11.30 横浜、山下公園の外れに鋼鉄製の高い壁があった。 その先はアメリカ軍に接収されているのだと母がいった。 駅の地下道に義足や義手をした人たちがたくさん座っていて、アコーディオンを弾いていた。 傷痍軍人という人たちなのだと、小さな声で母がいった。 昭和40年代のことである。 オレが、直接知っている戦争は、このふたつだけだ。 これ以外の全ては、間接的に知った知識である。 |
11.28 原油価格が急落している。アメリカのシェールオイル増産が原因のひとつらしい。産油国となった米国によるOPEC掌握も時間の問題かもしれない。もはやアメリカは自国産の油で、消費の全てを賄えるそうだ。イスラム国に対するアメリカの態度がイマイ煮え切らないのはこのためかもしれない。 そのうち米国産の油が日本にも入ってくるだろう。そうなれば、軍事、食料、エネルギー。全てアメリカの思いのままだ。そのことがあっての円安容認というか、ドル高誘導でもあるのかもしれない。少なくともこの急激な円安は、この原油安となんらかの関係があってもおかしくないような気がする。 日本は米国ではなく、自国の米を死守するべきなのかもしれない。 |
11.28 一軒隣りにある商工会のイルミネーション。 都会のそれに比べれば、はなはだショボい。 でも、オレは気に入っている。 表参道のイルミネーションは、そりゃあきれいかもしれない。 でも、都市は明るすぎる。 ここ、北関東の田舎町は、駅前といってもかなり暗い。商工会の広場はなお暗い。 だから、ショボいイルミネーションでも、それなりに幻想的になる。 その上、人もろくに通らないところに忽然としてあるので、きれいを通り越して、ちょっと不気味な雰囲気すらある。 それがまた良い。 |
11.27 釣り船の船長の息子なのだと思う。 帰港した船の舳先で得意気に竿を振っていた。 気に入った写真で、写真俳句に使いたかったのだけど、彼の顔にはアトピーの症状がある。 仮に入選したとしても、本人や両親に知れることはないと思うが、やはり諦めることにした。 |
11.26 北関東の田舎町。雨。明け方に風が吹いたらしい。窓を開けて寝ていたら、顔に雨の滴が振り掛かってきた。 |
11.25 毎朝腰がピリっと痛い。 時には布団を上げられないほどだ。 まあ、このくらいなら別にどうということはないが、昨日あたりから、どうも腰が重く感じる。 疲労が溜まっているのだろう。 気を付けないと、ギックリ!と、なりそうだ。 |
11.24 公園にトリ撮りに行った。 以前、オナガを見かけたのだ。 |
11.22 1.111円買った400株を、1.119円で売ったその翌日。つまり昨日。同株暴騰。ほぼストップ高の1.400円。 ありえねえ・・・ |
11.21 決してたくさん残っているとは言い難い人生の貴重な時間を、売れもしない小説を書いて浪費して良いものだろうかと考える。 とはいえ、他にやりたいことも、できそうなことも、やるだけの価値がありそうなことも見つからない。 |
11.20 今朝は寒い。 |
11.18 福島との県境まで海の写真を撮りに行った。 写真俳句用の撮影である。 フクシマの四文字を是非、詠み込みたいと思ったのだ。 が、あまり良い写真は撮れなかった。 狙って撮れるほど、オレは上手くないという訳だ。 |
11.15 友人の木工作家が『第61回伝統工芸展』に入選したようだ。 オレの知る限り二度目の入選。 どこにも属さず、師も持たずに工芸の世界で結果を出すのは至難の業だろう。 が、本人は『木を削るのが好きだから』と、大した欲もないらしい。 作品を搬入するときは、保険の関係だろう、必ず作品に値段を付けるというが、いつも一万円にしているという。 『百万とか三百万とか、そんな値段を付けている連中が多いけど、馬鹿じゃねえの』と、彼はいう。 作品を買いたい、扱いたい、と、業者からの引き合いもあるそうだが、売る気はないの一点張りだそうだ。 |
11.14 寒くなってきた。 |
11.13 新作のラストはクリスマスイブにしたい。 某所を脱出した主人公。雪の降り始めた町を走る。やがて洋菓子店から出てきた家族を見る。そしてある決心をする。というオチ。 ただ、ラストを冬にするなら、書き出しの季節をいつにするか。 本当は冬から書きたいのだが、短編の時間経過で一年はちと長い。 |
11.12 友情・努力・勝利。少年ジャンプの三大原則だという。同誌は掲載作品に対し、最低このうちのひとつは必ずテーマに盛り込むことを編集方針としているそうだ。 感動する、あるいは泣ける小説の三要素というものある。 自己犠牲・近親者の寂滅・弱者救済。だ。 もっとも、オレの考察だからあまりアテにはならないことを断っておく。 日本人は、(というと、あまりにも大雑把だし、他国の事も知らないが)、上記の中で、特に自己犠牲に弱いような気がする。漫画、小説、映画、における感動物語の、ほとんどにその要素が含まれているのではないだろうか。 先頃、どこぞのハゲが書いた『永遠のゼロ』という小説がずいぶん売れたというが、まんま上の三要素が当てはまるようだ。読んでもいないのに、こんなことを書くのもナンだけれど、作中の大半を占めるという戦争の史実、あるいはそれに基づいた経験者による文献の引用を下敷きにして、泣ける物語を作り上げた作者の罪は重いと思う。 たとえ、内心では反戦の意思を持っていたとしても、戦争に加担した側の人間を主人公に据え、先の大戦を題材に、自己犠牲・近親者の寂滅・弱者救済、といった、安っぽい概念を取り込んで、泣ける感動作品に仕上げるのを、右傾化というのだが、多くの人はそこに考えが及ばないらしい。ただ、一部の作家の慧眼はそれを見逃したりしていないようだ。 戦闘機に爆薬を満載して、敵艦に突っ込む行為を美化してはならない。たとえ、それが、誰かを救う行為であっても、それは同時に敵という人間を殺す行為である。とはいえ、それをしてただちに加害者のレッテルを貼る訳にもいかない。個人の力はそんなに強くない。彼等は被害者でもあるのだ。国家が悪で個人が善だという論法も賛成できない。国家とは個人の集合なのだ。善悪不可分。そこに兵士を描くジレンマがある。だから、読者に一方的な感情の流れを起こさせるこの手の作品に、オレはどうしても胡散臭さを感じずにはいられないのだ。 一方的な正義もなければ、一方的な悪もない。それどころか、突き詰めれば、この世には、悪もなければ正義もない。 まあ、色々書いたけど、要約すると、オレはあのハゲが嫌いだ。 ということなんだけどね。 |
11.11 体力がないのがオレの最大の欠点だ。次に学力不足。資金不足。短足。毛髪不足。足るを知れというけど、オレの辞書には前に不が付く足ばかり。やれやれ。 |
11.10 日曜日のたびに雨が降っているような気がする。 それでも午後からカメラを持って出かけた。 寒い。 暖房をいれていたら眠くなった。 通り掛かった運動公園に車を停める。 気が付くと夕方。 無理に感度を上げて撮影。 冬鳥がたくさん渡ってきていた。 |
11.9 唐突だが、唐突感について述べてみたい。もちろん小説におけるそれのことだ。 唐突感。これとの戦いは、書き手にとって、もっともやっかいなもののひとつだろう。唐突感は読者の興を削ぎ、白けさせ、場合によっては本を閉じさせる。 だからといって、唐突な言動をとらない登場人物が延々と日常を繰り返していては、読者は飽き飽きしてしまう。特にエンタメ系において、退屈というレッテルは最悪の評価だと考えていいだろう。 小説には多様な面白さが存在するとしても、必ず共通しているのは異質の存在である。どれほど日常を描いていても、そこに異質がなければ小説とはなりえない。また、どれほど異質を描いても、異質が日常と化してしまえば、それはもはや退屈な読みのもに過ぎないのである。 小説の本質は異質との邂逅にあり、異質の発見こそ、小説家の資質なのだ。 しかし、異質は異質であるがゆえに、常に唐突感を持って迎えられる宿命にある。しかも、異質こそ小説の本質ということは、最大の異質は必ず作品のクライマックス、あるいは核心部分に存在するということを意味している。 異質が小説の核心だということは、つまり異質が大きければ大きいほど良いということである。しかし、大きければ大きいほど日常との乖離は顕著で、それをそのまま書いたところで、激しい唐突感から逃れることはできず、もちろん読者の理解は得られない。それをどう乗り越えるか。そこが、名作と駄作の境界といえるだろう。 さて、せっかくだから蜜虫さんの作品を例にあげて、もう少し書いてみよう。 異質との邂逅はこの作品でも見られる。最も顕著なのは、主人公と塔田の出会いの場面。出会いといっても初対面のことではなく、塔田の持つ異質との出会いという意味だ。逆説的に言えば、若干とはいえ、唐突感を持たれるのは塔田が異質であり、この作品の核心であることの証左といえるだろう。 さて、読者が唐突感を覚える原因にはいくつかの種類がある。 未熟な書き手に多いのは、人物造形の不足。この主人公はこんなこと言わないし、そんなことしないでしょ。つまり作者がひとりよがりに陥っているのである。 次は、行動原理の説明不足。 『月の林檎』において、やや唐突感を覚えるのは三か所ある。 これがそれに該当するとオレは思っている。 ひとつめは、早紀子を抱き寄せる場面。 ふたつめは、早紀子をアパートに連れて行く場面。 みっつめは、早紀子の服を脱がせる場面。 どれも教師にあるまじき行為。つまり異質との邂逅である。 そして、作品の転換点であり、最も重要な場面といっていい。ここを見事に書き切れば、ラストは自然に決まってくるし、この場面における異質との出会いが大きければ大きいほど読後の余韻の大きくなる。 作者はそれを本能j的に知っているのだろう。あるいは身に付いた知識として持っているに違いない。それこそが作家に成り得る重要な資質のひとつであり、それを書き切るのが、作家となるために最低限の力量である。 そして、この書き手はそのどちらも、小憎らしいほど見事に持ち合わせている。 早紀子に肩を描いて欲しいと頼まれ、その場で、服を着たままさらさらと描いたのではダメななのだ。それでは唐突感はなくても小説にはならない。そのことを知っていて、作者はチャレンジしているのである。 オレは、唐突感を覚える原因のひとつに行動原理の説明不足を挙げた。しかし、当たり前だが、説明すればいいというものではない。過ぎたるは及ばざるを持ち出すまでもなく、書き過ぎれば唐突感どころか、読者はガッカリ感を持つだろう。 最低限、最小限の説明、あるいは描写であることが必要なのだ。作者が、精緻に人物を造形するのはそのためである。この人物ならそうするだろうと、読者に思わせるということだ。 『月と林檎』の作者もそれは充分に承知し、そして細心の注意を払って筆を進めている。 彼女に文章技法を説くのは釈迦に説法だろう。まして、原稿に朱を入れるような真似は、ただ恥を掻くだけのことになるかもしれない。でも、せっかくだから、上に挙げた、やや唐突感がある個所に、オレ流で数行加えてみることにする。行動原理の説明だ。 まあ、ご愛嬌ということで、カンベンしてもらおう。 それぞれ、ピンクが原文。緑がオレの加筆。 早紀子を抱き寄せる場面。 手首を、骨ばった長い指がつかむ。振りほどくと、またつかまれる。 「君の目は姉に似ている」 塔田が目の前に膝をついて、早紀子の顔をのぞきこんだ。 二の腕を掴まれ、引き寄せられるままに、早紀子は、塔田の胸へ顔を伏せていた。 「悪かった」 低めの体温。コーヒーの苦い香りに、気が遠くなる。 「……先生、私を描いて」 早紀子は、言葉を押し出した。 「私の肩を描いて。そうすれば……私、また野球ができそうな気がするから」 早紀子をアパートに連れて行く場面。 「学校ではろくな画材がないからね。それに、描くならきちんと描きたいんだ」 夕暮れの道を、古びた軽自動車の後ろに乗っておよそ二十分、名前も知らない商店街に出た。通りの端にある画材店の脇に車を入れて、塔田は、店の中に声を掛けた。大小の額縁が収まった、今にも倒れそうな棚の奥から、「今日は早かったね」と、のんびりした声が返ってくる。二言三言会話した後、塔田は早紀子を促して、店の外壁についている急な階段を登った。赤い錆がスニーカーの底にざらつく。 早紀子の服を脱がせる場面 電車が過ぎて、静けさが落ちた。 「上、脱いで」 「えっ?」 「肩を描いて欲しいんだろう?」 「はい」 「なら服を描いても仕方がない」 いわれれば、その通りかもしれない。 淡々と投げかけられた声に、早紀子は従った。 セーラー服の衿からスカーフを抜き取り、上着を脱ぐ。 (――でもこれって、ばれたら、相当やばい) 社会は異質を待望している。 本質とは現在であり、異質とは未来だからだ。 小説は、そのすべてが異質を通じて希望という未来を描いている。 表現の方法としてのテーゼとアンチテーゼの差があるだけだ。 未来は希望に満ちているとは限らない。 それを知っているからこそ、物語は未来への希望として書かれ、そして読まれるのだ。 だから、本当の意味で絶望の物語を書ければ、それは間違いなく名作となるだろう。 果たして、それに意味があるかどうか、オレのごときが知るはずもないが。 |
11.8 『贅沢品』という作品を読んで感想を書いた。 著者は80歳になる医師だという。 広島市出身、京都大学卒。オレには京大卒のカノジョがいるから親近感を覚えた。もちろんそれを知って作品を読んだのではないが、感想を書く気になったのは、関西人特有の飾らない雰囲気があったからかもしれない。カノジョもバリバリの畿内美女なのだ。 知り合いにもなぜか関西人(鈴鹿以西の出身者)が多い。知り合いといっても、ほとんどはネットのそれだが、その比率は9割近くにも上るだろうか。断っておくが東京人が嫌いという訳ではない。ただ、結果としてそうなっているということだ。 彼等はあけすけにモノをいう。隙あらば冗談を言おうとする。というか、モノゴトを正しくではなく面白く捉えようとする。面白ければ何でもいいというのではなく面白さの中に本質を見ようとしているのだ。本音と建前を使う言分けるのが関東人なら、白黒の境界に本質を見ようとしるのが関西人ではないだろうか。 そりゃあんた、いい時もあれば悪い時もあるで。 これが関西人の発想で、 君、悪いときこそ頑張るときではないかな。 これが関東人。まあ、大雑把過ぎる上に、あまり的を射ているとは言い難いが。 オレはアメリカ人とイタリア人が好きなのだが、関西人も似たような印象がある。少なくともフレンドリーであることは間違いないだろう。 その、大丘医師だが、ちょっと調べてみると、足立氏と知り合いらしい。足立氏というのは、かもめさんのブログでたまに名前を見かけたことがある。対話したことはないが、優れた書き手のようだ。足立氏を通して、大丘医師と、かもめさんが繋がっていると思うと、ちょっと笑ってしまった。何しろあまりに対照的だから。(失礼) |
11.7 しつこく、例の作品についての考察。 オレに近い位置にいる書き手が二人、似たような感想を述べている。 なぜ面白いと思えないのか、自分にも分かりませんでした。その理由を考えていたら、すっかり出遅れてしまいました。 いつもの冴えだとかキレだとかが感じられませんでした。 それがなんでなのか解らなくてじゃね、もやもやしていたというわけじゃ。 そして、オレはこう書いた。 彼等は、怪我や、近親者の病気という社会と対峙しています。 しかし、解答を出すには至っていません。 作者が逃げているといえば言い過ぎかもしれません。 しかし、オレには、作者が作品という五角形に歪みを生じるのを恐れているように思えます。 オレは答えを出していないと書いた。しかし、主人公である早紀子は、ピッチャーからキャッチャーへ転向するという答えを出している。そして、最後に以下の内面描写がある。 『早紀子は、自分の輪郭がほどけ、無数のバラバラの線になって、スケッチブックから躍り出ていく様子を想像した』 作者はこの一文によって、早紀子の解放と決意を表したのだろう。 これからは塔田がいなくても、スケッチブックに描かれなくても、自分の道を歩いて行ける、と。 そのとき校舎の上にある欠けた月は、失明した姉によって歪んでしまった塔田を暗喩していると考えて良さそうだ。 それでも、オレは答えが出ていないといい、上記の二人はもやもやするという。なぜか。あるいは、なぜそう感じるのか。 塔田の姉に全ての問題があるのだと、オレは思う。 失明した天才的画家である塔田の姉は、行方知れずとなった。 自殺したのでもなければ、新たな道を見つけたのでもない。 『四度目の移植も失敗して、姉は、姿を消した。』 とあるから、あるいは自殺したと考えてもいいのかもしれない。しかし、やはり曖昧である。いや、姉は曖昧でも構わない。でも、塔田は違う。彼は、姉の行動から、『確固たる何か』を掴まなければならないのだ。確固たる何かが、良く分からない何かでも良い。あるいは確固としていなくても構わない。ただしそれは、塔田という人間を背後から支える何かでなければならない。 そうでなければ、主人公である早紀子の、キャッチャー転向という答えは、答えとしての後ろ盾を無くしてしまうのだ。 失明し、行方不明になった姉から、塔田は今後の生き方を決定付ける何らかの答えを掴む。 そして、その答えに基づいて行動する塔田に接することで、早紀子もまた、自分の答えを見つけ出す。 これが、この物語の基本構造であるべきだろう。 そうでなければ、この物語における、塔田の姉の存在は意味がないことになってしまう。 姉が存在理由を失えば、塔田という人間のするデッサンも意味を失う。塔田のデッサンは塔田自身といってもいい。当然、そのデッサンによって導かれた早紀子の答えは、そのデッサンによって裏付けされなければならないのだ。 デッサンが早紀子を解放したという答えは、即ち、塔田の姉の失明に源を発している。くどいようだが、塔田のデッサンは、姉の失明という、塔田を構成する最も核心的な部分を支えているからだ。 作者は、画家が失明するとは何か、という問いに、どうにかして答えなければならなかったのだと、オレは思う。その答えこそが、この作品を貫くテーマとなるはずだったのではないか。 画家の失明という現実を前にしたとき、そのテーゼ、あるいはアンチテーゼの表れとして、最もふさわしのは、失明後の画家の行動に違いない。 しかし、今作において、それは『姿を消した』という非常に曖昧な記述しかない。 この作品における最も大きな欠点があるとしたら、このことのような気がする。 ひとつの苦悩を救うのが、より大きな苦悩であるとしたら、肩を壊したピッチャーを救えるのは、視力を失った画家であるに違いない。 つまり、この作品において、作家が救済を行うとしたら、自らが画家となって失明する以外にないのである。 画家の失明を本気で考える。執筆とはそういう行為であり、作家の仕事とは本来そこにあるのだとオレは思っている。 億劫なことだ。 |
11.6 角川三賞の招待状が届かない。 毎年この季節だったような気がするのだが。 いよいよオレも本格的に干されたか。 |
ぼんやりと眺めるグランドには、一つ結びの長い髪をなびか せ、ひときわ伸びやかなフォームでボールを投げる、小柄な少 女の姿があった。今年の夏までは控えのピッチャーだった、同 じ二年生の相川玲奈だ。グラブを高くかかげてボールをキャッ チした玲奈の、日に焼けた顔は、きっと笑顔にほころんでいることだろう。そのぱっちりとした瞳が、不意に自分のいる四階の窓を向いた気がして、早紀子は、思わず顔をそむけた。 |
ひとり頷き、部屋を出ようと身を返したとき、足がずるりと滑って転びそうになる。見ると、上履きが紺色の布を踏みつけていた。いったい何だろうと布をたぐってみると、作業台の脚に立てかけられた、モノクロの人物画が目に飛び込んでくる。どうやら、絵に掛かっていた覆いを踏んでしまったらしい。 |
11.4 靴下を買いに行ったのに、帽子を買って帰ってきた。本末転倒。頭熱足寒。カッコと実用。どっちが大事なのか。 でも、靴下の穴は簡単には見つからないが、ハゲはすぐ分かる。それも道理だ。 |
11.3 昨日は祭礼二日目。せっかくだからとカメラを持ってウロウロしてみた。 |
11.2 昨日と今日は地元、六所神社祭礼。 この家に引っ越してきたのが、去年の祭礼直後のことだった。 売買契約を数日後に控え、まだ入れない家の前で山車や幌獅子を見たものだ。 あれから一年。あっという間のことだった。 |