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2012年5月


5.31
今年も半分が過ぎた。今日は破産回避に向けた抜本的な資金繰りに行き、明日は新たな仕事の打ち合わせがある。

『いつの間に眠ったのだろうか。目を覚ますと深夜だった。池は静まり返っていた』
オレの受賞作『化身』の冒頭だ。執筆中、『池』という単語がそれにふさわしいか、とても迷った記憶がある。なにしろホラー小説だ。それにしては明るすぎると思ったのだ。イメージとしては『沼』だった。しかし、落ちたのは、どこまでも透き通る青い水に満ちた美しい池である。
先週、その『化身』を底本に、浄瑠璃が演奏された。三味線を抱いた語り手が言う。
『池は静まり返っていた』と。
場所も時間も状況もまったく異なるが、そのとき、オレにはその池が見えたような気がした。つまり、『池』という単語を選んだのは正解だったのだ。
デビューから三年。大阪空堀の直木記念館。再出発を期するに、これ以上適した場所はないだろう。




まるで結婚式みたいだ。
といえば、兎乃さんに叱られてしまうかな。








5.30
ブログをこの形式にして一年が過ぎた。オレにしては長続きしている方だと思う。
最も似たようなことはもっと前からやっていて、でも、数か月もすると、馬鹿みたいにひとりで何か書いている自分にうんざりして、そのたびにさっさと閉鎖したものだった。オレは始めるのも好きだけど、止めるのも好きなのだ。
変化するときのトキメキがたまらなくいい。始めるときの正のトキメキ。止めるときの負のトキメキ。そして性のトキメキが・・・というオヤジギャグはともかく、いつも同じ所にいて、同じことを繰り返しているうちに、全てを投げ出し、新しい池に飛び込みたくなるのだ。
もっとも、ブログを自分のサイトからフェイスブックに移したところで、何も変わりはしないことくらい分かっている。書いている自分が同じ自分である限り、何をやってもそれは同じ自分なのだ。
もし、本気で変わりたい、この池を出たいと思うなら、自分を変えなければならない。そうすることでしか、池を囲む平滑で高い壁を超えることはできないのである。



トノサマガエル。
ウシガエルを撮影したかったんだけど、
何分待ってもダメだった。

そろろろフェイスブックページに移行します。
登録しなくても読めるよね。






5.29
大阪は天王寺区、一心寺近くの通りを歩いているときのことだった。
朝から良く晴れていた。たぶん今年一番の暑さだったのではないだろうか。午前9:00。片側二車線の通りを走るクルマのウインドウが、既に高く昇った朝日を鋭く反射していた。
漆喰の白が美しい一心寺の壁伝いに続く歩道の先に、ふたりの中年女性がいた。いかにも『大阪のおばはん』という風情が好ましい。別に急ぐ旅ではなかったが、オレは熱心に話しながら歩く彼女たちを足早に追い抜いた。すると、その先に中年の男がいた。冴えない様子でうつむき加減に歩いているが、これまたいかにも大阪のおっちゃんである。どうやら先ほどのおばはんのどちらかの連れ合いらしい。
久し振りに訪れた大阪。しかし、街の雰囲気はすっかり変わっていた。聞こえる言葉が標準語なのだ。もちろん、件のおばはんをはじめ、耳を澄ませば友人同士の会話や、子供の声に、あの懐かしいイントネーションを聞くことができる。しかし、電車のアナウンスはもちろん、飲食店の店員も、誰も『おおきに』という人はいない。たった二日の滞在で何が分かると言われればそれまでだが、オレはこの土地の公用語が、大阪弁から標準語にとって代わられたのだと思わずにいられなかった。
緩い下り坂の先に信号があった。左に曲がる細い道を通る車はない。信号は赤だったが、オレはそのまま進もうかと思って足を止めた。数人の歩行者が行儀よく信号が青になるのを待っていたからだ。そこに、先ほどの大阪のおっちゃんが来た。俯きながら赤信号の灯る歩道を渡り始める。さすが大阪のおっちゃん! そう思った次の瞬間。背後から鋭い声が飛んだ。
『あかん!!!』
おっちゃんの連れ合いであるところの、大阪のおばはんの声だ。
『ああ、赤やったんか・・・』
俯きながら歩いていたおっちゃんが足を止める。赤信号に気が付かなかったのだ。
背後で立ち止まったおばはんは、それきりまた、何事もなかったように世間話に興じている。
『あかん』という一言だけで、信号が赤であること、渡ってはならないこと、危険であること、マナー違反であること。これらの一切を言い切ったおばはんの凄味と、大阪弁の奥深さ。
やがて信号が青に変わった。ビルの向こうに通天閣が見える。オレは少し速度を落として歩き始めた。
『ああ、大阪に来てよかった』
つくづくそう思いながら。



空堀の夜。
着物の美人とお酒。







5.28
大阪には恋人がいる。白く細い指に花の指輪が良く似合う美人さんだ。会ったことはないが、オレにはそのくらいお見通しなのだ。その彼女からメールを貰った。
『今、大阪においでなのですね』
白虹閉演後の夜。だがしかし、オレは携帯電話を持っていない。したがって、そのメールを見たのは翌日帰宅した後のことだった。
携帯電話さえあれば、あんな展開も、こんな進展もあったかと悔やみつつ、でも、ハゲでデブだとバレないで済んだことをビリケンさんに感謝するべきなのだろう。
どこまで本気で、どこまでジョーダンかはともかく、感慨深く不思議な夜だった。三味線の音色と、街の空気が、人と人との距離を縮めるのだろう。短い時間だったが、この先、オレの記憶に長く留まることは間違いなさそうだ。



オレはもう一度ここに行く。
かなり先のことになるかもしれないが。







5.26
『読者サービス』という言葉を聞いたのは今までに二度ある。一度目はまだアマチュアの頃、ある小説投稿サイトでのことだった。オレの作品は『読者サービスが足りない』という感想だった。
二度目はプロになってから、編集者に言われた。読者サービスをしろというより、そういうことも念頭においていいのではないか、というような口ぶりだった気がする。
前者のときには『馬鹿馬鹿しい』と口汚くののしったが、後者の場合はそうもいかず、本当にそんな用語があるのだと驚いたものだった。
言うまでもないが、オレは小説の中で読者にサービスしたりしない。そんな失礼なことをするほど、オレは偉くないのだ。
オレが小説を読むとき、一度だって作者にサービスを求めたことはない。もし、そんな気配が少しでも文章に見えたら、オレはその場で本を閉じるだろう。オレは書き手の本性が知りたい。本音で書かれた文章を読みたい。そして、できることならオレの価値観に何らかの影響を与えて欲しいと思う。
オレにとって、書くという行為は読者に挑むことと同義だ。オレの価値観を読み手に叩き付けるということだ。そこには遠慮もサービスもない。もし、読み手がオレに価値を見いだせないなら、それまでのことだ。ただし反論はする。そんなことが本来ダブーなのは分かっている。しかし時代は変わった。新しい試みも悪くないと思うのだ。読者だから作者だからという垣根を作らない。それがネット時代におけるひとつのありかただと思うのだ。怖いことではあるが。
このようなモノいいをすれば、ときに読み手は不快感を覚えるだろう。しかし、オレは読み手に媚びたくない。オレにとっての『読者サービス』とは、あくまで対等な立場で、読み手と対峙することに他ならないのだ。



名前が分からない。ただ青い花は好きだ。
ちかちゃん、ありがとね。






5.25
早いもので明日は『白虹』の開演日だ。大阪に行くのは二十数年ぶり三度目だろうか。一度は学生時代、自転車で四国からの帰り。二度目は勤め人時代に出張。一度目は大阪城に立ち寄り、二度目は道頓堀でカントダキ(関東炊き?)を食べた。まだ時間が早くて、コンニャクしか煮えてないという。しかたなく生ビールでコンニャクを三切れつまんだものだった。
昨日、朱川湊人氏の直木賞受賞作『花まんま』を読了した。見事な出来栄えで、おおいに参考になった。氏とは歳も同じで、出身の賞も似ている。比べるのも僭越だが、氏がストーリー寄り、オレは文章寄りの違いはあっても、共通するモノを感じた。
『花まんま』の舞台は通天閣の近くのようだ。オレも明日通天閣に行くつもりだ。大阪を舞台にした作品では、車谷長吉氏の直木賞受賞作『赤目四十八瀧心中未遂』が良かった。これまた偶然だが、オレのやまなし文学賞佳作作品『ハンザキ』もまた、三重県赤目を舞台のイメージとしている。そして、今回直木三十五記念館で、オレのデビュー作『化身』を底本のひとつとして、浄瑠璃が上演される。こじつけに違いないが、やはり大阪には縁を感じる。
ビリケンさんがつい先頃、オレと同じ三代目になったのも、これまた何かの縁かもしれない。バッチリ足を撫でてこよう。








5.24
拙作『斬首刀』には、小四郎という名の犬が登場する。ネタバレするようで申し訳ないが、これは主人公雷太の曽祖父の生まれ変わりであり、赤い天狗の化身という設定で書いている。しかし、残念ながらそのことを読み取ってくれた読者は多くないようだ。
総じて『読んで貰えていない』という印象を強く持っている。書き手の未熟を読者に転嫁するようで、今までこういったことは書かなかったのだが、それは本当にオレの未熟のためなのだろうかという思いがある。
『回りくどい話』『中途半端』『物足りない』『なんか違う』『きらめきの欠片もない』『感情移入ができない』『あまりお上手ではない』『ちょっとがっかり』『結論があやふやで未消化感がぬぐえない』『中途半端で良いとこなし』『あまりにもうーん』
本を読んで感想を書くサイトがあって、そこからの『斬首刀』に寄せられた感想を抜粋してみた。ネガティブな部分だけを取り上げたようにも見えるが、全般的にこのような感想の羅列だと言って間違いない。
はっきり言うが、『斬首刀』は、良い作品だ。そこいらの馬鹿馬鹿しいエンタメアホ小説と一緒にしてもらいたくない。
そんなことをよく自分の口から言えると、呆れている人もいるだろう。笑いたければ笑えばいい。オレは構わず言ってやる。
『すると〇〇は、人差し指を立てて、左右に振り、ちっちっち、と舌打ちする』
これが好きならそれを読めと。
単純で、極端で、山場てんこ盛りで、ズバリお好みで、結論がはっきりしている小説が好みなら、オレには手を出さないことだ。
戦争はいつの間にか遠く昔のことになりつつあるようだ。永遠の0という小説が売れているという。どうやら泣ける小説らしい。結構なことだ。でもね、泣かせるのは、創作技術では最も低いということくらいは知っておいた方がいい。そして戦争に限らず、物事を涙で滲んだ目で見れば、必ず歪みが出ることも付記しておく。ついでに、この世に結論はないことも。





5.23
『一生懸命働いても報われない社会』
たまたま通りかかったブログにそんな一文があった。ブログの主はメンズショップ(洋服店)を経営しているという。多くの個人事業主の実感だろう。
『頑張っている人に頑張れといってはならない』
そんなことが言われるようになって十年くらい経つだろうか。思えば以来この国の自殺者は年間3万人を超えるようになったような気がする。頑張ってどうにかなるなら、倒産していった個人事業主のほとんどがどうにかなっていたに違いない。
この国の空き家は全体の10%にも上るという。人口は既に減少に向かっている。それでもまだ雑木林を切り倒し、新築住宅やマンションの建築が行われている。今ある資産を活用することなく、ひたすた新緑を食い尽くす毛虫の群れのようだ。
『安く早く丈夫』
モノだけではない。人に対してもこれ以外の価値観をこの国は認めなかった。頑張っても報われない社会とそのこととが、密接に関係しているように思えてならない。何に対して金を払い、何のために金を稼ぐのか。最も根本的な理由が卑しいままなのだ。
取りついた木は、やがて葉を失い枯れるだろう。もし再生があるとしたら、新芽の尊さに気付き、それを大事に育てることしかない。しかし、おそらくそれは困難で、結局は、朽ち果てた後に芽吹くだろうまだ見ぬ種に期待する他なさそうだ。



北海道に竹林はないという。
なるほど、考えてみれば竹は南の風土が良く似合う。




飛び上がるボラ。体長40pくらいだろうか。
霞ヶ浦にて撮影。





推敲について。


5.22
『すると〇〇は、人差し指を立てて、左右に振り、ちっちっち、と舌打ちする』
『××は受話器を置くと、がっくりと肩を落とした』

それぞれ、著名な賞を獲った作品からと、某売れっ子作家が小説誌に掲載した作品からの抜粋。
こんなもの、小説文とは言わない。オレなら絶対に書かない。はっきり言う。ふざけんな。
特に前者。何だこれ?まるで小学生の作文だな。アホか。小説誌に堂々と掲載して、よく恥ずかしくないもんだ。安物のドラマの原作でも書くことをお勧めする。



オオヨシキリが叫ぶ。
オレは吠える。
遠吠えだって構うもんか。







5.21
金環日食だという。どうせ曇りだろうと、高をくくっていたら、今朝の北関東はよく晴れている。娘が『太陽が見える定規』というのを持っていたので、借りて見たら右上が確かに欠けていた。こんなによく見えるならケチケチせずに、日食メガネを買えば良かったと思っても後の祭りである。サングラスに釣り用の偏光グラスを重ねて見れば、何とかなるかもしれないと思いつつ、今は厚めの紙に小さな穴を開け、反対側に置いた白い紙に太陽を投影している。こんなモノでも欠け具合はよく見える。
プロットを書かなければならないといいつつ、何日経っただろうか。構想はほぼ固まっているので、あとは形にするだけなのだが、どうにも筆を持つ気になれない。疲れている上に、何度もハネられているから臆病になっているのだ。
もともと、思いついた一作を書き終えなければ、次に進めないタイプである。たくさんのプロットの中から最善のモノを選ぶなどという器用なマネはできないのだ。



ナナホシテントウ。
ヨーロッパでは、婦人の肩に止まると、
その婦人は幸せになるという。





5.19
先日のETVで、貧困にあえぐ女性のことを取り上げていた。また、生活保護受給者の数が戦後最高になったという。この十年にわたって、年間三万人の自殺者がいて、更に就職活動に際しての自殺者が急増しているという。この国には夢も希望もないという訳だ。
どの国でも、どの時代でも、弱者はいつだって多数派だ。だからといって、現代においても、なぜ弱者は弱者なのだろう。民主主義とは数の原理で成り立っている。だったら弱者が弱者のために行う政治がなぜ実現されないのだろうか。
ドジョウ総理は分厚い中間層の再生を掲げている。だが、国会の議場には、再生されるべき中間層はいない。
貧困にあえぐ者を助けるのは、本来貧困にあえぐその人であるべきだ。しかし、与党が『貧困党』になる気配はない。弱者は何人集まったところで烏合の衆でしかないらしい。オレもまた似たようなものかもしれない。しかし、小なりとはいえ、発言できる、発信できる立場に立ったからには、たとえ遠吠えであっても吠え続けたいと思っている。



シジュウカラ。

フェイスブックページを始めた。
個人ページではないので、アカウントがなくても
見たりコメントを書き込んだりできると思うのだがどうだろう。










5.18
日経新聞の記事によると、2011年末の日本のGDPは468兆円だったそうだ。これは二十年前とほぼ同じ数字だという。更にその間、株価は1/4になり、累積赤字は3倍になったそうだ。先進国の中にあっても、こんな国は日本くらいらしい。この二十年のGDPでみれば、米国は2.5倍、オーストラリアも3.3倍。そして中国は約6.7倍になり日本を抜いたという。
オレがこの繊維関係の事業を始めて二十年になる。もともと繊維産業が盛んな土地で、縫製業を営む事業所は当時40数件あった。それが二十年経って、残っているのは僅か4、5軒である。洋服の値段はその間、下がりに下がった。業界は、より安く作るために、金を払って海外に仕事と技術を売った。間抜けな話だ。木に登って自分が立っている枝を切り落としたようなものだ。それは繊維業界だけに限ったことではない。まあ、理由がない訳ではない。この国は己の身の丈を超えてしまったのだろう。身の丈を超えた暮らしを維持するためには他に方法がなかったのだ。
この国の身の丈とはどのくらいなのだろうか。人口でいえば今の半分くらいがいいところかもしれない。江戸時代で3.000万人くらいだったようだから、あるいはそれくらいだろうか。
国土が本来有する包容力。つまり人間が自然からの恵みで暮らせる量を超えた人口と都市を維持するためには、他の国からの搾取が欠かせない。アメリカでさえ、自国だけではあれだけの贅沢な暮らしを維持するのは困難なはずである。
この国は容量を超えてしまったのか、あるいは、更に発展することで、それらの問題が解決するのかオレには分からない。ただ、再生を期するにあたって、農業や漁業の一次産業は最も重要なポイントになることは間違いないと思う。
都市を支えるのはそこで働く人間かもしれないが、その人間を支えるのは地方であり、自然の恵みである。都市は、地方を、自然を、ないがしろにし過ぎた。自分たちの豊かさばかりを追求し、地方の自然を破壊し、安く買い叩いた。挙句、彼らは帰る場所を失ったのだ。年間3万人という自殺者は、都市で失敗した者が地方に帰れなくなったことの結果に違いない。
かつて、古代ギリシャは自国の森林を全て伐採し、そのために滅んだのだという説があるそうだ。それに似ているような気がしてならない。









5.17
実業の仕事で良さそうな話があった。一喜一憂が良くないことは分かっているけど、必要以上に気分が上下するのは、狭く不安定な足場に立って、ようやく生きているからだろう。ホリエモンじゃないけど、オン・ザ・エッジだ。



メスを探して縄張りを飛行するクマバチ。
オスは毒針を持たないそうだ。







5.16
経済的に破たんした。 別に自己破産したのでも、任意整理したのでもない。生きる道はまだ残されていて、それを選んだのだ。しかし、それでも残念であることに変わりない。実に残念だ。残念極まる。



必ず復讐してやる。







5.15
一日空いたな。むしろそれが普通か・・・。
昨夜、新作のプロットに取り掛かるつもりが、フェイスブックのアカウントを作成していて、何もできなかった。
ヤル気あるのかと問うなかれ。賞をふたつ頂いて、本を三冊上梓した。それでも世間は、オレを認めなかった。簡単に次に行けるほどオレは図太くない。これがラストチャンスだと思えばなおさらだ。



アオサギ








5.13
オレの家は田舎の住宅地の隅にあって、西側は空き地になっている。そのために筑波山から加波山へと連なる峰々がよく見える。
その山に太陽が沈むのを待って、車で尾根に登ると、まだそこには夕日が輝いている。特にこの季節は、田に張られた水に夕日が反射する景色が広がっている。
筑波山は関東平野の北東の外れにあって、遠く富士山も見えるくらいだから、平野に沈む落日を見るのにおいては、あるいは日本一かもしれない。オレはこの景色が好きで、この季節なると、よく出掛けるのだが、田植え直後であること、良く晴れていていること、仕事の都合が付くことなど、条件が合致する日は意外に少ない。
今年は一眼レフで撮影できて良かった。なのに、撮影を始めてすぐ、電池切れの警告が出た。肝心なときに電池切れを起こすのはいつものことだけれども、なぜ予備の電池を持っていかないのか、自分のことながらオレにはどうもよくわからねえ。



家の前から山が見える。
この向こうに夕日が沈むのを待って出掛けるのだ。

  

 

大きな画像にリンクしています。
遠く富士山が見えるのが分かるだろうか。
一昨年だったか、同じ景色をコンデジで撮影した。
かなり良く撮れたと思っていたけど、比べてみると全然ダメだ。
夕日は誰がどう撮ってもそれなりに写るものだとはいえ、
やっぱ一眼の描写力は圧倒的だね。







5.12
先月からブログのトップで紹介している『白虹』
気が付けば二週間後に迫ってきた。オレの作品を元にした浄瑠璃が、直木三十五記念館で上演されるという。こんな機会でもなければ、大阪に行くことはないだろう。
色々な想いがある。危機感がある。何かを変えなければならない、変わらなければならない。もちろん、これを契機に劇的な変化が訪れることなどありはしない。でも、あらゆる意味でひとつの区切りを付ける良いチャンスにしたいと思っている。
大阪にはまだ会ったことのない知り合いがいる。今はまだ見知らぬ人がいる。もし良かったら、会場でお会いしましょう。



オオヨシキリ
つくばの貯水池で、大声を張り上げていた。











5.11
毎日毎日愚痴ばかりだ。我ながらザリウンだぜ。



向こうへ行きたいなら、
自らの手で扉を開けることだ。







5.10
夜食をとる日が何日か続いている。ストレスだと思う。夕食が少量しか食べられない上に、夜更かしするもので、寝る前に腹が減るのだ。
昨夜はついに、インスタントラーメンに手を出した。深夜零時過ぎのことだ。小雨が降っていた。鍋を持って玄関を出る。ポーチの下に立ち、湿った夜風に吹かれながら食べるラーメンは格別に美味いけれども、健康にも格別に悪いだろう。
人生を間違えた、あるいは失敗したという思いが強い。強迫観念というヤツだ。まあ、半分は事実なのだから仕方がない。
夜食を食べるときはなぜか穏やかな気持ちになれる。酒を飲むより効果的なようだ。ただ、短時間で終わってしまうのが残念でならない。



たんぽぽが好きだ。
花もいいけど、綿帽子もいい。







5.9
フェイスブックのアカウントを削除してから10日ほど経つ。とはいえ、実際にフェイスブックのデータから抹消されるのは申請から2週間掛かるというから、まだ数日が必要だ。
アカウントが完全に無くなったら、もう一度、今度はちゃんと本名で登録するつもりだ。facebookページという形式なら、アカウントを持っていない人も閲覧でき、ペンネームでもOKらしい。
ただ、いくら調べても、正直よく分からない。だから不安になる。面倒になる。何のためなのだろうと思う。そして、ついにはこうつぶやく。意味がわからねえ。



筑波山系の朝日峠から東京方面。
左端が土浦の街の灯。木の下にあるのが霞ヶ浦。
冬の晴れた日には富士山や、新宿の高層ビルが見える。
来年にもこの下をトンネルが通る。
オレがこの土地に来た時から、早期実現の看板がいくつも立っていた。
まさか本当に実現するとは思わなかった。
社会は1.000兆円の借金を抱え、それでも前進を続けている。
オレばかりが停滞し、取り残されているように感じてならない。



増えたのは借金と白髪とハゲ。
そんなのばかりだ。
ああ、脂肪も増えたな。







5.8
昨夜のテレビに百田尚紀氏が出ていた。『永遠の0』は百万部売れたという。ゼロ戦の話だと聞いている。読んではいないけれども、今のオレには書けそうもない。
先日、時代物のプロットを書いた。書き切れればかなりの出来になる手応えはあったし、編集の許可も下りた。だが、オレは打ち合わせの席で、出したプロットを引っ込めた。取材や時代考証を思うと、費用的、時間的に無理なのだ。
『こんな作品はオレには書けない』人の小説を読んで思うことがある。それは事実だろう。しかし、だからといって自作とは何の関係もない。オレはオレの小説を書くだけだ。そして、それを読んだどこかの書き手が、『こんな作品はオレには書けない』と思うのなら、なお良いというに過ぎない。











5.7
5月6日13:00頃、雹が降った。山の向こうでは竜巻が発生したという。たくさんの木の葉や、ゴミが空から落ちてきた。

 



だんだん大きくなり、水たまりに落ちても破棄力抜群



そして、ついにこの大きさとなり・・・



メダカ池に降り注ぐ。



睡蓮の葉は、ずたずたになった。



ありえねえ・・・








5.6
牛久にある小川芋銭記念館『雲魚亭』に行った。小さいけれども風情のある家がそのまま記念館となっている。入館料無料。それどころか受付もなく、それを担当する人もなく、ただ、玄関に置いてあるノートに名前を書くだけだった。今は亡き主の人柄を忍ばせるようで、とても好ましかった。





敷地を出ると眼下に牛久沼が見える。
今は木が茂って視界を妨げているが、
かつては、雲魚亭の縁側からも、
このような景色が望めたのだろう。







5.5
こどもの日。別にカンケーねえ、と呟きつつ、ブログを更新する春の湊。
意味不明のところは、しずかちゃんに免じて許してもらうとして、つまり、オレのハートも緩やかに休みって訳だ。



ビンボー花
いや、ハルジオン。

睡蓮の苗を買った。
黄色の花が咲くという。
しかし、一週間経つのに芽が出る気配がない。
こりゃ、枯れてるな。
ありえねえ。






5.4
餃子を作った。ちょとヘンだけど、市販の皮を一個につき二枚使っている。量が多いから包むのが面倒なのだ。昨夜は挽肉1s、白菜1/4、ニラ1把、ネギ1本で皮90枚だった。一個あたりのボリュームは、ラーメン店の三倍くらいはあると思う。大食いのオレでも15個食べれば満腹になる。
最もプロの料理人なら餃子の90個くらいあっという間に包むだろう。中学のとき、横浜駅西口にある自転車店によく通っていた。そこの社長がたまに近くの中華料理店に連れていってくれた。中国語が飛び交う店の片隅で、女将さんがシュウマイを包んでいた。餃子を作るたび、その手つきを思い出す。





餃子というより、小ぶりの肉まんに近い。



コゲラ







5.3
昨日ラジオを聴いていた。イマワノ・キヨシロー特集だという。亡くなって3年目の命日なのだ。
15歳の春。オレはフォークソングをよく聴いていた。四畳半フォークに代表されるアレである。良い歌だと思っていた。だが、あれこそ嘘は耳に心地よい代表だった。キヨシローを聴かなかったら、オレは作家になれなかったと断言してもいい。フォークソングを始め、多くの歌(歌詞)は嘘ばかりだ。小説に嘘(イメージ)は大敵なのだ。



キヨシローが死んで数日後、オレはホラ大受賞の電話を貰った。
有名になってキヨシローと会うはずだったのに、
死亡記事と受賞記事という形で、同じ新聞紙上に掲載されるとは皮肉なものだ。





ネコ






5.2
いよいよ追い込まれた感じだ。何度目だろう。これまではどうにか乗り切ってきたつもりだったが、振り返ってみると、目をつぶってやり過ごしてきただけというのが現実のようだ。
オレもいい歳になってきた。残された時間は多くない。こう書けば叱られてしまうだろうね。まだまだできる。可能性はある。しかし、力が出ない。怠けているのか、本当に疲労こんぱいしているのか、自分でもよく分からない。
『大丈夫、何とかなりますよ』
わざわざ海外から電話をくれた人がいる。たった一度会っただけなのに、オレを心配してくれたのだ。
時折、氏の言葉と声を思い出す。
『何とかなる』
これは確かに真実なのだろう。



アオサギ






5.1
アマチュアの頃は、――こう書くとまるでいっぱしのプロ作家のようだけど――執筆時間の半分以上の休息が必要だった。つまり、半年かけて作品を仕上げると、3ヵ月以上休まないと疲れが抜けず、次の作品に取り掛かることができなかった。
デビュー後はそれどころではなかったけれども、実業の仕事を半分に減らしたために何とか乗り切れたのである。今のところその反動が悪い意味で出ているようだ。ただ、あくまで今のところということであり、この先のことは分からない。どっちにしろ、あのとき、もっとマイペースで書いておけばと思ったところで、取り返しはつかないのだから仕方がない。
『斬首刀』の初稿の筆を置いてから一年半近く、ゲラを終えてから半年が過ぎた。必要な休息期間が前述の通りだとすれば、そろろろ筆を持っても良い頃だ。
まさか、書き方を忘れたりはしていないだろう。



北関東の田舎町。
梨の花が咲いている。
葉の色が実と同じなのが面白い。







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