゃっただろうけどね。 |
6.16 書き手が、書き手として名作や名文を読み、そこから得るべきもっとも大切なモノは、感動や憧憬ではない。これらに近づきたい、などと言っているようでは先は暗い。名作も名文もつまりは過去だ。過去の基準だ。基準を超える、あるいは破壊するという暴力的なまでの野心と傲慢さがなければ書く意味などない。 |
6.13 さっき届いた『野性時代』を見て驚いた。『死咒の島』で、今年の日本ホラー小説大賞を受賞した雪富千晶紀さんは、日本大学生物資源科学部卒業とのこと。大学だけでなく、学部までオレと一緒。つまり後輩。しかもオレが当時付き合っていた彼女に、感じがよく似ている。もちろん美人。参った。 |
6.12 吉村萬壱著『ボラード病』を読み始める。 吉村萬壱は不穏なサフランである。 ボラード病の冒頭を読んでそう思った。太宰治、カフカ、つげ義春、伊藤晴雨、あらゆる純文学的要素に満ちた題材と文章に、吉村萬壱というサフランを加えたとする。刹那、真紅の雌しべは、たちまち世界を黄金色に染め、妖しい匂いで読者を包み込む。 久し振りの純文。 懐かしいというか、ほっとする。 |
6.11 芥川賞作家の吉村萬壱氏より、縁あって『化身』の感想を頂いた。 文學界新人賞と芥川龍之介賞には特別な思い入れがある。 だから、そのふたつを受賞された吉村氏からの感想は、やはり特別な感慨がある。 |
6.10 木にハート。 木の心。 気心。 |
6.9 でっかいダンプに乗っていた。 古くてボロいのを安く譲ってもらったのだ。 家に向かう途中、海辺の町でパンク。 予備のタイヤも工具も積んでない。 安物を買うからだよ。 という夢。 |
6.8 近所に出来たTRIALという量販店。 素麺と蕎麦の乾麺が、200グラム入りで39円。 これは安い。 オレは昼飯に300グラム食うから、一食当たり約60円。 一ヵ月で1800円相当だ。 これは下手したら白米より安いぜ。 |
6.7 関東地方の所々で記録的な豪雨だという。 ここ北関東の寂れた駅前商店街はそれほど強い雨にはなっていない。 あるいはこれから降り始めるのかもしれない。 豆屋ワンダーランドは北からの風雨に弱い。 直さないと、と思いながら、はや半年。 |
6.6 梅雨入りしたという。 涼しくてよろしい。 |
6.5 以前賞を頂いた写真をprofileの受賞歴から見られるようにリンクを貼った。 これだけどね。 版権は主催者にあるというけど、主催は大学教授と学生グループだし、あれからもう二年近く経つのだから、もういいだろう。 |
6.4 『書いていて面白いと思わなかったら、その場面は書かない方がいいよ』 貴志祐介氏の言葉がずっと気に掛かっていた。氏は自作を面白がって書いていたのだろうか、と。楽しんでいるうちは仕事ではない。それが当たり前ではないのか、と。 長年の謎が、今朝、不意に解けたような気がした。 貴志氏は面白がって書いてなどいない。もしそうなら、山田風太郎賞受賞のとき、あんな顔ができるはずがない。あれは面白がって書いた者の顔ではない。感極まった氏の様子は、皮肉屋のオレでさえ感じるものがあった。 貴志さんは、あまり表に出ないから、こういうことの説明が下手なのだ。次からはこのように仰った方がいい。オレが教えて差し上げますから覚えてください。(笑 『書いていて、手応えを感じなかったら、その場面は書かない方がいい』 |
6.3 過去、ふたつ頂いた文学賞の選考委員の中に、それぞれ林真理子氏と、故、三浦哲郎氏がいた。いうまでもなく、直木賞と芥川賞の選考委員である。だらかどうした。同賞を受賞した訳でもないのに。それでも、両賞の現役選考委員から、それぞれの作品を高く評価されたことは、オレにとって幸いだった。 |
6.2 父は彫刻家で祖父は歌人だ。かつて棟方志功と北原白秋に認められたという。芥川賞作家の吉村萬壱氏は、純文学とは触れたら帰って来られないものと定義した。祖父がいつから創作を始めたか知らないが、少なくとも芸術を志すこと100年にわたる怨念の血がオレには流れている。なるほど帰れない訳だ。 |
6.1 『化身』が文庫になったとき、オレはその巻末に誰がどんな解説を書いてくれるのか、とても楽しみにしていた。 なのに、出来上がった本に解説はない。 なんだ、解説はないのか。 売れないから省かれたのか、コスト削減で解説自体が取りやめになったのだろう。残念・・・ しかし、先日思い出して調べてみたら、オレの後に大賞を受賞した『お初の繭』には、飴村行氏による解説がちゃんとある。 もちろん、オレの前の受賞作『庵堂三兄弟の聖職』にも、その前の『夜市』にも解説はある。執筆はそれぞれ平山夢明氏と東雅夫氏。 オレだってプロの手による受賞作の解説を読んでみたい。 『すげえと思いましたよ』飴村氏も、パーティ会場で絶賛してくれたではないか。 何で、オレのだけ解説がないんだ。 考えているうちに、思いついた。 受賞時の選評に原因があるのではないか。 『唯一無二の孤高の存在』 高橋克彦氏による選評は、編集者をして、『これだけ賞賛されたのはちょっと記憶にありません。渾身の選評です』といわしめたほどの高評価だった。 かつて、深沢七郎が『楢山節考』でデビューしたとき、評論家の正宗白鳥は、『著者、この一作で足れり』と評したという。オレはそのエピソードを思い出さずにいられない。 これは想像だが、解説を引き受ける者がいなかったのかもしれない。あるいは頼めなかったのか。 だとすれば、うれしくもあり、ちょっぴり残念でもある。 ただし、下手な解説を書かれたら、オレは烈火のごとくに怒り狂ったことだろう。 いずれにしても、これだけの選評を、このまま消え去るままにするのはあまりに惜しい。既に選評が掲載された単行本は角川書店にもない。 著作権がウンタラはこの際無視するとして、全文をこのサイトに掲載することにした。 『profile』のページにリンクを貼ったので、よろしければ一読ください。 |