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2013年8月






8.30
朝からイヤな感じで暑い。台風の影響だろう。







8.29
6時に目が覚めた。
7時に仕事場に来ると、庭の睡蓮のつぼみが膨らんでいる。
そして8時。朝日が射すのを待っていたように花が開いた。



ずっとラジオを聴かずに仕事をしていた。
AMはくだらないお喋りばかりでうるさいし、
AMは未だに欧米かぶれで安っぽさばかりが気に掛かる。
それにも増して、ここは電波状況が悪くて聴き難かったのだ。
ネットでラジオを聴けるようになって、最近はラジオNIKKEI第二を聴くようになった。
お喋りが静かだし、コマーシャルも少ない。
何より音楽が流れる時間が長く、また、演歌がかからないのがいい。
問題があるとしたら、土日祝日は競馬中継になってしまうことくらいだ。
オレはギャンブルと女は苦手なのだ。マジ。





8.28
北関東の田舎町。
駅までの距離12km。
その間に、葬儀場が六軒ある。
コンビニの数と同じ。
ありえねえ。



アオバハゴロモ
夕方にマクロレンズで撮影。
薄暗かったので感度を上げてシャッター速度を稼いだ。
そのために、ちょっとノイズが目立つ。
内臓ストロボが動作しなかった。
レンズとの相性なのだろうか。
なら、外付けのストロボを使えば良かった。
まだまだだな。





8.27
庭の睡蓮鉢。葉っぱの上にアマガエルが乗っていた。



オレが楽しいと思うとき。

1、事業で儲けたとき。
2、女性にモテたとき。
3、小説が上手く書けたとき。

1があったのは、十数年も前のことで、
近頃はもう望むべくもない。
2は、オッサンと成り果てたオレには無縁の話。

可能性があるとしたら、3だけだ。
しかし、オレは子供の頃からムラッ気が強く、
いい時は滅法良いが、
悪いときはからきしダメというタイプ。
もちろん、ダメな時が殆どときたもんだ。

正直に言って、オレは小説を書くのが嫌いだ。
少なくとも、絵画彫刻、あるいは作陶、またはクラフト系の方が、
ずっと向いていると思う。
しかし、オレは小説を選んだ。
まさに選択ミス
痛恨のミス。
人生最大のミス。
ケロケロ。



ところで
1は未来の保障。
2は現在の認知。
3は過去の意義
を、暗示する。

オレに未来はない。
現在はボロボロ。
可能性があるとしたら過去。
生きてきた軌跡。
しかし、
いや、だからこそ、オレは過去が嫌いなのかもしれない。
それしか可能性がないというのに、
肝心のそれが甚だ疑問だからだ。
ケロケロ。





8.26
日曜日の度に用事が入るもので、ちっとも写真を撮りに行けない。
仕方がねえ。また庭のアサガオで誤魔化そう。



ゴーヤチップス(と、ビール)が、あまりに美味かったので、
再び作ってみた。
今度はでっかいヤツ丸ごと一本。
前回は薄く切ったために、カラッと揚がったが、
その分苦みが足りなかったので、少し厚めでチャレンジ。
しかーし!
何ごとも欲張っては駄目なようだ。
油に対して材料が多過ぎた上に、
厚めに切ったため、水分が飛ばず、
チップスとは縁遠い食料になってしまった。
いうなれば、ゴーヤの薄切り油地獄。
ベチャベチャネトネトクドクドニガニガ。
それでも、ゴーヤは美味い。
あの苦味がたまらねえ。

ところで、レンコンチップスもイケるらしい。
こちらは甘いそうだ。
オレは辛いモノや、苦いモノが好きだが、甘いモノも大好きだ。
ここはレンコンの産地だしね。

何ごとチャレンジだ。
アレでなければダメ。これでなければイヤ。
食にも表現にも、オレはそういうケチなこだわりを持ちたくない。
いつでも、どこでも、なんでもOKな男でいたいのだ。





8.24
暑い。
ハンパねえ。
報道によると、鮎も山女も水温が上がってタイヘンだという。
我が家のメダカもきっと暑いのだろう。
気の毒に。







8.23
別宅の庭が雑草!
30坪くらいあるだろうか。
全部雑草。
『雑草と言う名の植物はないんだよ』
昭和天皇は仰ったという。
失礼ながら陛下はご存じない。
雑草という名の植物はある。
そして、市井にも名もなき人がたくさんいるのだ。
That`s so!





上はニラの花。(別名雑草)
庭を歩くと、どうしても踏んでしまう。
なにしろ一面ニラなのだ。
そして歩いた後は、強烈なニラの匂い。

下はニラと並んではびこっている雑草。
名前は知らない。
蔓性の植物で、ニラと並んで庭を覆い尽くしている。





8.22
いつも見るブログで『ゴーヤーチップス』というものを知った。調べてみると調理は簡単そうだ。仕事がなくてヒマなので、昨夜作ってみた。
美味かった。
ごち!



皇居というと、二重橋。
でもよく写真に写っている二連の石橋は『正門石橋』で、
二重橋はその奥に隠れるようにある。
現在は一重の鉄橋だが、
かつては、橋の上に橋を架ける二重橋だったそうだ。
堀が深いため、そのような構造としたのである。





8.21
ここは、オレの、オレによる、オレのためのグチの吐き捨て場だとはいえ、あまりに少ないアクセス数を見る度に情けなくなってくる。誰かの役に立つどころか、暇つぶしにもなっていないという訳だ。
果たして、オレはこんなところで、こんなことをしている場合なのだろうかと考える。しかし、だからといって、どんなところで、どんなことをすればいいのか、皆目見当が付かない。なぜなら世間はオレを必用としていない。それが現実なのだ。(T_T)
合掌・チーン!







8.20
8月17日で紹介した小説のうち、夢野竹輪著:『井戸』は、まだネットに掲載されていた。こちら

小説には、書ける題材と、書きたくなる題材がある。
書きたくなる題材は魅力的に感じるものだ。しかし、それは往々にして自分の知らない世界であることが多い。ないものねだりは、自分が思っているより強くあるからだ。
背伸びは必要だ。しかし、結果を求めるのであれば、書ける題材、書きやすい題材を探すのが重要になってくる。
それは自らの中にある。感性の源を探すことだ。根のない表現に花は咲かない。



編集者から7ヵ月ぶりのメール。
先日送った作品の感想を頂いたのだ。

この前の作品を送ったのが7ヵ月前。
受信の知らせがあったきり、感想のメールはなかった。
そんなのケンケーねえ。
オレは書き手だ。
何があろうと作品を書くだけだ。
好きな女性に好きだと伝えたとする。
返事がなければ諦める。
催促するほど、オレは間抜けじゃない。
とはいえ、やはり落ち込んだ。
無視されたくらいだから余程出来が悪かったのだろうと考えたのだ。

今回の作品は、このままでは基準に満たないそうだ。
大幅な改稿を要求された。
オレもそうだろうと思っていた。

同じ公募に作品を二つ出した場合、
自信のある方が落選し、自信の無かった方が上の方まで残る、
そんな話をよく聞く。
オレにはそういう経験は一度もない。
オレは遅筆だから公募にふたつ出すほど書けないが
良いと思った作品は受賞し、
良くないと思った作品は落選した。
例外はない。
それは書き手として良いことだ。
しかし、自らの目の確かさに満足しつつ、
不意の僥倖にあずかれない不幸を嘆いているのもまた事実だ。

前作に感想を頂けなかったのは、
単に編集者が返信をしたつもりになっていただけだという。
下書きフォルダーに残っていたらしい。
この作品は、それなりに自信があったからショックだった。
情けないが、そのために書けなくなった。
(いや、家の中も滅茶苦茶だったのだ)
でも、次の作品を書くまで、催促は我慢しようと思った。
書き手は黙って書く。
それが書き手の進む道なのだ。
7ヵ月ぶりに貰った評価はまあまあ。
もう少し構成と文章を整理し、描写を充実させて欲しいという。
当然だろう。第一稿を送っているのだから。

今作も前作もひとまずそのまま置いておく。
直す前に次の作品を書く。
じっくり書く季節は過ぎた。
たくさん書いてこそ見えてくるモノがあるはずだ。
それが、オレの作戦なのである。






8.19
宮崎駿監督作品『風立ちぬ』における、喫煙シーンを観た日本禁煙学会が、配慮を要請した件について、オレの私見も書いておこう。
この問題は、要するに煙草がどうこうということではなく『表現の自由』がどこまで許されるか』と、いう普遍的かつ面倒な問題だということを念頭に置かなければならない。
結論からいうと、オレは表現するのは自由だけれども、全てにおいて自由ではないのだと考えている。
小説を書く上で、登場人物に法律違反をさせることがある。オレは、やはり好ましいことではなく、できる限り避けるべきだと考えている。それは自粛というイメージとはちょっと違う。
分かり難いかもしれないが、小説が法とモラル以前の存在であり、それを問う表現であるならば、法とモラルに準ずる訳にはいかない。それでは法とモラルを超えるどころか、法とモラルに屈してしまう。だから、表現者は法とモラルを無視すると同時に、意識しなければならないということだ。
いずれにしても、あらゆる表現は法とモラルの支配する世界の中で発表される。社会的なメディアを使って発表するなら、そのことにも留意しなければ、かえってメディアに利用されてしまうだろう。

もやは『表現だから何でもあり』の時代は過ぎ去りつつある。世界はそろそろ、そういう混沌というか、未熟から抜け出す時期に差し掛かっている。まあ、非常に抽象的な、それこそ何でもアリのような論調になってしまうが、成熟しつつある社会の中で、表現が、表現としてどこまでが許されるのか。それは表現者それぞれが、自らに問い、作品ごとにひとつの答えを出すしかないのだ。結果バカバカ煙草を吸うならそれで良い。ただし、そのことについての批判は受けなければならない。

『嫌なら見るな』
ネットの掲示板やブログなどでトラブルがあるたびに、こういうことをいう人がいるが、オレは賛成できない。それが映画だろうと、ブログ記事だろうと、掲示板での発言だろうと、公に向けて発表されたものなら、そのことについて責任が生じる。
『批判されるのが嫌なら発表するな』
ということなのだ。

なお、今回の騒動で、『時代劇の刀もダメということになる』という、論旨をよく見かけた。難しい問題だ。かつて、木村拓也が主演のドラマで、彼がバタフライナイフを格好よく使っていたシーンがあったという。それに影響されて、バタフライナイフがたくさん売れ、何か事件に繋がった記憶がある。その後、バタフライナイフは規制された。
時代劇の演出で、一度刀を相手に当てておき、それを改めて手前に引くことで、相手を斬り倒すという技法があるという。それは、実にリアリティのある演出法だそうだ。しかし、関係者はその演出法を自粛したという。リアルに人を殺すシーンは、お茶の間に流れる時代劇として、多くの人に不快感を与える危険性があるというのだ。記憶だから間違っているかもしれないが、少なくとも時代劇関係者は法とモラルに配慮している、ということになる。水戸黄門は立ち回りで峰打ちしか使わないのも同じ理由だろう。

アメリカ映画では、もう喫煙シーンは滅多に見られないという。もしある場合は、R指定になるそうだ。ワンピースのサンジもアメリカではタバコでなくチュッパチャップスを咥えているという。アメリカが正しいかどうかは知らない。でも、そういう現実もあるということだ。

ところでワンピースのサンジについて、タバコだからカッコイイのであって、チュッパチャップスでは絵にならないというファンもいるようだ。
では、ドカベンの岩鬼が咥えている葉っぱを、煙草にしたらどうだろう。いや、やはり葉っぱだからいいのだということになるに違いない。
何がいいたいのかというと、初めて見た絵は記憶に深く刷り込まれるということだ。
ジェームス・ボンドは、ショーンコネリーでなくてはならない。当時007ファンはよくいっていた。しかし、初めて見たボンドがロジャー・ムーアだったオレは、むしろコネリー・ボンドは違和感があった。
つまり、どうしても煙草でなければ・・・ということ自体、怪しいということが言いたい訳だ。







8.17
実業の仕事がない。
ならばと、歯を食いしばって書きかけの作品を仕上げた。
二日で20枚。
オレだってやればできるじゃねえか。
50枚の短編。
タイトルは『ギャラリー・ノベルズ』
連鎖倒産に巻き込まれた主人公のオレは、妻と諍いを起こし離婚すると、同級生の世話で、高校時代に住んでいた町に帰った。
オレは、かつて伝説のヤンキーとしてこの町に君臨していた。
古い仲間は皆親切にしてくれたが、オレはどうしても働く気になれなかった。
それでも、皆は辛抱強くオレを支えてくれた。しかし、それもやがて・・・
という話。
まあまあかな。



北関東の田舎町にある愛宕山。
13人の天狗が住むという。



近頃読んだ小説四作。
順不同。

ひとつめは、某小説誌にからランダムに選んで読んでみた。
ヘタクソな文章。ご都合主義のストーリー。
低能の登場人物。
冒頭1ページで挫折。


ふたつめは、夢野竹輪著:『井戸』
精神的に追い込まれた若い女性。
その様子を主に中年男の視点で語った作品。
中年男もまた妻の突然の自殺によって精神に病みかけた経験がある。
それぞれが抱える問題と苦しみについて、
ハーローの絶望の井戸をキーワードに、物語は進行する。
残念ながら途中から流し読みになってしまった。
文章の整理が足りないし、ストーリーの展開も巧みとはいえなかった。
書きたいことは分かるのだけれども、それが空回りしている印象だった。
静かな物語にするのか、ストーリー性で引っ張るのか、
どちらかにすれば良くなるような気がする。
しかし、非常に重く難しいテーマを内包しているので、
それを書き切るのはかなり困難だろう。
この作品は『作家でごはん』という、オレの嫌いな(でも便利な)サイトに掲載されていた。
感想を書こうとしたが、どうしても書けずに断念した。
なお、ハーローの絶望の井戸とは、
ハーローという科学者が猿を使って行った実験だそうだ。
猿を、目も見えず耳も聞こえず身体も動かせない状況に固定し、
栄養だけをチューブで胃に流し込み、数週間そのまま放置する。
猿はその結果精神に異常をきたす。
更に破壊された精神は生涯治ることはなかったことを確認した実験だそうだ。
この実験を超える衝撃を小説で表すのは難しい。


みっつめは、同じく『作家でごはん』に掲載中の作品。
清國ゑま著:『ほしがる』
こちらにはDというハンドルネームで感想を書いた。
独白調の作品は書きやすいのだけれども、
最後を纏めるのが難しい。
『ラストに圧倒的な一行を期待した』という感想があったが、
独白調ではそれが困難なのだ。
独白調というのは、基本的に主人公が既に知っていることを
読者に耳打ちするという構造になっている。
つまり、秘密を打ち明ける形なのだが、
その秘密が劇的であればあるほど、
『ほらこんなにすごい秘密なのよ』
と、主人公が得意になっているように読者が感じてしまい、
よって白けさせてしまう。
だから、作者はどうしても、抑え気味に書くようになる。
すると、今度は、斜に構えた、いわばスカしたポーズに思われてしまうのだ。
そこをどう捌くか。独白調のもっとも難しいところだろう。


よっつめは、たまたま似たような小説掲載サイトで読んだ作品。
和泉あかね著『ブルームーン』
何も起こらない小説である。
悲劇もなければ喜劇もない。
劇的な展開もなければ大袈裟な哀しみも、派手な喜びもない。
しかし、そこには確実に満ち足りた時間が流れている。
それが、読んでいて心地よかった。
密度の造り方が絶妙なのだ。
あるいは距離感。
最後のシーンがちょっと曖昧に流されたのが残念だった。
この小説に足りないものがあるとしたら、異物だろう。
小説とは変化を捉えるものである。
主人公は冒頭と結末とで、必ず変化していなければならない。
もし、変化していないのに、それが見事な小説として成立したなら、
それは、世紀の大傑作足り得るかもしれないくらいだ。
その変化が、この作品ではあまりにもささやかだ。
いや、別に劇的に変われといっている訳ではない。
村上春樹氏の短編に『レキシントンの幽霊』というのがあった。
変化の小さな作品である。
しかし、確かに主人公は冒頭と結末で変化している。
デビュー作『風の歌を聴け』もまた同じ。
『レキシントンの幽霊』では、その通り幽霊が出る。(気配だけだが)
『風の・・・』では、大きな事故が起こる。(たぶん)
それなりに、大きな事件がある。
この作品にはそれに相当するものがない。
事故や事件である必要はない。
ただ、異物が欲しいと思うのだ。
人生に紛れ込んだ異物こそ、主人公を変化させる最も大きな要因となる。
異物に対峙した人間を見事に描けるようになればデビューは近い。
そのためには、異物を嫌悪し、憎悪しながらも、
それを受け入れ、愛することが大事になるだろう。
言うまでもないが、異物は人の中にも外にもある。
小説とは、異物の正体を見極め、
それをペンで突き刺す行為でもあるのだ。





8.16
20年ほど前、オレはこの土地を買った。その地価が下がりに下がって、今は買値の3分の1。
一方、同じく20年ほど前、国の借金は300兆円だった。それが増えに増え、現在3倍の1.000兆円。
3分の1と、3倍。不思議な符合。いや必然なのかな。
いずれにしても国もオレも苦しい訳だ。



実業の仕事がなくて、ヒマなはずなのに、
妙な具合に忙しくて、ちっとも写真を撮りに行けない。
仕方がない、庭のアサガオで誤魔化そう。






って言うか、
宮崎駿さんや、スタジオジブリのみなさんが精魂込めてつくった映画に対して、
「煙草吸いすぎ」という陳腐なイチャモンしかつけられない禁煙学会のやつらって、
人間としてタコだよね。ほんと、腹立つわ。


以上、茂木健一郎氏のツイートより



『なぜ、ヤクザはいなくならないのか』
元公安調査庁の菅沼氏が特派員協会で行った講演で、
そのことについて述べていた。
日本にはヤクザに憧れる文化があるという。
高倉健や、菅原文太は言うに及ばず、
たとえば、映画『男はつらいよ』のフーテンの寅。
彼はヤクザであるという。
そして、観客は彼を歓待しているという。

ハリウッド映画がある。
アメリカが正義で、悪をこらしめるという構図がある。
たとえそれが正義であっても、暴力シーンを歓待するオレがいる。
力。暴力に対する憧憬がオレの中にあるということだ。
それが人々の心から消えない限り、紛争はなくならないだろう。

ひるがえって、茂木氏のツイート。
煙草が完全な悪であり、それを撲滅しようとするなら、
オレは禁煙学会のやり方を支持する。
悪いモノを、あたかも良いモノであるかのように描いてはならないのだ。

少なくとも、茂木氏の発言はあまりに情緒に偏り過ぎている。
『みなさんが丹精込めて作った』
『陳腐なイチャモン』
『人間としてタコ』
これらは、すべて、『感情が充填された言葉』であり、
煽情の意図が含まれている。
これでは、冷静な議論などできるはずもない。
科学者の使う言葉ではない。

冷静な議論、あるいは客観的な理論なしに、
禁煙学会を『人間としてタコ』と呼び、
よって、多くの人を自らの側に誘導しようとするのは、
ナチスの手法と何ら変わらない。

いくらその時代には煙草を吸うのが当たり前だったからといって、
その映画が製作されたのは現代だ。
そのことについての批判や議論があっても、なんら疑問はない。
茂木氏は、そのことについて、自らの意見を述べるべきなのだ。
これでは、仲間だから、仲間が一生懸命作ったからという理由だけで
彼らと、彼らの作品を擁護しているに過ぎず、
それは、女子中学生の仲良しグループを彷彿とさせる。
いや、それでは女子中学生に失礼か。

煙草も、暴力もない世界。
真の意味で平和で健康な世界とはそういうものだ。
そして、真の意味で平和で健康な世界を希求するなら、
それらを嫌悪しなければならない。
必要悪だとか、個人の自由だとか、表現だとか
様々な言い訳を用いて、自らの命を縮める行為や、
他人を力で従わせる行為を肯定してはならないのだ。

それは、ひどく退屈な世界だろう。
オレは、やはりごめん蒙りたい気がする。
しかしそれは、毒と暴力を肯定する思想なのだ。

もし、禁煙を叫ぶのであれば、
暴力反対を述べるのであれば、
そのことはきちんと自覚しなくてはならない。
暴力が善として描かれた映画を喜んで見ながら、
一方で暴力反対などというのは、ご都合主義に他ならない。
それは、人を殴るのは平気でも、自分が殴られるのは嫌だという理論なのだ。
自分は善で、相手は悪であるという戦争の最も根源的な理由なのだ。

茂木氏にいいたい。
相手を口汚く否定したところで、
自らが正しい証明にはならない。

科学者だというなら、
もう少し論理的になってもらいたいものだ。



元公安調査庁の菅沼氏が特派員協会で行った講演
Japanese Yakuza 2-6





これらは、すべて、『感情が充填された言葉』であり、

こちらのサイト
新しい詭弁の特徴のガイドラインを参考にしています。







8.15
友人の何人かは大型のバイクを手に入れ乗り回している。また先日はイギリス製のスポーツカーを手に入れた者もいる。正直羨ましくてしかたがなかった。ちゃんと子供を育てながら、趣味の世界も充実している。ああ、彼らは大人なのだと思っていた。それに比べてオレときたら・・・
とはいえ、オレにも良いことはあるようだ。
どうやらオレは、バイクやクルマの代わりに、いわば電車を買うことに成功したようだ。いや、オレが買った訳ではない。ウルトラスーパーチョーボンビーのオレにそんな高価なものが買えるはずがない。
お盆の最中に連絡があった。うれしくもあり、怖くもある。それでも、これはきっとベストの選択なのだ。
ただ、そのためにオレは完全なロクデナシに成り下がった。これは紛れもない事実だ。



ミョウガの花





8.14
朝、玄関先にセミが落ちていた。
死んでいる訳ではない。まだ寝ているのだ。
オレも久しぶりに7:00まで眠った。
北関東の田舎町。
光と風にほんの僅かに秋を感じる。








男と女がひとつの寝袋に入って夜空を見上げるという小説を読んだ。
面白かった。
で、思い出したのが、スローバラード。
似ているかと言われるとあまり似ていない。
それがまた面白い。






8.13
読まなければならない。
半ば使命感にかられて小説誌を開いた。
ミステリなのだ、ホラーなのだ、エンタメなのだ。
しかし・・・
最初の1ページで挫折。
安易な形容詞。手垢の付いた慣用句。説明のための説明。ご都合主義のストーリー。頭の悪い登場人物。
こんなものは小説とは呼ばない。
近代文学史以前の読物。いや、お話。
読者が馬鹿なのか、あるいは、読者を馬鹿にしているのか。
いずれにしても、馬鹿馬鹿しい限りだ。





秋元康のデビュー作。
色々言われるが、やはり彼は大した才人だと思う。





私は純文学が嫌いです
純文学は幼稚で 礼儀知らずで いい加減です
後ろ向きな姿勢と 無い物語
心知らずと 下心で出来ている

批判すると言い逃れをし 少し褒めるとつけあがる
エンタメだ ミステリだ エロ小説だと
はっきり口に出して笑う厚かましさ
私は はっきりいって ホラー小説家です

努力のかけらもない 忍耐の素振りばかり気にする
文章の深みも ストーリーも 何にも持っていない
そのくせ 上から見下ろすあの態度
書店売り場の足手まとい 図書館の陳列では悩みの種
いつも業界の問題児
そんな ブンガクみたいな そんなお勉強みたいな
そんな純文学が嫌いだ

私は思うのです
この世の中から純文作家が ひとりもいなくなってくれたらと
エンタメ作家だけの世の中だったら どんなに良いことでしょう
私は 純文学でデビューしなくて良かったと 胸を撫で下ろしています

わたっ! 私は純文学が嫌いだ
うん! 私は純文学が嫌いだ
純文学が世の中のためになったことがあるでしょうか
いいえ 純文学は私たちエンタメ作家の足を引っ張るだけです
偉そうで 息が臭い!
一人称 私小説 独特の文体
孤高 芸術性 売れなくてもいい これが文学だ
好きなものしか書きたがらない 面白いモノには知らん顔をする
芥川賞を獲れば済むと思っているところがずるい
何でも書く純文作家も嫌いだ

ペラペラと自己弁護だけは上手くなり 打ち合わせもせずブラブラしやがって
言い訳が上手く いつも評論家とメディアの側に付く
あの世間体を気にする態度が嫌だ
あの計算高い仕草が嫌だ
文章が不愉快だ 何が物語性の排除だ 何が言語芸術だ
何が人間と命の追求だ

そんな純文学のために 私たちエンタメ作家は
何にもする必要はありませんよ
第一私たちエンタメ作家が小説誌の売り上げを支えたところで
ひとりでもお礼をいう純文作家がいますか

これだけ純文作家がいながら
ひとりとして感謝する者はいないでしょう
だったっらいいじゃないですか それならそれで結構だ ね!
私たちエンタメ作家だけで 刹那的に書きましょう ね!

純文学は嫌いだ 純文は大っ嫌いだ
離せ! オレはエンタメ作家だぞ
誰が何と言おうと オレは純文学が嫌いだ
オレは本当に純文学が嫌いだあああああ!






8.12
実家に帰った。電車で行くのは久しぶり。ロクデナシのオレのこと。フーテンの寅になったような気分だった。



帰りの電車。
若い女性の隣に座った。
そこしか空いていなかったのだ。
次の駅でかなりの人数が下車した。
すかさず別の席に移動する女の子。
なんだよ、それ。
ありえねえ。(T_T)







8.10
やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい。
ホントかよ・・・



飲んだことを後悔したのはたくさんあるけど、
飲まなかったことを後悔した記憶はない。





8.9
昨日の朝日新聞で、東雅夫氏が『新・遠野物語』と題したインタビューを受けていた。片面全面に近い大きな記事である。
東氏といえば、『みちのく怪談』の提唱者であり、同名コンテンストの選者でもある。オレも一度応募したことがある。結果は落選だった。作品はこちら
インタビューの中で、東氏が遠野物語の99話目について語っていた。
明治の三陸大津波で妻を亡くした福二という男の話だという。概要はこんな感じだ。

福二は津波があった翌年の夏、浜で、霧の中から出てきた男女に会う。ひとりは死んだはずの妻で、もうひとりは、結婚前、仲が良かったという妻の男友達だった。その男も津波で死んだはずだった。福二は妻を呼びとめて、子供が可愛くないのかと問う。妻は泣いたが、そのまま男と去って行った。福二はひと晩、浜に立ち尽くした。

東氏は、この話に、妻を失った悲しさ、無念さを思うと同時に、せめて別の男とではあっても、幸せになって欲しいと願う人々の気持ちを感じるという。

オレの作品とひどく似た設定であるにも関わらず、対照的な印象が語られているのが面白い。(遠野物語は持っているが読んではいない。もしかすると類似を嫌われての落選だったかも:苦笑)
それはともかく、オレはこの『鬼の手形』を書いたとき、津波の臭いを消すことに腐心した。これはみちのく怪談であって、震災怪談ではないという意識があったのだ。この記事を読んで、受賞を目指すなら、はっきりとあの津波と書けば良かったのかもしれないと思った。でも、たとえ今、同じ話を書くとしても、オレはそうしないだろう。オレは作家であって、ルポライターではないからだ。





岩手の三石神社。
高橋克彦氏によると、氏が子供の頃には、
はっきりと鬼の手形が残されていたそうだ。






今日は確か大阪にいるAさんの誕生日。
オレのことはもう忘れてしまっただろう。
でも、それは『良いこと』に違いない。






8.8
はにわ公園である。
ハンムラビ法典ではない。

誰も間違えねえか・・・。







8.7
思うようにならねえ。
それが当たり前とはいえ気が滅入る。
鬱病になりそうだぜ。



休日によく行く『つくば』のショッピングモール。





8.6
『なんで、自分が正しいと言い切れるのよ』
学生時代、よく女の子に言われたものだった。

当時、食べ物(飲み物)を、ふたつに分類するクセがあった。
『ハードな食い物と、甘ったれた食い物』
たとえば、ビールはハードで、チューハイは甘ったれ。
彼女達はまた言った。
『どうして、ビールがハードで、チューハイが甘ったれなのよ』

『どうして・・・』
『なんで・・・』

彼女達は理由を必用としているのだ。それも、内部にではなく外部に。つまり、出典とか、先人や、先生の教えとか、場合によっては雑誌の記事とか、テレビ番組とか、そんなものに裏付けを求めているのだ。つまり、オレがいうことは信用できなくても、テレビのコメンテーターのいうことは信じるという訳だ。

彼女達は勉強がよくできた。まあ、三流ヘッポコ大学のことだから、できたといってもタカが知れているが、それでも、オレなどに比べれば遥かにできたし、知識もあった。
彼女たちは勉強することで、その立場を手に入れ、自己を確立した。
しかし、オレはそうではない。
勉強などくそくらえと思っていた。学校の成績なんて何とも思っていなかった。当然、テスト勉強などしたことがなかった。問題をわざわざ解く必用を感じなかった。テストには模範解答が用意されている。ならそれでいいじゃないかと思っていたのだ。問題を読み、回答を見、そして納得すれば済むことだ。

未知なる高みを目指すために、現在の知識を得る。
その重要性を知らない訳ではない。
しかし、彼女たちが、未知なる高みを目指していたとは思えない。
こう書くと、また『なんでそうだと言い切れるのよ』と言われるかもしれない。しかし、オレの推測はおそらく外れていないだろう。

自分の価値観を、誰か他の偉い人に支えて貰いたいという気持ちは分からなくもない。オレも、自分が言い放った暴言が、どこかの偉人が口にした格言に似ていたりすると、ほっとするものだ。しかし、それと同時に、オレはその偉人の言葉を知る前に、自分がそれを言い放ったことに、いつも深い満足感を覚える。

大事なのはオリジナルの価値観だ。借り物の真理ではない。格言や、ことわざ。あるいは故事。はたまた、本に書かれていることや、マスコミのいうことを引合いにだし、ドヤ顔で何かいう人がいる。少なくとも、それは評論家のすることであり、作家のすることではない。

価値観の基礎を成すのは直感だ。出典などでは断じてない。だから、オレの価値観に理由はなく、おそらく彼女達は今でもオレを理解できないだろう。
オレはそのことに満足しつつ、やはり寂しいと思っている。







8.5
『ウソを嫌い、日々ブレ続け』
立川談志がドラマになるという。新聞の見出しである。
ブレない人生とは、自分にウソをつく生き方だ。そうでないというなら、その者はよほど恵まれた環境にいるか、あるいは傲慢の輩か、自己欺瞞の徒か、はたまた、ただの間抜けである。
人間はあまりに矛盾が多い。だから、ある者は刹那主義に走り、ある者は禁欲的な生活を送る。そして、多くの者は矛盾に目をつぶり、あるいは気が付かずに生きている。
ウソを嫌えば、人間の矛盾が見えてくる。矛盾(ブレ)のない人生を送る人は嘘つきだ。ただし、その嘘に気が付いている者と、そうでない者とでは、意識のありように雲泥の差がある。前者は無口になり、後者は雄弁になる。人は自らの嘘に気付いたとき、無口にならざるを得ない。つまり恥を知るということだ。中には恥を知りつつ、恥をかくことを厭わない者もいる。立川談志や忌野清志郎がそうなのだと思う。
人間の矛盾を解決しようと、宗教が生まれ、哲学が発生し、学問が奨励された。しかし、どれもこれも、解決策を見出すには至っていない。人は今もブレ続けている。だから命が大事だといいながら、一方で武器の生産にまい進するのだ。このことは決して他人事ではない。自分だけは何も殺さないなどと、自らについた愚かなウソを信じているようでは話にならない。
盲目の最も大きな要因は、ウソと無学だ。オレは学問は苦手だ。だから、せいぜいウソには敏感でいたいものである。



キジのお母さん。
子供が餌をついばんでいる間、
こうして周囲を警戒していた。
母は強く、そして哀しい。







ロクデナシのオレにも、どうか恩赦を




8.4
つくばエクスプレス・研究学園駅近くの結婚式場。



スローシャッターで撮影。
連写になっているのに気付かず、
三脚を動かしてしまったことによる、偶然の一枚。





8.3
圧倒的な才能があれば、小説家としてデビューすることなど容易い。
ただ、運は必要だろう。時代との相性だったり、人との出会いといった類のものだ。実力だの、感性だの、場合によっては知識だの、そんなものはあって当たり前だ。

ところで、勘違いしている人が多いようだが、実力は磨くもので、感性は発揮するものだ。感性を磨き、実力を発揮するのではない。
感性を磨こうなどと思ってはならない。感性とは持って生まれたものであって、歳と共に摩耗することはあっても、増えたり、輝きを増すことはない。そう見えたとすれば、それは実力が磨かれて、感性が正しく発揮された結果だろう。
絵画や映画を見て、あるいは本を読んで感性を磨くなど、ちゃんちゃらおかしくてちゃんこ鍋でも食いたくなる。そんなことで磨かれる感性って、おめえ、どんだけ鈍いんだよ。
気を付けることだ。感性とは刀の刃に似て、扱いを間違えれば、あっという間になまくらになってしまう。だいたい発揮するに足る感性の持ち主が、その感性を磨こうなどと思うはずがない。鋭利な感性は、鞘を持たない両刃の剣だ。懐にあるだけで、持ち主を傷付ける。



庭の食虫植物。





8.2
怪しいアニメサイトで宇宙戦艦ヤマト2199を見ている。
『地球滅亡まであと〇〇〇日』
次回予告の最後にお決まりのセリフ。
なるほど、地球がピンチなのだから、当然オレ様もピンチな訳だ。
『自己破産まであと〇〇〇日』
エネルギー充填10%。
低い・・・。これじゃあ高卒ルーキーズの年収の方がまだ高い。
到底、波動砲は使えない。
それならワープで逃げるか。
日本の、世界の資本主義が、構造的欠陥のために低調になっているというなら、オレもまたその通りだと思う。
頑張れば何とかなるという人がいる。分かってないなとオレは思う。頑張って何とかなるなら苦労はない。そういうことを言うヤツは、たぶん限界まで頑張ったことのないヤツだ。限界は超えられない。超えられないから限界なのだ。この世はマンガじゃない。
違うかね、ヤマトの諸君。



正直、オレはもう終わっていると思うよ。
チェックメイトだ。





8.1
『アズラー』というのを知っているだろうか。
その仕掛け人だという人がラジオで話をしていた。何でも小豆を顔にくっつけて、ヒゲのように見せて写真を撮るのだという。カメラマンだという彼は、数年で1.600人もの人を撮影したらしい。サイトでモデルを募集し、それで応募してきた人の顔に小豆をくっつけて撮影するそうだ。馬鹿馬鹿しいと思いつつサイトを開くと、口の周りに小豆を付けた若い女性がいっぱい掲載されている。何でも応募してくる人の殆どは若い女性なのだそうだ。ありえねえ。

『ポートレート モデル 募集』
こんなキーワードで検索を掛けると、アマチュアカメラマンのサイトが結構な数、ヒットする。サイトを開くと、こちらもそれなりに応募者がいるようだ。まあ、裏では色々あるのだろうが。(何があるのか分からないが)

オレも秋になったら募集してみようかな。
興味のある方はヨロシク!(o^∇^o)ノ





ビール(その他の雑酒だが)が止められない。
マジでアル中だと思う。
小説を書く態勢にまったくならない。
オレはダメなヤツだ。






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