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2013年8月
8.30 朝からイヤな感じで暑い。台風の影響だろう。 |
8.29 6時に目が覚めた。 7時に仕事場に来ると、庭の睡蓮のつぼみが膨らんでいる。 そして8時。朝日が射すのを待っていたように花が開いた。 |
8.28 北関東の田舎町。 駅までの距離12km。 その間に、葬儀場が六軒ある。 コンビニの数と同じ。 ありえねえ。 |
8.27 庭の睡蓮鉢。葉っぱの上にアマガエルが乗っていた。 |
8.26 日曜日の度に用事が入るもので、ちっとも写真を撮りに行けない。 仕方がねえ。また庭のアサガオで誤魔化そう。 |
8.24 暑い。 ハンパねえ。 報道によると、鮎も山女も水温が上がってタイヘンだという。 我が家のメダカもきっと暑いのだろう。 気の毒に。 |
8.23 別宅の庭が雑草! 30坪くらいあるだろうか。 全部雑草。 『雑草と言う名の植物はないんだよ』 昭和天皇は仰ったという。 失礼ながら陛下はご存じない。 雑草という名の植物はある。 そして、市井にも名もなき人がたくさんいるのだ。 That`s so! |
8.22 いつも見るブログで『ゴーヤーチップス』というものを知った。調べてみると調理は簡単そうだ。仕事がなくてヒマなので、昨夜作ってみた。 美味かった。 ごち! |
8.21 ここは、オレの、オレによる、オレのためのグチの吐き捨て場だとはいえ、あまりに少ないアクセス数を見る度に情けなくなってくる。誰かの役に立つどころか、暇つぶしにもなっていないという訳だ。 果たして、オレはこんなところで、こんなことをしている場合なのだろうかと考える。しかし、だからといって、どんなところで、どんなことをすればいいのか、皆目見当が付かない。なぜなら世間はオレを必用としていない。それが現実なのだ。(T_T) 合掌・チーン! |
8.20 8月17日で紹介した小説のうち、夢野竹輪著:『井戸』は、まだネットに掲載されていた。こちら 小説には、書ける題材と、書きたくなる題材がある。 書きたくなる題材は魅力的に感じるものだ。しかし、それは往々にして自分の知らない世界であることが多い。ないものねだりは、自分が思っているより強くあるからだ。 背伸びは必要だ。しかし、結果を求めるのであれば、書ける題材、書きやすい題材を探すのが重要になってくる。 それは自らの中にある。感性の源を探すことだ。根のない表現に花は咲かない。 |
8.19 宮崎駿監督作品『風立ちぬ』における、喫煙シーンを観た日本禁煙学会が、配慮を要請した件について、オレの私見も書いておこう。 この問題は、要するに煙草がどうこうということではなく『表現の自由』がどこまで許されるか』と、いう普遍的かつ面倒な問題だということを念頭に置かなければならない。 結論からいうと、オレは表現するのは自由だけれども、全てにおいて自由ではないのだと考えている。 小説を書く上で、登場人物に法律違反をさせることがある。オレは、やはり好ましいことではなく、できる限り避けるべきだと考えている。それは自粛というイメージとはちょっと違う。 分かり難いかもしれないが、小説が法とモラル以前の存在であり、それを問う表現であるならば、法とモラルに準ずる訳にはいかない。それでは法とモラルを超えるどころか、法とモラルに屈してしまう。だから、表現者は法とモラルを無視すると同時に、意識しなければならないということだ。 いずれにしても、あらゆる表現は法とモラルの支配する世界の中で発表される。社会的なメディアを使って発表するなら、そのことにも留意しなければ、かえってメディアに利用されてしまうだろう。 もやは『表現だから何でもあり』の時代は過ぎ去りつつある。世界はそろそろ、そういう混沌というか、未熟から抜け出す時期に差し掛かっている。まあ、非常に抽象的な、それこそ何でもアリのような論調になってしまうが、成熟しつつある社会の中で、表現が、表現としてどこまでが許されるのか。それは表現者それぞれが、自らに問い、作品ごとにひとつの答えを出すしかないのだ。結果バカバカ煙草を吸うならそれで良い。ただし、そのことについての批判は受けなければならない。 『嫌なら見るな』 ネットの掲示板やブログなどでトラブルがあるたびに、こういうことをいう人がいるが、オレは賛成できない。それが映画だろうと、ブログ記事だろうと、掲示板での発言だろうと、公に向けて発表されたものなら、そのことについて責任が生じる。 『批判されるのが嫌なら発表するな』 ということなのだ。 なお、今回の騒動で、『時代劇の刀もダメということになる』という、論旨をよく見かけた。難しい問題だ。かつて、木村拓也が主演のドラマで、彼がバタフライナイフを格好よく使っていたシーンがあったという。それに影響されて、バタフライナイフがたくさん売れ、何か事件に繋がった記憶がある。その後、バタフライナイフは規制された。 時代劇の演出で、一度刀を相手に当てておき、それを改めて手前に引くことで、相手を斬り倒すという技法があるという。それは、実にリアリティのある演出法だそうだ。しかし、関係者はその演出法を自粛したという。リアルに人を殺すシーンは、お茶の間に流れる時代劇として、多くの人に不快感を与える危険性があるというのだ。記憶だから間違っているかもしれないが、少なくとも時代劇関係者は法とモラルに配慮している、ということになる。水戸黄門は立ち回りで峰打ちしか使わないのも同じ理由だろう。 アメリカ映画では、もう喫煙シーンは滅多に見られないという。もしある場合は、R指定になるそうだ。ワンピースのサンジもアメリカではタバコでなくチュッパチャップスを咥えているという。アメリカが正しいかどうかは知らない。でも、そういう現実もあるということだ。 ところでワンピースのサンジについて、タバコだからカッコイイのであって、チュッパチャップスでは絵にならないというファンもいるようだ。 では、ドカベンの岩鬼が咥えている葉っぱを、煙草にしたらどうだろう。いや、やはり葉っぱだからいいのだということになるに違いない。 何がいいたいのかというと、初めて見た絵は記憶に深く刷り込まれるということだ。 ジェームス・ボンドは、ショーンコネリーでなくてはならない。当時007ファンはよくいっていた。しかし、初めて見たボンドがロジャー・ムーアだったオレは、むしろコネリー・ボンドは違和感があった。 つまり、どうしても煙草でなければ・・・ということ自体、怪しいということが言いたい訳だ。 |
8.17 実業の仕事がない。 ならばと、歯を食いしばって書きかけの作品を仕上げた。 二日で20枚。 オレだってやればできるじゃねえか。 50枚の短編。 タイトルは『ギャラリー・ノベルズ』 連鎖倒産に巻き込まれた主人公のオレは、妻と諍いを起こし離婚すると、同級生の世話で、高校時代に住んでいた町に帰った。 オレは、かつて伝説のヤンキーとしてこの町に君臨していた。 古い仲間は皆親切にしてくれたが、オレはどうしても働く気になれなかった。 それでも、皆は辛抱強くオレを支えてくれた。しかし、それもやがて・・・ という話。 まあまあかな。 |
8.16 20年ほど前、オレはこの土地を買った。その地価が下がりに下がって、今は買値の3分の1。 一方、同じく20年ほど前、国の借金は300兆円だった。それが増えに増え、現在3倍の1.000兆円。 3分の1と、3倍。不思議な符合。いや必然なのかな。 いずれにしても国もオレも苦しい訳だ。 |
8.15 友人の何人かは大型のバイクを手に入れ乗り回している。また先日はイギリス製のスポーツカーを手に入れた者もいる。正直羨ましくてしかたがなかった。ちゃんと子供を育てながら、趣味の世界も充実している。ああ、彼らは大人なのだと思っていた。それに比べてオレときたら・・・ とはいえ、オレにも良いことはあるようだ。 どうやらオレは、バイクやクルマの代わりに、いわば電車を買うことに成功したようだ。いや、オレが買った訳ではない。ウルトラスーパーチョーボンビーのオレにそんな高価なものが買えるはずがない。 お盆の最中に連絡があった。うれしくもあり、怖くもある。それでも、これはきっとベストの選択なのだ。 ただ、そのためにオレは完全なロクデナシに成り下がった。これは紛れもない事実だ。 |
8.14 朝、玄関先にセミが落ちていた。 死んでいる訳ではない。まだ寝ているのだ。 オレも久しぶりに7:00まで眠った。 北関東の田舎町。 光と風にほんの僅かに秋を感じる。 |
8.13 読まなければならない。 半ば使命感にかられて小説誌を開いた。 ミステリなのだ、ホラーなのだ、エンタメなのだ。 しかし・・・ 最初の1ページで挫折。 安易な形容詞。手垢の付いた慣用句。説明のための説明。ご都合主義のストーリー。頭の悪い登場人物。 こんなものは小説とは呼ばない。 近代文学史以前の読物。いや、お話。 読者が馬鹿なのか、あるいは、読者を馬鹿にしているのか。 いずれにしても、馬鹿馬鹿しい限りだ。 |
8.12 実家に帰った。電車で行くのは久しぶり。ロクデナシのオレのこと。フーテンの寅になったような気分だった。 |
8.10 やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい。 ホントかよ・・・ |
8.9 昨日の朝日新聞で、東雅夫氏が『新・遠野物語』と題したインタビューを受けていた。片面全面に近い大きな記事である。 東氏といえば、『みちのく怪談』の提唱者であり、同名コンテンストの選者でもある。オレも一度応募したことがある。結果は落選だった。作品はこちら。 インタビューの中で、東氏が遠野物語の99話目について語っていた。 明治の三陸大津波で妻を亡くした福二という男の話だという。概要はこんな感じだ。 福二は津波があった翌年の夏、浜で、霧の中から出てきた男女に会う。ひとりは死んだはずの妻で、もうひとりは、結婚前、仲が良かったという妻の男友達だった。その男も津波で死んだはずだった。福二は妻を呼びとめて、子供が可愛くないのかと問う。妻は泣いたが、そのまま男と去って行った。福二はひと晩、浜に立ち尽くした。 東氏は、この話に、妻を失った悲しさ、無念さを思うと同時に、せめて別の男とではあっても、幸せになって欲しいと願う人々の気持ちを感じるという。 オレの作品とひどく似た設定であるにも関わらず、対照的な印象が語られているのが面白い。(遠野物語は持っているが読んではいない。もしかすると類似を嫌われての落選だったかも:苦笑) それはともかく、オレはこの『鬼の手形』を書いたとき、津波の臭いを消すことに腐心した。これはみちのく怪談であって、震災怪談ではないという意識があったのだ。この記事を読んで、受賞を目指すなら、はっきりとあの津波と書けば良かったのかもしれないと思った。でも、たとえ今、同じ話を書くとしても、オレはそうしないだろう。オレは作家であって、ルポライターではないからだ。 |
8.8 はにわ公園である。 ハンムラビ法典ではない。 誰も間違えねえか・・・。 |
8.7 思うようにならねえ。 それが当たり前とはいえ気が滅入る。 鬱病になりそうだぜ。 |
8.6 『なんで、自分が正しいと言い切れるのよ』 学生時代、よく女の子に言われたものだった。 当時、食べ物(飲み物)を、ふたつに分類するクセがあった。 『ハードな食い物と、甘ったれた食い物』 たとえば、ビールはハードで、チューハイは甘ったれ。 彼女達はまた言った。 『どうして、ビールがハードで、チューハイが甘ったれなのよ』 『どうして・・・』 『なんで・・・』 彼女達は理由を必用としているのだ。それも、内部にではなく外部に。つまり、出典とか、先人や、先生の教えとか、場合によっては雑誌の記事とか、テレビ番組とか、そんなものに裏付けを求めているのだ。つまり、オレがいうことは信用できなくても、テレビのコメンテーターのいうことは信じるという訳だ。 彼女達は勉強がよくできた。まあ、三流ヘッポコ大学のことだから、できたといってもタカが知れているが、それでも、オレなどに比べれば遥かにできたし、知識もあった。 彼女たちは勉強することで、その立場を手に入れ、自己を確立した。 しかし、オレはそうではない。 勉強などくそくらえと思っていた。学校の成績なんて何とも思っていなかった。当然、テスト勉強などしたことがなかった。問題をわざわざ解く必用を感じなかった。テストには模範解答が用意されている。ならそれでいいじゃないかと思っていたのだ。問題を読み、回答を見、そして納得すれば済むことだ。 未知なる高みを目指すために、現在の知識を得る。 その重要性を知らない訳ではない。 しかし、彼女たちが、未知なる高みを目指していたとは思えない。 こう書くと、また『なんでそうだと言い切れるのよ』と言われるかもしれない。しかし、オレの推測はおそらく外れていないだろう。 自分の価値観を、誰か他の偉い人に支えて貰いたいという気持ちは分からなくもない。オレも、自分が言い放った暴言が、どこかの偉人が口にした格言に似ていたりすると、ほっとするものだ。しかし、それと同時に、オレはその偉人の言葉を知る前に、自分がそれを言い放ったことに、いつも深い満足感を覚える。 大事なのはオリジナルの価値観だ。借り物の真理ではない。格言や、ことわざ。あるいは故事。はたまた、本に書かれていることや、マスコミのいうことを引合いにだし、ドヤ顔で何かいう人がいる。少なくとも、それは評論家のすることであり、作家のすることではない。 価値観の基礎を成すのは直感だ。出典などでは断じてない。だから、オレの価値観に理由はなく、おそらく彼女達は今でもオレを理解できないだろう。 オレはそのことに満足しつつ、やはり寂しいと思っている。 |
8.5 『ウソを嫌い、日々ブレ続け』 立川談志がドラマになるという。新聞の見出しである。 ブレない人生とは、自分にウソをつく生き方だ。そうでないというなら、その者はよほど恵まれた環境にいるか、あるいは傲慢の輩か、自己欺瞞の徒か、はたまた、ただの間抜けである。 人間はあまりに矛盾が多い。だから、ある者は刹那主義に走り、ある者は禁欲的な生活を送る。そして、多くの者は矛盾に目をつぶり、あるいは気が付かずに生きている。 ウソを嫌えば、人間の矛盾が見えてくる。矛盾(ブレ)のない人生を送る人は嘘つきだ。ただし、その嘘に気が付いている者と、そうでない者とでは、意識のありように雲泥の差がある。前者は無口になり、後者は雄弁になる。人は自らの嘘に気付いたとき、無口にならざるを得ない。つまり恥を知るということだ。中には恥を知りつつ、恥をかくことを厭わない者もいる。立川談志や忌野清志郎がそうなのだと思う。 人間の矛盾を解決しようと、宗教が生まれ、哲学が発生し、学問が奨励された。しかし、どれもこれも、解決策を見出すには至っていない。人は今もブレ続けている。だから命が大事だといいながら、一方で武器の生産にまい進するのだ。このことは決して他人事ではない。自分だけは何も殺さないなどと、自らについた愚かなウソを信じているようでは話にならない。 盲目の最も大きな要因は、ウソと無学だ。オレは学問は苦手だ。だから、せいぜいウソには敏感でいたいものである。 |
8.4 つくばエクスプレス・研究学園駅近くの結婚式場。 |
8.3 圧倒的な才能があれば、小説家としてデビューすることなど容易い。 ただ、運は必要だろう。時代との相性だったり、人との出会いといった類のものだ。実力だの、感性だの、場合によっては知識だの、そんなものはあって当たり前だ。 ところで、勘違いしている人が多いようだが、実力は磨くもので、感性は発揮するものだ。感性を磨き、実力を発揮するのではない。 感性を磨こうなどと思ってはならない。感性とは持って生まれたものであって、歳と共に摩耗することはあっても、増えたり、輝きを増すことはない。そう見えたとすれば、それは実力が磨かれて、感性が正しく発揮された結果だろう。 絵画や映画を見て、あるいは本を読んで感性を磨くなど、ちゃんちゃらおかしくてちゃんこ鍋でも食いたくなる。そんなことで磨かれる感性って、おめえ、どんだけ鈍いんだよ。 気を付けることだ。感性とは刀の刃に似て、扱いを間違えれば、あっという間になまくらになってしまう。だいたい発揮するに足る感性の持ち主が、その感性を磨こうなどと思うはずがない。鋭利な感性は、鞘を持たない両刃の剣だ。懐にあるだけで、持ち主を傷付ける。 |
8.2 怪しいアニメサイトで宇宙戦艦ヤマト2199を見ている。 『地球滅亡まであと〇〇〇日』 次回予告の最後にお決まりのセリフ。 なるほど、地球がピンチなのだから、当然オレ様もピンチな訳だ。 『自己破産まであと〇〇〇日』 エネルギー充填10%。 低い・・・。これじゃあ高卒ルーキーズの年収の方がまだ高い。 到底、波動砲は使えない。 それならワープで逃げるか。 日本の、世界の資本主義が、構造的欠陥のために低調になっているというなら、オレもまたその通りだと思う。 頑張れば何とかなるという人がいる。分かってないなとオレは思う。頑張って何とかなるなら苦労はない。そういうことを言うヤツは、たぶん限界まで頑張ったことのないヤツだ。限界は超えられない。超えられないから限界なのだ。この世はマンガじゃない。 違うかね、ヤマトの諸君。 |
8.1 『アズラー』というのを知っているだろうか。 その仕掛け人だという人がラジオで話をしていた。何でも小豆を顔にくっつけて、ヒゲのように見せて写真を撮るのだという。カメラマンだという彼は、数年で1.600人もの人を撮影したらしい。サイトでモデルを募集し、それで応募してきた人の顔に小豆をくっつけて撮影するそうだ。馬鹿馬鹿しいと思いつつサイトを開くと、口の周りに小豆を付けた若い女性がいっぱい掲載されている。何でも応募してくる人の殆どは若い女性なのだそうだ。ありえねえ。 『ポートレート モデル 募集』 こんなキーワードで検索を掛けると、アマチュアカメラマンのサイトが結構な数、ヒットする。サイトを開くと、こちらもそれなりに応募者がいるようだ。まあ、裏では色々あるのだろうが。(何があるのか分からないが) オレも秋になったら募集してみようかな。 興味のある方はヨロシク!(o^∇^o)ノ |