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2013年5月
5.31 今日で5月も終わり。 毎月同じようなことをいっている。 ハイパーインフレが来るのだろうか。 来て欲しいような、来たら困るような。 日経平均は1週間で2.000円の下げ。 オレの気分も大幅ダウン。 作家気取りも、そろそろ終わりにしたい。 もっとも、他にすることがあればの話だが。 |
5.30 先の大戦の影響のひとつに『食の断裂』があるという。母から娘へ、連綿と続いた食の伝達が、戦中戦後の混乱で途絶えたというのだ。戦後の食糧事情はいうまでもなく劣悪を極め、当時年頃の娘を抱えた母親は、とうていまともな料理ができる状況ではなかった。敗戦による自信喪失もあっただろう。母は、祖母から受け継いだ伝統の食事に自信が持てなくなったのだ。そうして食文化の継承が暫時途絶えた。そこに、アメリカの食文化が流入する。若者はハンバーガーに飛びついた。急速に広まる核家族化。もはや、焼き魚には見向きもせず、漬物はスーパーで買うようになる。米と味噌汁はダサイものとなり、パンとコーヒーは、たいした意味もなくお洒落な食事となる。かくして、日本にありながら『日本食レストラン』なる奇妙な店が平気でまかり通る根無し草的食文化の国になったという訳だ。 そして今、バブル崩壊及び、その後のデフレの影響で、父から息子への、『職の断裂』が起こっている。単なる不景気ではない。人口が減少し、経済が縮小した。有史以来の出来事である。破壊力は凄まじかった。働くということ、頑張って生きるということ。オレ達の世代はその意味をすっかり見失ってしまった。誰もが頑張って生きている。しかし、それは未来への希望とか、今の充実を求めているのではなく、そうしなければ生きていけないからそうしているまでのことだ。むしろ、生きていくには頑張らない方がいいのかもしれない。いやそれどころか、頑張る生き方自体が間違いではないかという思いすらある。『尾崎豊を聴け』とか『海外に出ろ』などと、自分が若かった頃の体験を元に、『悟り世代』と呼ばれる今の若者をけしかける者もいる。勘違いも甚だしい。オレ達の価値観は死んだといっていい。伝統の終身雇用制は失われ、代わりに導入した競争社会はいたずらに格差を拡大し、社会を構成する多くのひとを疲れさせ、ついには社会自体が疲弊してしまった。敗戦後に流入したような新しい価値観もない。オレ達はすっかり自信をなくし、息子世代を導くべき生き方と言葉を失った。だが、オレは絶望していない。若い世代は、若い時代に生きればいい。彼らは彼らの手で、新しい価値観を想像し、新しい価値を創造すればよいのだ。もはや文化も伝統もへったくれもないこの国において、それが唯一の道だろう。 |
5.29 朝から疲労困ぱい。 |
5.28 白河市立図書館で講演をしてから、早いもので間もなく一年が経つ。著作権の問題もあるし、わざわざ足を運んでくれた人にも申し訳ないから、これまで、しまっておいたのだ。 もし見たい人がいたらファイルを送ろうと、ファイル転送サービスを探したが、あいにく良いものが見つからない。ファイルサイズは1.99GB。2GBまでの無料サービスを試したのだが、ファイルサイズが大きすぎるを言われてしまった。 登録が必要だったり、プラグインをダウンロードするようなことはしたくない。やっぱDVDに焼いて郵送というアナログな手段が一番良いのかもしれないと思いつつ、でも、自分が延々としゃべっている動画を自分で焼いて、郵送するというのも、間抜けな話だよなあ・・・。 だいたい希望者ゼロだったら馬鹿みたいだし、悲しいし・・・。 でも、創作のことや、ネットに書けない裏話もしているから、それなりに面白いような気もするし・・・、いや、見てくれた知り合いは話がヘタだといっていたから、やっぱ人様に見せるようなものではないか・・・。 |
5.27 昨夜はインコと寝た。 おかげで今朝は寝坊した。 鳥と寝ると、なぜかよく眠れるのだ。 しばらくの間、よく眠れない日が続いていたので、少し楽になったような気がする。 |
5.26 昨日、持ち株の株価を見た。一週間ぶりのことである。デイトレもスイングトレードも止めたから、板を見ても意味がないと思い、関係するサイトのブックマークを削除していたのだ。結果は一勝一敗一分け。つまり引き分け。株だから上がったり下がったりするという当然の帰結。思った通り。 株は脳に悪い。いや、悪いと言うより、ザラ場を見ているうちに株式脳になってしまう。これが小説に悪い影響を及ぼしていることに、今更ながら気が付いた。 小説を書くにあたって、大事なのは小説脳の維持である。小説脳とは、いうならば平らな脳だ。360度の地平線。連続するピーという電子音。凹凸のない壁面。室温20℃無風。そんなイメージ。 対して、株式脳は折れ線グラフである。相性がいいはずがない。そして、フラットな小説脳は、容易に折れ線グラフの侵入を許してしまう。これでは良い結果は望めない。 先週10枚書いた。オレはまだまだやればできる。 |
5.25 間もなく、みちのく怪談(800字の掌編)の、受賞、入賞作品集が発売されるという。掲載が決定したひとにはメールが届いているそうだ。オレの所には何の音沙汰もない。落選だな。うーむ、ちと悔しい。 そこで、近頃、近藤画伯の画文集『掌の幻妖』に書き下ろした、やはり800字の怪談をここに載せることにする。二作書き下ろしたうちの一作なら、画伯も許してくれるだろう。 色々思うところもあるけど、作品は読んで貰わなければ、存在しないも同然なのだ。 |
『浮き輪』 宮ノ川 顕 「浮き輪をください」 「売り切れです」 「でも、そこにあるじゃないですか」 「あるにはありますが」 海辺の小さな町。よしずが立て掛けられた店内は暗かった。 裏通りを歩いてようやく見つけた雑貨屋の軒下に、色とりどりの浮き輪が吊り下げられていた。その全てに予約が入っているのだと、老店主はいうのだった。 「今日は古い友人が来るものですから」 浮き輪は彼らの分なのだという。僕は納得できなかったが、浜辺でひとり待たせている息子が気になって、そのまま店を出た。 訳を話すと小学二年生の息子は、大人びた口調で「仕方ないよ」といった。 お彼岸も近い九月の午後だった。海水浴客は誰もいなかった。夏休み前から約束していたのに、気が付くとこんな季節になってしまった。それでも、ちょっとでもいいから、海で泳がせてやりたいと思ったのである。 「おおい!」 緊迫した声が浜に響いたのは、夕方近くのことだった。 「高波だ! 逃げろ!」 水着を着た数人の少年が、沖を指差しながら走り寄ってくる。顔を上げると眼前に巨大な波が迫っていた。息子と砂遊びに興じていて気が付かなかったのだ。 咄嗟に息子を抱いて走った。 道路に続く階段を駆け上がったとき、背後で波が崩れる音がした。振り向くと、渦を巻いた海水が小さな浜を覆い隠していた。 やがて波が引いた。しかし、そこにいたはずの少年達の姿はどこにも見えなかった。 「浮き輪は今年も売れませんでした」 雑貨屋の老店主は、壁に掛けられた古い写真を見ながらいった。よく日に焼けた数人の少年が、水着姿で写っていた。 「あの日の今日、私だけ浮き輪を使っていたんです」 どこかで風鈴がちりんと鳴った。 了 |
5.24 隣の敷地に、雉が現れた。まだ、若いオスのようだ。 オレが桃太郎だったら、家来の雉は、きっとこんなヤツに違いない。 |
5.23 つくばにある科学万博記念公園。 調整池も兼ねているようで、人が入れない場所に、垂直かつ、5メートルほどの高さのコンクリート擁壁がある。たくさんの水抜きの穴が設けられていて、そこが小鳥の営巣地になっていた。 |
5.22 海が見える小高い丘に、小さな家と作業場を建て、可愛らしい女性と暮らしたい。 女性は作家志望で、平日の昼間は家で小説を書く。オレは夕方まで作業場で仕事をし、夕日が沈むのを見ながらふたりで夕食をとる。デザートワインを飲み、彼女がその日書いた小説を読む。『上手に書けているね』と、褒めたり、時折アドバイスのようなことも言えるといい。 休みの日には、一緒に美術館に行ったり、映画を見たりする。天候の良い季節には、目の前の海で、ビールでも飲みながら一日釣り糸を垂れるのも悪くない。 やがて、彼女は文学賞を受賞する。華々しいデビューではないが、それでも徐々に作品が認められ、間もなく文壇の一角に確固たる地位を築く。 出版社主催のパーティーにも頻繁に出席するようになったある夜のこと。彼女が遅い電車で帰宅すると、そこにいるのは、みすぼらしい初老の男。 華やかな世界にすっかり馴染んだ彼女は、オレの元を去っていく。彼女に若い恋人ができていればなお良い。 ひとりになったオレは、犬を飼う。毎日仕事をし、犬と海岸を散歩する。もう、美術館にも行かないし、釣りもしない。やがて、犬が年老いて死ぬ。オレは犬を火葬にし、その骨を海に撒く。そして、家を売り払い、それまでに溜めた小金を持って老人ホームに向かう。 そのとき取り返しのつかない病を抱えていれば申し分ない。 |
5.21 オレが住むこの北関東の田舎町では、『梅雨』のことを『にゅうばい』と呼ぶ。 漢字で書けば『入梅』だろう。一般的には『梅雨入り』を指すはずで、だから、『梅雨』の季節自体を『にゅうばい』と言われると、反論しないまでも、どうにも妙な気分になる。 先日、取引先のおばちゃんの娘が子供を産んだという。産後の肥立が悪くならないよう、一か月ほど仕事を休むという。そのことを指して『&$#?#%』(聞き取れなかった)というので、漢字でどう書くのかと問うたところ、知らないという。 漢字を知らずに言葉を使って、疑問を感じないのだろうか?オレは不安だ。 仕事で『色マス』という言葉を使う。取引先のデザイナーに意味というか由来を尋ねたら、知らないという返事。仕事上の共通語なので、仕方なくオレも使うが、やはり気持ちが悪い。コミットするだとか、コンプライアンスだとか、本当に、ホントに、ほんとーに、意味が分かって使っているのか?という疑問と共通のイヤらしさを覚えるのだ。 とかなんとかいいつつ、『産後の肥立』を、たった今漢字変換するまで、『産後の日立ち』だと思っていたオレは、かなり間抜けだ。『いい日旅立ち』と近藤勇していたのである。ははは。 |
5.20 犬がオレをじっと見て・・・ |
5.18 誤解やら、すれ違いやら、いろいろあって、すったもんだの末に、ようやく父の作品集が完成した。 全108ページ。あらためて見直すと所々にアラも見られるが、まあ、所詮素人のオレの仕事である。こんなものだろう。 |
小説を執筆する際、最も注意すべきことのひとつに、『それらしく書くのではなく、それを書く』と、いうのがある。いわば抽象に逃げないということなのだが、これがなかなか難しい。ありのままに書けば事実を越えられず、作為が過ぎれば真実から離れてしまうのだ。 美術評論家ではない私に彫刻作品を論じることはできない。それでも今回、100点を超える父の作品を撮影しながら感じたのは、抽象に逃げない姿勢である。いうまでもないが具象彫刻だからではない。美術鑑賞者が時として安易に求める『理解し易い難解さ』に媚びていないということだ。 大衆は愚かな賢者である。偽物に喝采を送りつつ本物を見極める。彫刻家は誰よりもそのことを知り、そして挑み続けたのだろう。ここにある作品のひとつひとつがその結晶であり、また力強い軌跡なのである。 2013年4月 茨城県石岡市にて 宮ノ川 顕 |
5.17 変化が怖いという。 変化にはいつだって喪失が付いてくる。 おそらく、それが恐ろしいのだろう。 未来はいつも善きものとは限らないし、希望はただの蜃気楼かもしれない。なのに、変化は確実に喪失を連れてくる。 だから、彼女の小説はいつだってそこに立ちすくんでいるのだろう。 |
5.16 人なんてそう変わらない。 状況が変わっても、人は変わらない。 本質的な部分が時間の中で露呈してゆくことはあっても、気持ちに変化があったとしても、本質は変わらない。 ある小説関係のサイトに書かれていた一文。 諦観。深い哀しみ。無断引用。 小説とは変化を捉えるものだという。 それがどれほど些細なものであろうと、冒頭と結末において、主人公は必ず変化するのだという。 変化とは未来である。 未来とは希望だ。 人の本質が変わらないのだとしたら、人に希望はないことになる。 事実、その通りかもしれない。おそらく縄文時代から人の本質は変わっていない。 だが、そうだとしても、いやそうだからこそ、今まで多くの書き手が、多くの物語を紡いできたのだし、これからもその作業は続くに違いない。 小説とは希望を抱く者にとってはただの娯楽かもしれない。 しかし、絶望を知る者にとっては希望そのものなのだ。 |
5.15 前にちょっとだけいたネットの掲示板に、元ライターで、今は作家志望だかなんだかよく知らないが、大賞はとれなくて、二番の賞ばかりたくさん獲ったという、自称性格の悪いおばちゃんがいた。オレは彼女のことを、チキンな上に骨がないということで、ナゲット氏と名付けてちょっとからかったりしたものだった。 誰彼かまわず毒舌の限りを尽くすナゲット氏にこんなことを言った人がいる。 『あなたがどのような作品を書くのか知らないが、(平気で人を傷付けるような言葉を吐く)あなたの作品を読みたいとは思わない』 それに対するナゲット氏の返信は、 『作者と作品は関係ない。作者がどんなに嫌なヤツでも作品は別なのよ』 かつて、『一杯のかけそば』という話が流行ったことがあった。貧しい親子がいて、年越しそばを食べるお金がなく、店で一杯のかけそばを皆で食べたとかいう、いわゆる『日本中が涙した』類の、お涙頂戴モノだそうだ。 ところが、しばらくたって、その作者がかつて詐欺まがいの事件を起こしたとかなんとかで、このお涙頂戴話もまたそんな作者の話ではどうとかで、マスコミに叩かれまくって、いつの間にか消えてしまった。 作品と作者は別モノである。 この定義は対象が『作り物』である場合には有効だ。 『作り物』は、技術があればできる。技術に作者の性格は反映されない。だから、どんなに嫌なヤツが書いたお話でも、上手に書けていれば泣ける作品になる。 しかし、それが『表現』だということなら話は別だ。 『表現』の根底には、必ず表現する人間の人間性がある。だから、浅薄な人間の表現は器用に書かれていてもどこか空疎で、傲慢な人間の表現は、巧みにそれが隠されていても、独りよがりの気配を感じるものなのだ。 件のナゲット氏は、性格は作品に関係ないという一方、一等賞を獲ったことがないともいう。つまり、ひとを傷付け平気でいられる氏の性格がそこに影響しているのだとオレは推測する。 もちろん、作家の性格である。良いも悪いもないのはもちろんだ。ただ、良いにつけ悪いにつけ、そこには、多くの人を凌駕し、魅了する、何かがなければならない。それはしばしば人を傷付ける。それは単なる副作用なのだ。性格、あるいは人間性そのものではない。ナゲット氏はそこを誤解しているように思えてならない。 『もっと下手に書いたほうがいい』 オレの小説について、友人の門司さんがいう。その通りかもしれない。 要するに絵葉書みたいな写真を撮ったからといってそれがどうしたということであり、小綺麗にまとまった小説を書いたからといって、たいした意味はないということだ。表現において、商業的テクニックは必ずしも必要ではない。 最後にモノをいうのは著者の人間性である。 人間性とは如何に生きるかということだ。 どう考えているかでも、何を学んだかでもない。 上手く書くことにたいした意味はない。 ただ、オレは下手に書けるほど上手くないのだ。 ははは。 |
5.14 パズル&ドラゴンズというゲームを配信しているガンホーという会社がある。去年の暮のこと。その会社の株を、買ってみようとしたことがある。かなり評判が良かったのだ。当時一株50万円。だが、あいにくオレの運用資金では手が届かなかった。 そのガンホー株。昨日は1.350万円(分割前価格)を付けて、なお買い気配のストップ高。あのとき、借金してでも買っておけば、半年で1.300万円の利益ということだ。まあ、途中で売ってしまっただろうけど。 それにしてもどうにもならねえなあ・・・。オレの人生。 |
5.13 バランスが大事だという者がいる。間違いではないが、正しくもない。 バランスが取れた状態というのは、即ち、安定的に留まっている状況をいう。今に満足し、足ることを知るなら、それも良いだろう。 しかし、とにかくその場から進み出たいのであれば、バランスを崩すことがどうしても必要になる。 たとえば、『歩く』という動作をするとき、真っ先に行われるのが、前方へバランスを崩すことだ。もちろんそのままでは転倒してしまうから、身体は再びバランスを取ろうと足を前に出す。『歩く』とは、その連続した一連の動作を指すのである。 大きな一歩を踏み出したければ、大きくバランスを崩すことだ。バランスを保ったまま走り出したいなどという虫の良い考えは捨てなければならない。 フランスのある詩人はこういったらしい。 『生まれてきて、何の混乱も引き起こさないことは、尊敬にも忍耐にも値しない』 人生において、バランスとは処世術を指す。軋轢を避け、世の激流から身を守り、そこに留まりたければ、どうぞバランスに気を配るがいい。 オレは御免蒙る。 |
5.12 1-2で負けている状況でロスタイムに入った。 今のオレをサッカーの試合にたとえるとそんな感じだ。 状況は劣勢。とはいえ、こちらには切札的ストライカーがベンチで出番を待っている状態だ。延長戦に持ち込めば充分勝機はある。 そこに、縦パス一本!見事にオレの足元に通った。ゴール正面。絶好の位置。左足でトラップし、マークに付いた相手ディフェンダーをフェイントでかわす。視界の隅にゴールが見える。態勢もいい。これなら決められる!前を見た瞬間、なぜだ、目の前にばかでかい身体のデフェンダーが二人。遠ざかるゴール。 マンガなら、ここで『うおおおおおー!』などと叫んで、必殺技を繰り出すところだが、あいにくオレにそんな気の利いたものはない。 残念だが、地味にバックパスをして、いったんミッドフィルダーにボールを預けることにしよう。 奇跡を期待して、無理なシュートを打つより、その方が確率は高い。それがオレの経験測だ。 最後の勝負。時間との闘い。だが、焦ってはダメだ。焦ってはうまくいくものも、うまくいかないものだ。 ここを見てくれているひとの中に、きっと小説家志望のひとがいるろう。もし、小説を書いていて、うまくいかないと思っても、焦らないことだ。 何をするにも時間が掛かる。自分を信じ、焦らず怠けず。それが一番の近道であり、結局それしかないのだ。 |
5.11 縄文時代に生まれれば良かったと思うことがある。温暖な土地の海辺に暮らしていたら、今よりずっと幸せだったのではないかと思うのだ。美しく豊かな自然に囲まれ、そのおこぼれを頂いて生きるのは、たとえ少々寿命が短くても、生きるに足る人生だったに違いない。もちろん、ユートピアではあるまいし、現代より楽に生きられる時代はないことは承知の上での妄想である。 義務を遂行した者にのみ、権利が与えられるといった類の、支配者に都合の良いロジックにまんまと乗せられて、自由と身勝手をはき違えてはならないなどと口走る、奴隷根性を丸出しの間抜けがいたら、そいつこそ、自由と身勝手をはき違えている張本人だ。美しき縄文時代の日本を今に導いたのは、社会を支配しようとする者でなく、支配されたがる連中だったに違いない。 美しい日本と総理が叫ぶ。その意味を考える前に、我が身の自由を支配者に売り飛ばすことによって、身の安全と、首輪付きの明日を手にした自らの破廉恥を知るべきだろう。 |
5.10 なんちゃら機構という名の、政府系の行政法人に電話をした。 最初に出てきた女性にちょっと文句をいったら、担当の者に代わると電話を回された。出てきたのは若い男性。たぶん弁護士だろう。 偉そうな態度。 『それじゃあ、〇〇になっちゃうじゃないですか』 馬鹿野郎。だからどうした。 おめえ、何様だ。 ナメるんじゃねえ。 |
5.8 北関東の田舎町。オレが越してきた二十八年前は、それぞれの村落にこんな商店があった。自転車が趣味のオレは、夏の炎天下、コーラなどを飲みながら、店先で休憩したものだった。良い時代だったと思うのは単なる懐古趣味なのだろうか。 |
5.7 世間では連休が終わったという。オレは祝日はもちろん、日曜日も午前中は仕事だった。 その日曜日の午後、ちょっとした用事で牛久に行った。駅前に車を止め、駅ビルで遅い昼食を取り、少し街を見て、それから近頃オープンした北関東最大級のショッピングモールに立ち寄った。 帰路、筑波山を貫くトンネルを抜けると、夕日を浴びて里山の風景が広がっていた。普段見慣れた景色が、いつもより懐かしく感じた。不思議な気分だった。 |
5.6 迷っている。この岐路をどちらに行くべきか。慎重にかつ大胆に。ただ、本当に岐路に差し掛かっているのかどうか、もっとも根本的な所も見逃さないようにしなければならない。いずれにしても、道を選択したら後戻りはできないのだ。 カネがあれば何の問題もないけど、オレはボンビーだからなあ・・・。 |
5.5 想いが通じないことが多い。 別に深刻な話ではなく、軽い冗談が悪意に取られたり、本気を本気と思ってもらえなかったりするのだ。それは、誤解というより、もっと根本的なすれ違いであり、つまり、オレの知っているオレと、彼らが知っているオレと、かなりの相違があるのではないか。そんな気がしてならない。 昨夜、久しぶりにヒゲを剃った。恥ずかしげもなく写真をアップする。ああ、オレは歳を取ったなあというのが正直な感想。かつてなら、ヒゲを剃ればそれなりに若返ったのに、今じゃこのザマだ。 ふと思いついて写真を反転した。鏡に向かって撮影しているので、これが人様から見た実際のオレということになる。やってみて驚いた。普段見慣れたオレではないのだ。これほどまでに印象が変わるとは思ってもみなかった。なるほど、こんなところにもすれ違いの原因はあるのかもしれないと思った次第。 ところで、『突然フェイスブックにハマる中高年の不思議』(全8回)という記事を読んだ。そんなオッサンもいるよなあ、と笑いつつ、(特に)若い女性の冷たさを再確認し、ああ、オレもやっぱそんな風に思われているのだろうなあ、と悲しくなり、FBもツイッターも止めて良かったと、つくずく思ったのであった。 それにしても、オッサンは君たちが思うよりずっと純情なのだ。だから、もう少し優しい眼差しを向けて貰いたいと思うのは、やっぱオッサンの卑屈なのだろう。若さというのは、それだけで強く美しく、ときに横暴なまでに鋭利で刺々しい。だから、オレはおばさんが好きだったりする。 そうそう、上記の記事にこんなことが書いてあった。 「ツルッパゲのおじさんが、2週間に1回の頻度でプロフィール写真を変更。そのたびに彼のドアップ写真を見させられるのがつらく、非表示に」(40歳・女・デザイン) ああ、オレのことだ。 _| ̄|○ |
5.4 安倍首相は、トルコに原発を輸出することを決めたという。東日本大震災から三年。原発事故を受けて盛り上がった廃原発運動は、すっかり粛清された印象がある。官邸前のデモも今や僅かな人の集まりになってしまったらしい。 オレは詳しくないが、短期間で制圧されたというパリ・コミューンを彷彿とさせる。ただ、廃原発運動の粛清はもっと静かなうちに、経済回復という金の力で行われた。 不景気によって死ぬか、放射能によって死ぬかという選択において、人々は無意識に放射能によって死ぬことを選んだのだ。それが民意だとすれば、正しいも正しくないもない。 影響の範囲に違いがあったのが大きな要因だろう。目に見える放射能の影響は30キロ圏内だが、不景気はこの国全てを覆っている。更にいえば、金持ちが危機を抱くのは断然経済の方だったという訳で、奇しくも、この国は一部の金持ちのためにあると証明したのである。 アルチュール・ランボーの研究家である友人の訳詩を借りて、更に意訳を試みてみた。 この『五月の軍旗』という詩は、韻文詩だという。そこで、音を生かした七五調にした。最初は連歌の形式を使ったが、どうしても七七の部分で文章の繋がりが絶たれてしまう。そこで、この形に変え、更に、単調に過ぎないよう、中央部分は少しくだけた調子にした。 実際に自分で書きなおしてみると、それまでよく分からなかった言葉の理解が進み、ランボーが見た景色が見えるようだった。 簡単ではなかったが、思いの他、楽しい作業だった。それを確認できたのは幸いだった。 |
5.3 たぶん、オレは鬱病だ。精神病院に行けば即座に病名が付くだろう。特に木の芽時は精神病には悪い季節だ。それで、落ち込みと疲労が激しいのに違いない。 精神病の辛さは、病そのものはもちろん、周囲に理解されないところにある。社会はもとより、家族にすら分かってもらえないケースが大半だろう。これは想像以上に辛いことだ。 それと知らずにガンバレというのは、言われた側にとっては、能無しの怠け者と罵られるのと同じことである。精神の病が原因で、頑張りたいのにどうしても頑張れないのだ。なのにガンバレである。ひどい場合はもっとガンバレであり、更には頑張りが足りないときたもんだ。 つまり、才能がないのだから、その分ガンバレという意味か、怠けていないでガンバレとしか取れないのだ。言った側は、そんなつもりではないというだろう。だがそれは、無知の罪がもたらす存在の否定なのである。 両足の骨を折り、大量の血を流し、その場にうずくまっている者に向かって、頑張って立ち上がり歩き続けろ、と誰がいうだろうか。まして頑張りが足りないなどと、どうして言える。 もちろん、それと知りつつ言うガンバレは、また別の意味を持つ。 まあ、鬱だろうが、乙だろうがカンケーねえ。誰に何と言われようと、どんな手段を使おうと、生き延びてやる。ただそれだけだ。 |
5.2 『時代に合わなくなったから憲法を改正する』 憲法とは理想だ。時代とは現実だ。 つまり、上記のロジックは、現実に合わせて理想を変えるということだ。 もし、古くなった理想を新しい理想に変えるのだというなら、新しい理想を見せて欲しい。 新しい理想とは集団的自衛権の行使なのだろうか。だとすれば、より明確にそう主張するべきだ。 理想とは現実を変えるためにある。現実に不満があるから理想が存在するということだ。現実の前にひざまずく理想などありえない。あったとすれば、それは理性と知性の敗北であり、本能と感傷の勝利である。つまり、より人間的なものから、より動物的なものへの、自らの意思による回帰を意味するのだ。 |
5.1 もう五月か・・・ |