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2014年10月







10.31
『月の林檎』という作品に感想を書いた。
このサイト、好きになれないけど、一度行って感想を書いたりすると、その作品がなくなるまで、ときどき見に行ってしまうんだよなあ。
蜜虫さんは、オレの知っている蜜虫さんだと思って読んだのだけど、別人かもしれないね。
『私、別にDさんのファンじゃないですから』
彼女はそういってたけど、オレは彼女のファンなのだ。
もっとも、オレは若い女性なら、みんな好きだけどね。







10.30
知り合いのにーちゃんが小説現代のショートショートに入選したという。
書き始めて半年、この三か月で二作目の入選らしい。
才能というのはあるのだと、思わざるを得ない。



『瀬戸内・松山写真俳句コンテスト』というのがある。
調べたら、第二回の応募は100人程度。
チキンなオレは倍率の低い賞が好きだ。
マシな写真が撮れたら応募してみたい。
こう見えても、オレは北原白秋の弟子の孫なのだ。
ははは。あーあ。






10.29
北関東の田舎町。
今朝は寒い!



シャッター速度1秒。
防波堤のコンクリの上にカメラを置いて撮影。
でも、拡大するとピンボケ。
カーボンの三脚が欲しい。
でも高い。





10.28
海に写真を撮りに行った。
夜7:00頃、帰宅すると家の鍵がない。
ズボンのポケットか、車のダッシュボードに入れたはずなのに、いくら探しても見つからない。
どうやら、どこかで落としたらしい。
思い当たる節がある。
漁港で写真を撮るときに、係留杭にカメラを載せて固定した。三脚を持っていなかったのだ。ファインダーの覗くために寝転んだあのときに違いない。
ちょっと迷ってから、車に乗り込んだ。高速を使えば40kmの道程もそう遠くない。

そのときの写真がこれ↓



誰もいないことを願っていたのに、
そこにはふたりの釣り人が。
『鍵、落ちてませんでしたか?』
『いいえ』

本当はもっと隅々まで、這いつくばって探したかった。
せっかく高速を飛ばして引き返したのだ。
でも、しつこく粘れば彼らの邪魔になるし、
実際そこにないことは明らかだった。

帰ろうと思って翻意した。
コンビニのトイレが怪しいと思ったのだ。
近頃、不摂生がたたってか、
昼食後、一時間ほどで腹が痛くなる。
今日もそうだった。
それで慌ててコンビニに立ち寄ったのだ。

途中、車を降りた海岸二ヶ所を経由してから、
件のコンビニに向かう。
場所は水戸市内。
近くに茨城大学と、今時珍しいポルノ映画館があった。
それと、カスミというショッピングセンター。
コンビニはローソン。

実はそのとき道に迷っていた。
場所の記憶は定かでない。
それでも、このクルマにはカーナビがある。
簡単に見つかるだろう。

が、しかし。見つからない。
ローソンはあった。
市内に22か所!
三か所に立ち寄ったがどれも違った。
コーヒーを買ったときのレシートを受け取っておけば良かった。
まさかこんなことになるとは思わなかった。

家を出て既に三時間。
落胆、落胆、落胆・・・

それでも、鍵は見つかった。
翌朝、庭の門の前に落ちていた。




まあ、見つかったのだから良しとしよう。
もともと、豆屋ワンダーランドの鍵は、
一ヶ所だけ、ナンバーロックにしてある。
暗証番号を押せば鍵が無くても開くのだ。
全部、それに取り換えたいよ。マッタク。






10.25
オレのカノジョは、一流国立大学を卒業後、パリ大学へ留学したという。 だから何だというと、つまりオレのカノジョ自慢だ。



で、オレはというと、三流私立大学の、最低ランクの学部の、
最低倍率の学科に、最下位の成績で入学し、
優6個、可40個という末席の成績で卒業した。

そんなお馬鹿なオレの目下の悩みは
カッコイイと思って伸ばしているヒゲが、
実はちっともカッコよくないのではないかということである。

パリ→ヒゲ男爵という連想。
今日は秋晴れ。






10.23
前作を編集に送ってから一か月半。
『読んで感想を送りますね』
とかいいつつ、何の音沙汰もない。
別に編集がどうだろうとカンケーねえ。
そう思いつつも、やはりモチベーションを保つのは難しい。



読み手というか、協力者というか、
できれば理解者がいると創作も捗るのだけれど、
オレはヘンクツだから誰も相手にしてくれない。
前作では幸い、そういう女性が見つかったのだが、
残念ながら僅かなやり取りをしただけで、音信不通になってしまった。
これも不徳の致すところだろう。






10.21
橋下・大阪市長と桜井・在特会会長が面談をしたという。
その様子を記録した動画があったので見てみたが、まるでガキのケンカで驚いた。
少なくとも橋下氏は弁護士なのだから、もっと理をもって整然と意見を述べるべきであるのに、『立候補して当選してみろよ。』『当選してから言え。』ではあまりにオソマツだ。論点が完全にズレている上に、見当外れであること甚だしい。
一方の桜井氏も『言論の自由を否定するのはやめろよ。』というが、『韓国人は死ね』と連呼するのが『言論』だとは到底思えない。その言葉のどこに『論』があるというのだろう。デモ行進も民主主義のルールに基づいているというが、ルールは最低限のモラルに過ぎず、法で禁止されていなければ、何をしても良いということにはならない。
『法律で決まってるのかよー』
小学生の頃、よくそんなことを言ったり、言われたりしたものだが、正直そのレベルである。






ちょっと話は変わるが、性と暴力の表現についても同じで、
やたらと『表現の自由』を振り回すヤツ等がいるが、
児童ポルノなど、とうてい表現とは呼べない。
ただの子供を食い物にした金儲けだ。

世界はそろそろ『規制の時代』に入ったとオレは思っている。
もちろん、当局による規制ではないし、
業界の自主規制というのともちょっと違う。
表現者個々人が、自らの規範というポリシーに基づいて、
制するということだ。

『読者サービスですよ』
ある有名漫画家が、編集者にパンチラカットを求められたという。
漫画家は、必用もないのに刺激的だというだけの理由で、
そんなものは描きたくないと思ったそうだ。
しかし抗うのは難かしい。
そこで漫画家は、描くには描いたが、絶対に白いそれは描かなかったといっていた。

性と暴力を『表現の自由』だという連中のうち、
相当数、いや、ほぼ全員が、『売れるから』という理由で描いているに違いない、
あるいは、自らの欲求を満たしたくて、描いているのだろう。
それを必ずしも悪いとはいわない。
しかし、そのことを自覚する必用はある。
『表現の自由』を隠れ蓑にするべきではない。

表現の自由という錦の御旗。
それを、安易に振っていないか、作家も出版社も、自らに問うべきだと思う。
その上で、それが表現だと信じるならその通り描けばいい。
しかし、金儲けの手段であるなら、そのように公言するべきだ。
それが、自らを規制するということだ。






10.20
知り合いの青年と、奥久慈男体山に登った。



標高654メートル
高くはないが、急峻な崖を登るコースで、
滑落事故も相当数発生しているという。




先週から続く偏頭痛がキツくて、
途中、我慢できなくなったら痛み止めを飲もうと思ていたのに、
しっかりと車に置き忘れてしまった。




写真ではチョロそうに見えるが、
落ちたらヤバい感じの鎖場が連続する。
ガイドブックでは上級者向けとなっている。




山頂には神社があって、背後は断崖。
オレの人生も背後は断崖。








10.18
隣り町に通称『社長の家』というのがある。
先日、偶然通りかかった。噂で聞いていただけだったが、すぐにそれだと分かった。
望遠レンズしか持っていなかったので、全景は撮影できなかったが、洋風の立派な、そして馬鹿でかい家である。



『社長の家』といっても、別に社長が住んでいる訳ではなく、
ドラマなどの撮影で使われているそうだ。
その日も、見ていたら関係者らしい練馬ナンバーの乗用車が来た。
門扉が自動で開くのを見て、安っぽく驚いたオレ様であることよ。






10.17
オレは草食系オッサンだから、たまに草を食べたくなる。
肉はいつも食べたいが。



トマト2ヶ、パセリ1束、セロリ1本。





10.16
北関東の田舎町。急に寒くなった。



気が付いたら小説書きで、
小説の話ができる相手がいなくなった。
誰か探してみるか。





10.15
昨日は実業の打ち合わせで朝から東京の取引先へ。帰路、電車の中でひどい肩凝りがすると思ったら、やがて頭痛と、目の痛みが発生した。
早朝に台風直撃、電車が止まるのではないかという心配やら、大事な打ち合わせの緊張やらで、すっかりくたびれてしまったらしい。
帰宅しても、ますますひどくなるばかりで、缶ビールも半分飲んで後は残してしまった。
寒気もするし、気持ちも悪い。日曜日に屋根に登った疲れもあるのだろろう。こんなことは初めてかもしれない。
痛風で処方された痛み止めを飲んだら痛みが治まったのか、気が付いたら朝だった。


無断転用不可

絵に描いたような幸せの景色。



無断転用不可

先日、銀行の順番待ちをしていたときのこと。
隣に赤ちゃんを連れた母親が座った。
『おや、可愛いねえ』
思わず声を掛けてしまった。
オレも齢取ったなあ・・・


無断転用不可




来年、仕事場を移転する。
古巣の工場を任されたのだ。
任されたといっても、従業員はなく、
オレひとりで仕事をしながら倉庫の管理をするのだ。
『通勤』をするのは二十数年ぶりだ。
正直、不安だらけ。

せっかく作ったこの作業場にも、結局一年しかいられなかった。
引っ越しが終わったら書斎に改修しよう。





10.13
屋根に登って瓦の修理。
崩れた棟瓦を並べて、割れた平瓦を取り換え、雨樋を補修する。



一階の棟瓦は震災で崩れたまま放置されていた。
屋根屋は問題ないというが、大雨が降るとこの中ほどから少し漏る。
二階の屋根も同じだとい思うが、こちらは雨漏りしている様子はない。



棟瓦を載せて、針金で固定。
所々をシリコンで接着。
鬼瓦がないので、向こうの端から見るとトンネル状態。
何かで埋めようかと思うのだが面倒だ。
風で飛んだりしないか、ちょっと心配だけど大丈夫だろう。
雨漏りが止まればそれでいい。

平瓦もなんとか交換できたが、噛みあわせが悪くて少し浮いている。
野地板が痛んでいるのだろうか。
こちらもシリコンで埋めようかと思案中。

雨樋の取り回しもいい加減だった。
壁伝いに雨漏りがあって、漆喰に黴が生えていたが、
おれじゃあそうなるのも当然だろう。
銅の雨樋を金鋸で切っていたら、
隣の爺ちゃんが音を聞きつけて顔を出した。
『何でもやるんだねえ』
まったくオレもそう思う。








10.12
文章作法1を更新。
『主人公の変化について』



くるるさん、ありがとうございます。
少しでもお役に立てたのなら良かったです。
(^^)
ちょっと事情があって、そっちには書けないので、こっちにて。





10.11
村上春樹氏がまたしてもノーベル文学賞を受賞できなかったそうだ。
オレは正直、氏がどうして同賞の有力候補になるのかよく分からない。
村上氏の作品は、デビュー作と、短編集、それと羊が出てくる長編を一作読んだだけだからあまり詳しくないし、ノーベル文学賞受賞作家の作品も、大江健三郎氏の『万延元年おフットボール』しか読んだ記憶がないい。
だから、村上氏についても、ノーベル文学賞についても、何かいえるようなことは何もない。
それでも、どうしても、村上氏と同文学賞はかけ離れているように思えるのだ。
村上氏の小説は軽い。言い方を変えれば読みやすい。
それが良いか悪いかはともかくとして、真の文学とはもっと難解であるべきだと思っている。いや、難解であることを、難解であるがゆえに良しとしているのではない。
井上ひさしは、『難しいことをやさしく、やさしいことを面白く』と述べられたが、この世界をどれほどやさしく、面白く記述しようとも、現代おける文学はそれを突き詰めようとすればするほど、否が応でも難解にならざるを得ないと思うのだ。
村上氏の作品にはそれがない。正直、作品としては面白いが、とことんまで突き詰め、答えを書ききったとは思えないのである。彼の作品は答えの手前で終わっている。『何かありそう』な雰囲気のみだということだ。誤解を恐れずに言えば、『それ』を書かずに『それっぽく』書いているに過ぎない。だから読みやすく、面白い物語にはなっているのである。
ひとりの優れた世界的文学者が出す答えは、それが正解だろうと誤解だろうと、難解であるに違いない。なぜならこの世の存在自体が難解だからだ。
それと、もうひとつ。オレはもう少しでいいからノーベル文学賞に夢を見たいという気持ちがある。遥かな高みに、オレの理解を超えた文学が存在するという希望を持ちたいのだ。
ついでにいうと、ノーベル文学賞なんて、所詮政治文学だろうという気持ちもある。



ノーベル平和賞は17歳の少女だという。
生まれながらに十字架を背負う運命なのだろう。
ムスリムに十字架というのもナンだが。






10.10
某所で、『永遠の恋煩い』という短い作品を読んだ。
笑うなかれ。
著者のHNが古い知り合いと同じだったのだ。
それで、いつものDで感想をつけてみた。
別人だったようだが、それならそれで構わない。
主語の数は、言うまでもなく、『Ctrl+F』で検索した。
文章の流れが悪く思えたり、どこかくどさを感じたときは、これを実行するとその原因が分かる場合がある。
ただし、近頃、自作ではやっていない。文章が上達したというより、修辞にあまりこだわらなくなったのだ。



近頃は、この過疎ブログに来てくれる人で、
作家志望者は少なくなったような気がする。
まあ、気がするだけだが。



『春望』という漢詩がある。
この作品が、どうしてこれほど有名になり、
どうしてこれほどまでに読者の心を掴むのかというと、
つまり、主人公の変化を見事に捉えているからである。
『国破れて山河あり』
国破れそこに佇む彼は、
国が栄えていた頃とは明らかに違っている。
杜甫はそのことに言及していない。
しかし、そのことを如実に、そして鮮烈に語っている。
変わり果てた国。年老いた自分。
そして、それらを前にした彼の気持ちが
読む者の胸を打つのである。
少なくとも、オレはそう思う。

『古池や蛙飛び込む水の音』
これもまた、蛙が飛び込む前を後では、
その音を聞い人の気持ちに変化がある。

一切は流れてゆく。
変化こそが核心なのだ。





10.9
昨夜は月食。
正直、天体ショーは退屈だ。
赤銅色の月といっても、月は月だし、おまけに小さい。
写真に撮っても、皆似たようなものになってしまうし、機材次第で誰でも撮れる。
それと分かって見る天体ショーは、文字通りショーに過ぎない。
科学は日食ですら退屈な日常に変えてしまった。



誰でも撮れるとかいいつつ、妙にボケた写真しか撮れなかった。
影に入っている訳だから、光量が足りないのだろうか。



東京スカイツリーのてっぺんに月を配置した写真をネットで見たが、
たぶん、撮影場所にはカメラマンが行列していたのだろう。
オレは行きたくない。
ネットにはとても解像度の高い写真もあったし、
どれほど加工したのか、見事な色の写真もあった。
結局、自分で撮影する意味があまり見当たらないのだ。
だから、昨夜のベストショットはこの写真。




なお、オレの写真も、トリミングした上に、
色調を強目に加工してある。


天体ショーは退屈だと書いたが例外もある。
ひとつは中学のとき。
友人三人と自転車を担いで富士山に登ったときのことだ。
八合目で暴風雨となり、仕方なく山小屋に宿泊した。
夜中に外のトイレに行った。
雨はすっかり上がっていた。
見上げた空に満天の星。
15歳の夏だった。

もうひとつは、大学のとき。
オレは渋谷にほど近い大学にいた。
ある日の夕方、友人を誘って横浜に行った。
山下公園の芝生に座ってビールを飲んだ。
やがて、日が暮れた。
酔って仰向けに寝転んだ。
その空に、いくつもいくつも星が流れた。


いつかまた、そんな光景に出合えるだろうか。






10.8
先月書き上げた新作。その執筆に協力してくれたFちゃんがネットから消えた。
この作品を書き上げられたのは、彼女のおかげだといっていい。
残念だ。



『化身』の電子書籍版が以前より売れるようになった。
とはいえ、微々たる数字である。
それでも読んで貰えるのはありがたいことだ。





10.7
先週の土曜日。
雨の中、お囃子が聞こえてきた。
練習ではなさそうだ。
外に出ると、街の中心でもある向かいの商工会に祭礼の行列が入って行く。
お神輿が街を回ったようだ。
担ぎ手がいないのだろう。台車に乗せられている。お囃子もたぶん録音だろう。
ここの祭礼は、11月の第一週。
その前触れなのだろうか。



ここに来て、間もなく一年になる。
早いものだ。





10.6
台風直撃中、取引先の工場へ。



猛烈な雨。



側溝から吹き上げる泥水。



下り坂の途中で冠水する道路。



氾濫寸前の川。



小規模ながら崖崩れ。

豆屋ワンダーランドは雨漏り。
午後から京風が吹くという。
屋根が吹き飛ばされないか心配だ。






10.5
なんとなくごちゃごちゃやっていたらFBのアカウントが取得できた。
とはいえ、見る専門だから非公開だし、記事を書くつもりもない。
かもめさんが店を再開するという。
おめでとうございます。
オレはダメだと愚痴る前に、あのバイタリティを見習わなくてはならない。とはいえ、それができないから、小説にしろ、事業にしろ、写真にしろ、オレはこの程度なのだろう。
もっとも、オレだって完全に諦めた訳ではない。



ホラ大の受賞式と、受賞作インタビューの動画を、YouTubeにアップした。
リンクをprofileに張ってある。
どちらもウイルス騒動以来、角川のサイから消えてしまったのだ。
アホ丸出しだという気もするが、結婚式のスピーチみたいなもので、
本人が考えるほど、他人は何とも思わないだろう。

ホラ大の授賞式は現在角川三賞という形で、
合同になってしまった。
オレがホラ大単体での最後の授賞式ということになる。
規模はその分小さかったが、それはそれでとても良い印象があった。
三賞のパーティは規模がデカ過ぎて、
正直、あまり行こうという気がしないのだ。



今日は雨。
写真を撮りに行けない。
温泉にでも行くか。






10.3
明日は『土浦全国花火競技大会』日本三大花火大会のひとつだという。
隣市の関東の三大祭りや、写真の日本三大稲荷はちょっと怪しい気がするけど、こちらの花火はたぶん掛け値なしの三大花火だろう。行こうかどうか迷っている。オレは人混みが苦手なのだ。



笠間稲荷神社



頭に油揚げ。



仲見世は三分の一ほどシャッターを下ろしているが、
それでも、繁盛している方だと思う。
笠間の旧市街はそれほどに寂れている。

どこも旧市街は厳しいようだ。
オレの住むこの町も同じ。
駅前だというのに・・・。

ただし、つくばエクスプレスなどは、
駅徒歩5分圏内は非常な人気だそうだ。
それが自転車圏になると、とたんに空き地が目立つ。
同じ電車でも利便性に差があるということだろう。
それでも、駅前回帰は緩やかに進行すると思う。
少なくとも、『田舎の郊外』が住宅地として賑わうことはもうないだろう。

たとえば、今住んでいる家の近くの駅。
そのロータリーに面した土地が坪10万円。
オレが以前住んでいた駅から15kmの土地が、
当時同じ値段だった。
25年前。バブル景気の頂点だったときのことだ。

まさに負の遺産。
まったく嫌になる。





10.2
『地方創生国会』だそうだ。
聞いて吹き出しそうになった。再生じゃなくて創生かよ。
つまり今まで地方なんて存在しなかったってことだ。



昨日、ドル円相場は110円を付けた。
行き過ぎた円安だと、経団連は言ったという。



ちょっと調べたところ、
アメリカで買う米は10s=20$くらいだそうだ。
日本で買う米は10s5.000円くらい。
つまり米を基準にすれば1$250円が妥当ということだ。



経団連のお偉方、つまり資本家の連中は、
他国から安くモノを買うためなら、
自国の農家はどうなっても良いらしい。
それで、口からでるのは
国際競争力だのグローバルだのだから恐れ入る。
いや、もっともか。



地方に住んでいて一番腹立たしいのは『工業団地』という存在。
都市の資本家が、地方の労働力を安く搾取している象徴だ。
そうでないというなら、都市部の労働者と同じ賃金を払うべきだろう。
用地も本社所在地と同額で買って貰いたものだ。



地方を活性化したいなら、
地方にカネを払うしかないだろう。
補助金だのという話ではない。
オレは農業従事者ではないが、
つまり、地方の物産を妥当な値段で買えということだ。
地方特有の物産を買い叩き、それで地元の人が生活できないとなると、
今度は工業団地を作って安い賃金でこき使い、
それで、町おこしだの、人材活用だの言われたって、
それどころじゃない、というのが本音なのだ。



農家だけではない。
『大店法』
あれのせいで、地方の商店街は壊滅した。
資本家は海外で安く作った物を、
地方にばらまき物欲を刺激した。
稼ぎもないのに、買うだけは買えという訳だ。
金は循環せず、資本家に向かって一方的に流れた。
これで、地域が生きられるはずがない。



明治維新以降。つまり富国強兵策によって、
地方は都市の植民地に成り下がった。
豊かな自然を資本家が安く買い叩いたのだ。
アフリカ諸国が植民地開拓時代に、
列強が持ち帰った様々な資源の返還を要求していると聞いたことがある。
この国における、都市と地方の関係も同じだ。



東北地方は独立した方がいいのかもしれない。
通貨を両にして、変動相場にする。
円に対して両は安くなるだろう。
そうすればTPPがどうなろうと、
農産物の競争力は優位に保てる。
日本国から輸入する工業製品は馬鹿高くなるが、
豊富な食料があって、ゆったりと暮らしたいという人は少なくないはずだ。
それが嫌なら日本国に出ればいい。
東北国の人口が減れば、生活はむしろ豊かになるだろう。
1人当たりが使える自然の量が増えるのだから。



あり得ない話に違いないし、
地方の活性化や為替についても、
そんな簡単なものではないだろう。
でも、どれほど工業が進んだとしても、
食料を生産できるのは豊かな自然だ。



自然がなければ都市の人間も生きられない。
タンパク質合成でもできる様になるなら話は別だが。





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