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2012年10月




10.31
楽しみにしていた美女系ブログ。今朝見に行ったら無期停止になっていた。先日長期のお休みから復帰したばかりなのに・・・。色々事情があるのだろう。とはいえ、やはり残念だ。







10.30

エイズウイルス入りの血液なんて、たとえ夫のものでも手に入るもんか。
とか・・・。
さっきまで語り手だった主人公が死んで、いきなり別人が語り手かよ。
とか・・・。
いい歳こいた大の男がピーピー泣きやがって。
とか・・・。
何だこれ?いくら新人の作品だからって、小説になってねえじゃねえか。
とか・・・。
そういう言葉の数々がオレ自身を縛っているのだ。
まずはオレの自由を解き放つこと。
開き直りたいものだ。







10.29
このままではダメだと業務時間を二時間延長した。
おかげで疲労困ぱい。
昨日は食べ放題に行くも、ほとんど食えず、夜飲んだ1リットルのビールで倒れそうになった。
明け方はひどい夢。里の神社。境内に真っ黒な乳児が産着にくるまれて寝かされている。参道の下では、鬼の子を産んだという若い女性が泣いている。青空、コスモス、涼しい風。周囲には引導を渡す役目を負わされた女が数人。これでウチの嫁も汚れてしまう嘆く老女。もう一度乳児のことろに行きたくても足が動かなかった。

月曜日の朝。もう少しマシな夢を見られないもんかねえ。







10.28
ダイソンの扇風機にはファンがないと思っていたオレはかなり間抜けだ。(笑







10.27
『純文でもエンタメでもどちらでも書けると思いますが、この先どちらを書いていくつもりですか?』
新潮社『新潮』の、元編集長に言われたことがある。やまなし文学賞の授賞式でのことだった。
あれから六年。まだこの問題にケリがつかないとは思わなかった。両方書くという訳にはいかない。少なくとも、今はダメだ。







10.26
この程度の才能しかないのに、オレは結構頑張っていると思うよ。








自分の書きたいものを書きたいように書く。
それがつまらないというなら、
たとえ編集者だろうと、評論家だろうと、読者だろうと、
馬鹿の一言で切り捨てる。
本来、それが文学というものだ。







10.25
日経平均がゴールデンクロスを迎えようとしている。
円がじりじりと下がり80円に近づいる。
景気が底を打ったのは間違いないとして、無事に離陸できるかが問題だ。
それでも、バブル崩壊から23年。景気の周期には諸説あが、バブル後生まれが社会に出始めた今、そろそろ上向いても良い頃ではないだろうか。
二十世紀が戦争の世紀なら、二十一世紀はおそらくマネーの時代になるだろう。人ばかりではなく、モノがマネーの支配下に置かれるということだ。モノがマネーを生むのではなく、マネーがモノを生むといえばいいだろうか。
それほどまでに、経済は奇怪に肥大化しているような気がしてならない。







10.23
レッドカーペットに出演したこともある吉本興業所属のお笑い芸人『ボーイフレンド』は、オレの従弟だ。



『ボーイフレンド』
是非! ヨロシク!








10.22
いつも、赤いヘアゴムで髪を結っている。
そのゴムが、毎日のようになくなる。
風呂上りに、ゴムで軽く毛先をまとめてタオルで乾かしているうちに、どこかへいってしまうのだ。
たいてい、パソコンデスク周辺の床か、枕元に落ちているのだが、ときおり、別宅に向かう道の途中に落ちていることもある。朝、道路にある赤いそれを見ると、とてもガッカリする。
で、今朝もゴムがない。どこを探してもない。
仕方なく予備のゴムを使っている。








グチグチ言わずに頑張ろう。







10.20
急に寒くなった。来月には霜が降りるだろう。夏が懐かしく思える。歳をとったのだ。ザリウン。
ハゲも日々進行している。せめてヒゲでも伸ばすか。だが、オレのヒゲは薄くて汚い。
どうにもならねえ。しょうがねえ。







10.19
『(前略)素直で明快な文章を書くことは、当然のことながらきわめてむずかしいが、作者はそれを素直に成しとげている。
(中略)四分の一ほど読んだあたりから文章がよくなった。筆力のある人なのだと思ったが、全体に遊びが目立つ。作品を第三者に読ませるためには抑制を働かせなくてはならぬが、それが乏しい。
難解な文章の作品があったが、それを続けているといつまでたっても迷いの森から抜け出せない。抽象画も素朴なデッサンからの出発によって成り立つ。(後略)』

1984年第一回、日大文芸賞における、吉村昭氏の選評から抜粋した。
吉村氏57歳のときの一文である。氏の講評はおそらく多くないだろう。しかもアマチュアに対するそれである。一読に値するのではないだろうか。

オレはこのときまだ、同大学の学生だった。勇んで応募するもあえなく落選。しかし、そままで済ませるオレではない。
さっそく選考委員のひとりである文学部の教授にねじ込んだ。
『落選は納得いかない』
教授は、その場でもう一度オレの作品を読み、こういった。
『君のような違う学部(文学部でない)の学生の方が、良いものを書いたりするんだよね』

オレはまだ二十歳を過ぎたばかりだった。







10.18
秋。
いつの間にか、autumnがfallになったが、秋は秋だ。
ところで、complianceだの、commitだの、お利口さんなのは分かったから、まずは日本語で喋れよ。相手に分かるように話せないという時点で、自らの無能をさらけ出していることに気が付かない。馬鹿丸出しだ。
そうそう、小説でも方言を使って書かれた作品がある。会話文などに高い評価を受けることがあるけど、ある作家がこんなことを言っていたっけ。
『何でもいいから、オレの知っている言葉で書けよ』







10.17
昨夜は悔しくて眠れず、深夜二時過ぎにコンビニに走りビールと弁当。
この程度のことで怒ったりイラついたりするオレが間違っているか、怒って当然のことなのか、判断が付かないことが多い。
車に乗っていてホーンを鳴らされたり、人に注意されたりするとすぐにキレるタイプだから、たぶん前者なのだろう。
オレは自分で思っているより、ずっとひねくれていて扱い難いタイプのようだ。それが劣等感に根差していることは分かっている。
馬鹿にされても笑っていられるのは、自分の才能に自信がある人間なのである。








知り合いの美女から、金木犀のリクエスト。
さっそくカメラを持って走る走る。
オレは美女の頼みなら何でも聞くのだ。
金木犀には青い空が良く似合う。







10.16
オレの住む、北関東の田舎町はミカン栽培の北限であると同時に、リンゴ栽培の南限にもあたるという。果樹園も多く、ブドウ、ナシ、イチゴなどの他に、柿は毎年天皇家に献上することで有名だ。また、薬草の生産が日本一なのだと聞いたことがある。四方を山に囲まれた小さな盆地にあって、開発から取り残されてはいるが、東京まで一時間ちょっとで行けるのだから地理的には悪くない。たとえば電気自動車の特区にするとか、何か振興策はないものかと思ったりする。







10.15
デビュー以来、化身も含めて、短編を4作、長編を2作書いた。デビュー前に書いたのは中編、掌編それぞれ4作くらいだろうか。
もともとムラッ気があって、良し悪しがはっきりするタイプだ。プロになってからは、どれも一定の水準をクリアしていると自負しているが、アマチュアの頃は投げやりな性格もあって、本当に同じ書き手の作品かと疑われるようなものを書いたこともある。
小説の修行というものがあるとすれば、時間にして小説だけで3年間。枚数にして、ダンボール箱一杯だという。
オレも、もう少しがむしゃらに書いた方がいいのだろう。失敗を恐れるあまり、一発必中を追い、そのために要らない苦しみを背負っているような気がする。
それにしても、寝ても覚めても小説小説小説・・・。
オレはいつからこんな男になったのだろうか。







『書ける作品』『書きたい作品』
出入りしている掲示板でちょっと話題になったので、
くだくだしく書いたけど、ただそれだけのことで他意はない。







10.13
読み手が探しているのは『読みたい作品』であり、編み手が求めているのは『書けている作品』だ。決して書き手が『書きたい作品』ではない。

『書きたい作品』を書くのが悪いとは言わないが、それが『書ける作品』でない限り、書き手のマスターベーションに終わる可能性は極めて高い。

きちんと完成しているというのが、評価されるための最低の条件だ。つまり、どんなに書きたくても、書けていなければ話にならないのだ。

心配することは何もない。『書ける作品』を十全に書ければ受賞はたやすい。オレですらデビューできたのだ。作家になるべき書き手ならなおさらだ。






10.12
秋の夕焼けや、夏の雲はどう撮ってもそれなりに見える。
悪くはないが、やはり物足りない。誰でも撮れるものをそのままに撮ったところで、だからどうしたと言われておしまいだ。
陳腐が悪いのではない。少なくとも、独創的という名の、独りよがりに陥っている大半の純文学よりマシなくらいだ。
必要なのは根源的なもの。それに、ひねりと皮肉だ。だが、それが難しい。できないとは思わない。たぶん一種の慣れだろう。







10.11
頂上に辿り着いたと思った瞬間に、足元が崩れ落ちる。
そんなことの繰り返し。
ただ、新しい場所に足を踏み入れた実感はある。
しばらくはそれが幻想でないことを祈りながら先に進むだけだ。

それにしてもススキの写真は難しい。







10.9
小説家になりたくて公募に作品を書き送ろうというなら、『書ける作品』を書いた方がいい。審査員が読みたいのは『書きたい作品』ではないし、編集者もまた同じだ。もちろん『書きたくて、書ける作品』なら申し分ないが、希望と現実はいつだって違うものだし、希望なら誰にだって言える。
ごくまれに、作家志望の作品を読むことがある。『ああ、こんな小説が書きたいんだろうなあ』これが最も多いオレの感想だ。『書きたい作品』のイメージをどれほど書き連ねたところで、それは小説とは呼ばない。わかったからそれが書かれた作品を読ませてくれよ、といいたくなるのだ。
『書ける作品』を書く。それがきちんとできれば、結果は必ずついてくる。夢を語るのはいい。しかし、公募に夢を送っても仕方がない。審査員が読みたいのは夢ではなく現実なのだ。

『書ける作品』を書いているのかよく分からないというひとがいる。心配はいらない。
『書ける作品』を書いているときには、自分は確かに小説を書いているという実感がある。それがない、あるいは分からない場合は残念ながら『書けていない作品』の可能性が高い。
『書ける作品』を探すにはふたつの方法がある。ひとつはとにかく書き始めたら最後まで書くこと。そうして、次々と作品を書くうちに、やがて腕も上がり『書ける作品』に行きつく。
もうひとつは、書いていて、つまらない。違和感がある。書きたくなくなった。書いているのが苦痛だ。といった負の感情を感じた場合は、書くのを止めて、別の作品に取り掛かるという方法。これを繰り返すうちに、やがて最後まで集中力が途切れることなく、苦しみながらも楽しんで書き切れる作品に出会う。それが『書ける作品』だ。


ところで、昨日の剣道美少女の写真で、彼女の袴に付いているガムテープだけど、あれは昇段審査で名前や学校名が分からないように隠しているのです。そういうルールがあるのです。できれば黒いガムテープを使って貰いたかったというのはともかく、決して彼女がドジなのではありません。







10.8
脚本の書き方についての本を読んでいる。非常に興味深い。
小説を書き始めた頃、文章の書き方が分からずに、随分悩んだものだった。まともに書けるようになるのに、三年くらいかかっただろうか。その後、井上ひさし氏の文章読本を読んだ。陳腐な表現だが、乾いた砂に水を掛けるように、オレの中に染み透っていったものだった。
今、似たような経験をしている。脚本の本はポストイットだらけになり、ほぼ全ページにアンダーラインが引かれた。ノートを取りたいと真剣に思い、おそらくそれに似たことをするだろう。小中高大のどの学年、どの授業においても、ノートなんてまともに取ったこともなければ、取りたいとも思わなかったのに。
モノゴトにはやりかたというものがある。文章に書き方があるように、ストーリーにも作り方(基礎)があるのだ。そのことは薄々感づいていた。新しい様式を確立するのは芸術家の仕事だけれども、彼らとて、基礎は学んでいるはずだ。
ただ、最初からそれを学ぼうとするのは、少なくともオレにとって得策ではない。本当は基礎を学び、それを応用しながら実行するのが、効果的なのだろう。つまり、学校方式だ。
オレの場合、まず最初に実行がある。とにかくやってみるのだ。基礎などクソ喰らえだし、誰の言うことだって聞いたためしがない。もちろん、そんなことでうまくいくはずがない。そこで次に応用を試す。つまり自己流、我流に磨きをかけるのだ。
すると、なんとなく形になることがある。しかし、やがて苦しくなる。うまく行く時と行かないときの差が激しかったり、不安が強くて先に進む勇気がなくなるのだ。そこで、いよいよ基礎を学ぶという訳だ。
よりよく学ぶために必要な条件は、学ぶ姿勢や、勤勉さや、素直さなどではない。そんなものはあってもなくてもどうでもよいことだ。学ぶために必要な条件はただひとつ。『求める』ことに尽きる。それも、より強く求めること。欲求の強さこそが、学ぶための唯一であり絶対の条件なのだ。
しかし、どれだけ強い欲求を持っていても、何を求めているのか分からなければまったく意味をなさない。更に、求めているものを提示されたとき、それを理解するだけの素養がなければ、また同じことだ。
だから、オレのように、何年もかかってやるだけやり、その上で、ようやく自分が求めるていることを知り、それを学ぼうとするのは、遠回りのように見えて、実はそうではないのだと思っている。必要は発明の母であり、創作の父なのだ。
ここまでして学んだことは、必ず役に立つ。そして、それがまた新しい土台となって、次の自己流があり、悩みが生じ、新たな学びが発生する。創作とはその繰り返しであり、そして、どの工程においても、最も大事なのは『強く求めること』である。
もちろん、ただ求めればいいということではない。より具体的に求めることが肝要だ。欲求の本体を洗い出すために試行錯誤はどうしても必要になる。回り道を厭ってはならない。諦めてはならない。おかしな形で開き直ってはならない。他人に期待してはならない。そしていつでも求めることだ。
求めない者がそれを手に入れることはないのだから。







10.6
理屈はいい。技術も関係ない。とにかく読者が喜ぶものを書く。今のオレにとって、それが全てなのだ。







10.5
彼岸花がきれいだと、西に住む美人三姉妹の長女に褒められた。
オレはすぐチョーシに乗るタイプ
だから今日の写真も彼岸花。

それにしても、背景は大事だね。
対象を生かすも殺すも背景次第のような気がする。
写真も小説も。







10.4
近所の梅の木にミツバチの集団がいた。こういう生態があるのは知っていたが、あらためて調べると、分蜂という巣分かれの行動だという。
だから何だという話。







10.3
言葉の分類に、『中性語』というのがあるという。知り合いの美女がブログに書いていた。たとえば『鉛筆』がそれにあたるそうだ。彼女はそれを好ましいという。
色の付いた言葉を避けるというのは、オレにも覚えがある。単語が含有するある種のイメージに頼りたくないという意識だ。それを使うことで物語が安きに流れることを警戒しているのである。
中性的な言葉にどのようなイメージを与えるか。それが書き手の仕事のひとつだと思う。『鉛筆』は中性語だとして、それに朝日を当てるか、夕日を当てるか、雨に湿った机を組み合わせるか、落ちて乾いた音を響かせるか。そうして中性語である鉛筆にイメージを与え、物語を誘導するのである。少なくともそれがオレの手法だ。
もしかして、彼女の文章に潜む『ある種の分かり難さ』は、選ばれる言葉の中性性にあるのかもしれない。そして、同時に彼女の文章が評価されるところの『味』となってるのかもしれない。
余計な推察だね。失礼。
いずれにしても、面倒でやっかいな仕事であることよ。







姫様と伯爵は、プレパラートでビーカーでハイデンハインでヘマトキシリンだという。
こちとらシロアリ退治でホコリダラケンだっていうのに、どうもインテリにはついていけねえ。
まあ、ジョーダンはともかく、此岸の皆様も彼岸の皆様も、どちらさんもご機嫌よろしゅう秋の夜。








廊下の縁甲板をシロアリに食われちまった。
ありえねえ。
ヒノキの無垢材なんて使ったからだろうか。
思えば建てた時からそこだけヘンだったような気がする。
いや、そんなはずはないか。
もしそうなら今頃、家はないだろう。
嫌だったけど、懐中電灯を手に縁の下に潜った。
根太を食われているようには見えない。
まあ、いずれにしてもこのままじゃヤバい。
業者を呼んだ。
たっぷり取られるだろうなあ。
シャレにならねえ。
次の人生では賃貸にする。







10.2
明日になったらあれを書こう、これを書こうと思っているんだけど、いつも朝になると忘れちまう。

そうそう、昨夜『泣ける』という短編集の一作を読んだ。
こんなものが・・・と思ったら、泣けてきた。








10.1
オニヤンマが乱舞をする峠に行こうとするも、がけ崩れのため通行止め。
仕方なく、麓で彼岸花の写真を撮る。
数人のアマチュアカメラマンがやはり彼岸花を撮っていた。
でも、写真の彼岸花は、つくばにあるふたつの公園を結ぶ遊歩道に咲いていたもの。
樹木が生い茂り昼でも暗い遊歩道の隅で、そこだけ日が当たっていた。
露出をアンダーにして撮影。
今、撮影データを見たら、ISOが1250になっていた。シャター速度1/400秒。だったらISO400でもイケただろ。大失敗だな。
でも、ヤブ蚊の大群に襲われて、ゆっくり撮影できる状況ではなかったのだ。







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