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2012年3月
3.31 朝からなま暖かい風が吹き荒れている。 March comes in like a lion and goes out like a lamb. イギリスの諺ってヤツはアテにならねえ。少なくとも今年に限っては。 |
3.30 官民ファンドが、書籍のデジタル化を支援する新会社『出版デジタル機構』に150億円を出資したという。著作がデジタル出版だけになれば、多くの書き手の収入は激減するはずだ。書き手のほとんどは専業主婦と、若い独身者になる。オレのような書き手は絶滅するだろう。 |
3.29 知人の息子が家を出て寮に入った。古い鉄筋コンクリート。今どき珍しい、風呂、トイレ、キッチン共同。管理人もいない。それでも格安の家賃は魅力的だ。 |
3.28 『頑張ろう』という気持ちになれない。正直、もううんざりなのだ。やめる覚悟はとっくにできているから、すぐにでも手を引いて構わない。それが可能ならの話だが・・・。 |
3.27 『口喧嘩で負けたことが無い』 そういって憚らないヤツを何人か知っている。恥ずかしげもなくそういう彼らは、自分が客観的であり、理論的でり、したがって、真実を見抜くことができる論客だと思っているらしい。たぶん、学業優秀、知識豊富で、討論(もどき)をしても連戦連勝だったに違いない。 『口喧嘩と、討論の違いくらいは認識している』 連中は、たぶんそういうだろう。本当だろうか。もし、本当に口喧嘩と討論の違いを知っているなら、『口喧嘩で負けたことがない』などという破廉恥な言葉を、どうして自慢気に言えるのだろうか。 連中に異論を唱えたことがある。すると連中は決まって、こんなことを言う。 『じゃあ、お前はどう考えているのだ』 『どれほど知識があって言っているのか』 『○○教授の本にも書いてある』 『過去の事例を調べたのか』 果たして、これが討論の何たるかを知っている人間のいう言葉だろうか。彼は最後にこんなこともいった。 『じゃあ、好きにすれば』 相手を嘲るような態度は到底知識人のそれとは思えなかった。 他者の価値観をいくら上手に否定してみせたところで、自説の正当性を証明したことにはならない。連中だってそのくらいのことは分かっているはずだ。にもかかわらず、ヒステリックに上記のセリフを繰り返し、相手を論破、いや、口を封じ、恥をかかせ、そのことによって自分が上位であろうとする態度に、オレは心の奥底に潜む、歪んだプライドと、巧妙に隠されたコンプレックスを見たような気がした。 なぜ他者の頭を踏み台にして、相対的に高い位置に立とうとするのだ。なぜ自分の足だけを頼りに、絶対的な高みを目指そうとしないのだ。 |
3.26 昨日は所用のため赤坂に行った。すっかり田舎モノのオレは、車を停めるのも心配だったけど、何事もなく無事に用事を済ませることができた。トーキョーかあ。金持ちと若者の住むところだな。 |
3.24 小説のことを考えない日はない。でも考えるだけだ。それもストーリーなどではなく、世界をおぼろげに想像するだけ。 壁紙をピンクのガネーシャにした。タイにあって、国内最大だそうだ。 雨が止んだ。明日は東京行き。色々荷物もあるから、今日は準備で落ち着かない一日になりそうだ。 迎賓館の前も通るかな。あれはベルサイユ宮殿のパクリだな。 Je plaisanto 冗談だよ。 |
3.23 『もう少し色が欲しい』 オレのことを指して知人がいう。 色かあ・・・。 うーん。確かにオレは自分で言うほどエロでもないし・・・。 カラーより、空(カラ)。 天然色より、足んない職だもんなあ。 |
3.22 単行本版『化身』が、角川書店で売り切れになった。文庫が出ているので重版にはならないが、それでも、版元で売り切れたというのは朗報だ。 昨日はウグイスの初音。春近しだな。オレはさっぱりだけど。 |
3.21 ローマの雀は人を恐れないという。ロサンゼルスの雀もそうだった。パリの雀はカフェのテーブルに乗って、パンのおこぼれを催促するだろう。雀が選択する人間との距離は、その地域の文化度を現わしていると思う。横浜、山下公園の雀は2メートルほどだった。東京ディズニーランドでは1メートルくらいだろうか。ここ北関東の田舎町は5メートル以上ある。しかし、それは文化度が低いと同時に、人がまだ土に生きている証拠でもある。 |
3.20 今日は春分の日。ボンビーが極まったオレにとって、祝日など何のカンケーもない。借金のアテがまだあるとはいえ、そんなことを思うにつけ、春の日差しさえ腹立たしく見える。もう少しでいいから、本が売れてくれれば、何でもなかったのだ。 オレに無いモノふたつ。金と携帯電話。でもね、もしこのふたつがあったら、オレはきっとロクデナシになっていただろう。まあ、今だって充分ロクデナシだけどね。 |
3.19 横浜に行った。山下公園で写真を撮って、それから鎌倉街道を南下して実家へ。中学の頃、毎日のように自転車で走った道は、それぞれの駅前はすっかり変わってしまったが、それ以外の所は、かえって寂れてしまったように見えた。地域格差は、都市と地方という大きな枠組みだけでなく、都市の中でも、駅周辺とそれ以外という形で進んでいるようだ。人口が減少する時代、それはさらに加速するに違いない。資本家は更に資本を増やし、労働者は力を失い、そして貧困層は増加の一途をたどるだろう。都市で失敗した者に帰る場所はない。長い淘汰の時代に入ったような気がしてならない。 |
3.17 人間は生まれながらにして自由である。それは、まったくの自由で、誰に対しても、何に対しても、義務も制約も一切ない。善と悪が現れる遥か以前のことだ。もし貴方が小説を書く者だとしたら、このことは常に意識しておくべきである。 しかし、まったくの自由では具合が悪いと、契約書を受け取った者がいたらしい。まあアダムとイヴがリンゴと食べたせいか、パンドラの箱を開けたためか知らないが、野放しにしておけば、何をしでかすか分からないのだから、それもまた悪いことではないのだろう。 個としての人間もまた、契約を結ぶ。最初の契約がいつ行われるのかオレは知らない。生まれた瞬間なのか、あるいはそれ以前なのか、はたまた、自我が芽生える直前なのかもしれない。 相手は神である。『殺すなかれ』は、種としての本能かもしれないが、『盗むなかれ』『姦淫するなかれ』は、明らかに神との契約である。この国では社会との契約といった方が適切だろうか。 次の契約相手は法だ。その次は国。そして、学校や会社とも次々と契約を結ばされることになる。人間が本来有する権利はことごとく規制され、後に残るのは金魚蜂の中の金魚ほどの自由だ。 まったくの自由は、かえって不自由なものだという理屈は間違ってはいない。しかし、それは自由が快適を手に入れるための道具だという前提においての話である。自由とは何か。何のために存在するかという問いとは自ずから次元が違う。 『人間とは何か』『人間とは如何に生きるべきか』 ここに小説のテーマを置くなら、契約を結ぶ以前の人間を知らなければならない。そのためにも、限りなく個であることが必要なのだ。 個があって、初めて群れが存在する。そして、その群れとは個と個の契約で成り立っている。 『殺すなかれ』 それが、群れとの契約なのか、種の本能なのか、神に課せられた義務なのか、それを、個人として考えるのが小説を書くという、あるいは純文学という行為なのだ。 国との契約や法、あるいは出典も定かでない安っぽい倫理を持ち出し、それが正義であるかのように自由や権利を語るのは、それが書き手であるなら、醜であり、時として悪なのだと認識した方がいいだろう。 |
3.16 日曜日は東京行き。急に決まった。どこかで昼飯を食って、ひとり夕方までブラブラするつもり。いつもなら自転車を積んでいくんだけど、まだ寒そうだ。電車で新宿にでも行くか? それとも、若洲あたりで、海を見ながら車中で昼寝というのも悪くない。 |
3.15 梅が咲き始めた。でもまだまだ寒い。懐具合も、小説の構想も。 |
3.14 ホワイトデー。出版社のねーちゃんにチョコ貰ったけど、お返しはヘンなプロットでカンベンしてもらおう。 |
3.13 ロケットが発射される際、カウントダウン方式で秒読みが行われるのは広く知られてるが、発射時にゼロとなってから、今度は1、2、3という具合に続けて秒が読まれているのは、発射の爆音に遮られていることもあって、気が付かない人も多いかもしれない。 3.11が過ぎ、早くも今日は3.13である。 |
3.12 昨日は海に行った。海運事務所に半旗が掲げられていた。風が強く波が高かった。それでも、春の訪れを知らせて日射しは強さを増していた。 |
3.11 あの日、オレは借金の借用書にサインをしていた。 『ここに、印鑑を』 銀行員がいったとき、激しい揺れに襲われた。 あれから一年。再び経済的危機。小説の在庫もなくなった。 勝てるとは思わない、でも、オレはどーしても負けたくない。 |
3.10 『明日のことは明日が思い煩う』 その通りだと思う。 昨日の新聞に、方丈記に例を引いた劇作家の記事が出ていた。 『いっさい執着してはならないというのが仏さまの教えだ。だから無常観にも執着してはならない』 14年連続で、自殺者の数が3万人を超えたという。明日のことを思い煩い、無常観に飲み込まれた結果だろう。ともすればオレも似たような答えを出しがちだから、分かったようなことは言い難い。 『時が解決してくれる』 この国のそんな言葉に現実味があったのは、ふた昔くらい前までだろうか。今は、時が経てば、それだけ悪化の一途を辿る世の中だ。 『時は金なり』 Time is money を、例によってこの国独特の窮屈な精神論に当てはめ、寝る間も惜しんで働きに働いた結果、マネーの奴隷になり下がってしまったのだ。金利は日を追って嵩むという意味に取った方が自然なくらいだ。 日本人は、無常観を抱えたまま頑張るという伝統があると、上記の劇作家はいう。それが震災によって戻ってきたように感じるという。 『全てのことに時がある』 手を伸ばせば遠ざかるものは確かにある。積極的に待つのも大事なことなのだ。 |
3.9 純文学などというものは存在しない。 先人が、この美しくも空疎な名前をを生みだしたときから、この国の文学は迷走を始めた。小説には文学足り得るものと、そうでないものがあるだけだ。そして、その間に曖昧という名の、やたら幅が広く、しかも蛇行を繰り返す川が流れているばかりである。 言葉の持つ音感やイメージに惑わされてはならない。 文学の上に『純』を付けずいられなかった、この国の生真面目なインテリ・・・いや、失礼。当時の文壇には必要かつ有効な言葉だったのだろう。先人には敬意を表する。しかし、今日でもまだ、そんなものが存在すると信じている現代のインテリの頭の固さというか、悪さは特筆に値する。 仮に純文学という言葉が成立するというなら、なぜ純音楽や、純絵画はないのだ。 おかしいと思わないか。つまり、文壇や画壇はあっても、音壇や彫壇がないのと、理由は同じなのである。要するに語呂が悪いということに過ぎない。考えるまでもなく、文壇も画壇も、確固たる存在ではない。せいぜい業界という曖昧な括りを、格好付けてそんな名前で読んだだけのことだ。さすがに文壇という言葉はダサイと思うようになったのか、今では死語となった。それはそうだろう。実態がないのだから。 言葉の力とは怖ろしい。 純文学。実に魅力的ではないか。その魅力が無用のカテゴリーを生んだのだ。カテゴリーが生まれれば、そこに序列が生じ、同時に権威が生まれる。つまりカテゴリーとは、体制の温床ということだ。 純文学とは、本来、文学足り得る作品の中でも、より芸術性が高いものという意味だろう。しかし、カテゴライズはそれをより窮屈なものにしてしまった。芸術とは、つまり娯楽の極みである。なのに、純文学という言葉は、その美しさゆえに本来の意味を失い、娯楽性を排除しようとする力を生んだ。文学の多様性を阻害するベクトルの象徴となった。 だいたい、小説を『純文学』と、『エンタメ』に二分するという大雑把加減は、いったいどうしたことだ。出版社は高学歴を誇る社員が大半を占めている。高学歴の人間が考える文化とは、そんなに単純なのか。 最高の文学は、最高のエンターテインメントであり、エンターテインメントをより深く追求すれば芸術性が生じるのは当たり前のことなのに、純文学という言葉の美しさに飲まれて、よく考えもせず自らの世界を狭め、権威を助長し、可能性を門前払いしていることに気が付かないのだろうか。オレはその愚かさに失望し、時に怒りさえ覚える。 関係者には、是非再考してもらいたい。 |
3.8 大事なのは求めるという能動性であり、教わるという受動性ではない。そのことを本能的に知る者は個へと進み、知らない者は体制へと没するだろう。 心配はいらない。それが本物の個性なら、たとえ貴方が仲間を求めても、貴方の魂が仲間から離れようとするはずだ。そして、それが巨大な個性なら、仲間の側が貴方を拒絶する。 オレのいうことに違和感を覚える者もいるだろう。反論を試みる者もいるだろう。あえていう。論の正当性を証明するのは、言葉でなく実績だ。正しい方法論が結果を残すのではない。結果を残した方法論が正しいのだ。どれほどご立派な意見を並べ、口角泡を飛ばしてブンガクを論じようと、結果が伴わなければ、所詮酔っ払いのタワゴトでしかない。酔いが醒めれば、みじめな気分になるだけだ。 『やるヤツは黙ってやる』 きらめく個性を身に纏った書き手が、突然現れるのはそのためだ。 蛇足だが念のために言っておこう。オレは他者を否定しているのではない。 『他者の意見』の重要性を真に知る者は、それを全身で拒絶する者だ。大切なものは、自ら近寄れば遠ざかる。欲しいからといって、安易な気持ちで手を伸ばしてはならない。心から求めれば、それは向こうからやってくる。 |
3.7 思ったことを書く。あるいは口に出す。このことは書き手にとって、とても重要だ。相手を傷つけるかもしれないとか、攻撃を受けるかもしれないという理由で、書くのをためらったり、口を閉ざしたりするのは、書き手として本来唾棄すべき行為である。まして、そのために自分が傷付くかもしれないという意識が元にあり、それを自認できないとすれば、それは書き手としての資質に欠けるといっても過言ではないだろう。もっとも、そういうヤツばかりなのが現状であり、そういう輩の書くモノが歓待される昨今のようだが。 心の中でいくら考えても、言葉にしなければ意味が無い。モヤモヤしたその感情が、怒りなのか、哀しみなのかを認識し、またそれは、突き詰めた時、いったい誰に対するもので、どこに由来するのかを、しっかりと見極めるためにも、言葉という形にすることは不可欠である。 言葉を発すれば、発した数だけ傷ができる。傷もできない言葉は書き手の言葉とはいえない。たったひとり、己の感性を頼りに、信じた言葉を吐き続けるのが、作家の生き方だ。それは裸で藪の中を走るようなものかもしれない。しかし、だからといって、本の知識を纏ったり、仲間という防護服を身に付けてはならない。自分を安全な状態に保ちたいという欲求が、楽に藪を抜けようとする怠惰な心が、書き手としての生き方を曖昧にし、作品を安くするのだ。 多くの者はそれを滑稽な姿として笑うだろう。しかし、その嘲笑の向こうにしか、ホンモノはない。多数の者が簡単に理解できる真実など、もやは手垢にまみれて使い物にならない。だから、安易に本に頼ったり、他者の知識をあてしたりしてはならないのだ。 嫌らしい自己愛の上に被った自己弁護の帽子と、自己欺瞞に満ちた現状肯定の服を脱ぎ捨てるところから始めなければ、文学などできはしない。まして『純』文学を志すのであれば、なおのことである。 『自分はそうではない』 もし、これを読んだ貴方が、そう思ったのなら注意が必要だ。自分は自分を騙す名人なのだ。 |
3.5 純文学系の小説作法を教える学校があるという。思わず口に含んでいた紅茶を吹き出しそうになった。通ってるひとには申し訳ないが、小説学校というだけで、オレにはちゃんちゃらおかしいのに、純文系というから驚いた。純文学の何を教え、何を習うというのだろう。まさか『てにをは』ではあるまい。 井上ひさし氏の著書によれば、母語は道具ではなく、精神そのものであるという。それが言語学者の近代における共通認識だそうだ。純文学が母語を使った芸術だとすれば、そこに書かれているのは、書き手の精神そのものだと考えて、ほぼ間違いないだろう。 精神そのものを教えてくれる学校とはいったい何だ。何度もいうが、小説とは書き手にとって(読み手にとっても)、極めて個人的なものである。極めて個人的なものは、徹頭徹尾個人に帰属するから、他人に教えられるものではない。そうなると『類似した個人』を例にとるか、あるいは『個人の類型化』でもして、教示することになるのだろう。この考え方が、小説を陳腐にする代表的な要因のひとつなのだと、『純文学を教える者(笑』は思わないのだろうか。 温故知新はこの類型化を加速する。文学においても、過去から学ぶのは有効な手立てのひとつだけれども、最後のことろで決定的に拒否しなければならない手法でもある。 新しい一歩は、いつだって新しい書き手が印すものだ。それは突然変異にも似て、母体となるDNAの継承だけでは成し得ない。それどころか、DNAは変異を妨害する筆頭といってもいいだろう。そして、DNAは仲間という名の関係者の中に、より多く存在するのだ。学ぶだけで成績を維持できたお勉強の秀才や、自称他称の教育者は、愚かにもそこに気が付かないのだ。だからオレは、本の中に答えを探す書き手を、あえて本のダニと呼ぶ。他人のアドバイスを求める者を無精者と揶揄する。過去の文学の系譜と手法に求める者を評論家崩れと侮る。もちろん、それが読み手なら『本の虫』だし、自称『評論家』で構わない。社会を、体制を生きるに、聞く耳は最も大事な道具のひとつだということも知っている。 しかし、それが書き手だというなら話は別だ。 オレの言っていることが分からない、あるいは分かりたくない書き手志望者が大半だろう。仲間とちゃらちゃらするのは楽しいものだが、オレのように角を立てるのは愉快でないからだ。理解できるのは10人中、一人か二人、おそらく三人はいないだろう。 オレを気に入らないというならそれでいい。大した書き手でもないくせに、というなら、それも事実だ。だが、貴方が書き手としてそういうなら、貴方は、貴方を証明するべきなのだ。文学賞のひとつやふたつ、ちょっとした才能があれば獲るのは簡単だ。小説を出版するのも、たいして難しいことじゃない。だから、オレに何か言うことがあるなら、せめて、オレのいる位置にまで来てからにした方がいい。未来ある高校球児ならともかく、草野球チームのおっさんが、飲み屋でプロ野球選手の批判をしている構図は、微笑ましくはあっても、その意味を自覚していないのなら、ただの醜悪だ。 もうひとこと言っておこうか。 こんなオレを多くのひとは傲慢だと思うだろう。だが、そんなことは当然なのだ。書き手は創造主に似ている。世界を作り、人を生み、人を殺す。これが傲慢でなくて何というのだ。ただ、オレのように表に出す書き手と、出さない書き手がいるだけのことだ。 更にもうひと言。 見ていて思うのは甘いということ。そんな甘いことでは何ともならない。オレ程度を超えられないのでは話にならない。もっともっと悔しい思いをし、歯を食いしばって頑張るべきだ。そして、頑張るためには誰も頼らないという姿勢がとても重要なのだ。 『人間だもの』などという腑抜けた自己弁護をしている場合ではない。 |
3.4 仲間という集団は、体制の最小単位なのだと認識しなければならない。 小説が最も忌み嫌う体制を批判することで、やがて同調者が集まり、それが小さな体制を形成する。この皮肉な現象に気が付かない者は、創作に向かないとオレは思う。また、そのことを知りつつ、体制側のぬるま湯から抜け出そうとしなかったり、それどころか、切磋琢磨とかいう、ありもしない幻想を『盲目的』に信じ、あるいはぬるま湯を求めて、自らそこに身を投じる者は言うに及ばない。 他者の意見に耳を傾ける姿勢というのは、一見自分に厳しい態度に見えるが、実際は自分に甘い人間が多い。自分で考え、自分で決断するという、最も肝心な部分から逃げているのだ。体制側の人間に多く見られるこの考え方もまた、体制に属することの大きな弊害だろう。もちろん、何かに『属する』こと自体、自由から遠ざかることであり、創作者が最も嫌悪すべきことである。 自由とは個人として生きることを意味する。『人間という字は人が支え合っている形だ』などという、くだらない言葉遊びに感心しているようでは話にならない。またそういう人間に限って、体制は、体制側の人間に甘く、体制の外にいる人間に厳しいという、最も本質的な特徴すら知らないようだ。まあ、よく考えもせず体制に属しているのだから、当然といえば当然なのだろう。 体制の掲げる思想がいくら正しくても、それが体制に立脚しているという時点で、自由の敵だと認識するべきだ。なぜなら、体制は、あるいは多数は、いつだって個を、少数を、自分たちの影響下に置こうとする力を内包するからである。人間が集まると息が臭くなるのはそのためだ。 まあ、仲間という小さな体制のぬるま湯にどっぷり浸かりながら、体制を、または個を批判し、借り物の知識や、浅薄な常識や、表面的な倫理を振り回し、それが創作だと勘違いし、ついでに安っぽい優しさや思いやりを、恩着せがましく語っているヤツの方が、あるいは『売れる』小説を書けるのかもしれない。 結構なことだ。オレにはケンケーないけどね。 |
3.3 仲間内で小説を読みあっている作家志望者たち(好きになれない言葉だが)がいる。オレは止めておいた方がいいと思う。作品に迫力がなくなるんだ。アドバイスし合うというのは、つまり作品を平均化するということだ。個性が全てである小説が最も忌み嫌うことだ。 作品を読み合うことで、腕が上がったと思う人がいる。間違いではないが、正しくはない。腕が上がったのは、素人からアマチュアになったという程度に過ぎない。今まで文学賞の予選すら通ったことがないのに、仲間のアドバイスで、最終選考にまで残れるようになった。たとえばこのことに価値を見出すならそれもいいだろう。でも、そんなことに何の意味がある。最終選考など、ある意味残って当たり前なのだ。 小説を書くとはそういうことではない。平均化によって、ヘタクソな作品が、ちょっとはマシになり、たいして頭がいいとも思えない編集の目に止まったからといって、それがどうしたというのだ。 切磋琢磨というのは幻想だ。仲間がいれば、僅かであっても必ずどこかで慣れ合うだろう。仲間とはそういうものだ。そして、その些細な慣れ合いが、作品をダメにするのだ。 卵の殻を破ったとして、でも、どうしても薄皮が剥がれないのは、シャープさに欠けるのは、そのためだ。その薄皮を剥がそうと、また仲間にアドバイスを求めるだろう。そして、更なる平均化という堕落の道を進むのだ。 特に注意して遠ざけるべきは、編集に携わっているヤツ。本が好きで、そこから仕入れた知識を披露したがるヤツ。つまり、関係者と、その周囲にいる本の虫だかダニだか知らないが、そういった連中だ。連中は個性を食い物にする。そして、そのことに自分では気付いていないから始末が悪いのだ。小説とは作家の魂だ。作家の魂は作家本人にしか分からない。いつだって『知っているヤツ』が、『分かっていないヤツ』なのだ。もしそうでないというなら、連中が作家になるだろう。 ついでに、もうひとこと言っておこう。 作家の個性は誰にも理解できない。だから個性を伸ばすことなどできはしないのだ。個性は個人より出でて個人よりも個なり。かろうじて知り得るのは作品の個性だ。創作者の個たる魂が求めるものは、その創作者にすら分からない。 |
3.2 娘が保育所に通っていたときだったろうか。グラジオラスの球根を貰ってきた。 『どこに埋める?』 『埋めるんじゃないよ、植えるんだ』 以来、植えっぱなしで手入れもしないのに、春になると庭の片隅から芽を出してくれる。 今年も花が咲くだろう。 |
3.1 一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。 その三月到来。 |